黎明

mudan tensai genkin desu -yuki

―――― 求める。

時折、どうしようもない焦燥に駆られることがある。
精神だけが何処かに飛んでいきそうな息苦しさ。決して癒されない渇き。
空気を求めて喘ぐ魚のように、欠けたるものを探して暗闇の中を彷徨う。
「オスカー……」
「―― 何か仰いました? ユディ様」
装置に向かい、エギューラ値を測定していた女が顔を上げた。
その声に呼び起こされユディは目を開ける。稀有なる美貌。闇色の瞳が茫洋と辺りを見回した。
「私? 何か言った?」
「誰かの名を呼んでらしたような……」
「夢でも見ていたんでしょう。それよりもういいの?」
異階位を持つ聖女の問いに、白衣の女は画面に目を戻すと慌てて頷く。
ユディはけだるげな溜息をつくと銀色の椅子から立ち上がった。
彼女の体に繋がったままの透明の糸が数千、淡い白光を帯びてドレスのように広がる。
その様はまるで蜘蛛の糸を纏う女王に似て異様な神秘に満ちていた。研究員たちの視線が集まると聖女は笑う。
「もう充分溜まったのでしょう? 早くこれらを外して欲しいのだけれど。何処にも行けないわ」



今はもうほとんどの信仰が死に絶えた大陸。
人間の生が統制された社会において、唯一残った宗教は「テドラ」と呼ばれる神秘思想だ。
そのテドラの中枢に立つ一人であり、未知数の奇跡を以って軍の侵攻を留め続ける女は、自分の体から次々切り離されていく糸を見て小さく溜息をついた。言葉に出来ない渇望がまた胸を焼く。
―――― 求める。
何を求めているのかは分からない。ただ魂が飢えて咽び泣く。
見たい。触れたい。帰りたい。
正体の分からぬ欠乏。それは或いは生まれた時に、失ってしまったものを探しているのかもしれなかった。



奇跡の元となる「エギューラ」をほとんど吸い出されたユディは、研究所の自室に戻ると転寝をした。
月に一度行うこの補給行為は、テドラの態勢を支える為に不可欠な行為ではあるが、いささかの疲労を覚えることもまた事実だ。
これなら彼女自身が防御システムに繋がっていた方が余程楽である。
もっともそれをすると、彼女は本当に何処にも行けなくなってしまうのだが。
「ユディ様、いらっしゃいますか」
「いる」
ドアを叩く音と共に顔を覗かせたのは一人の少女だ。ユディほどではないがエギューラを持つ少女。
戦闘成績もかなりのものらしいが、それを気にしたことはない。ユディにとって少女は、地上のことをよく教えてくれる得がたい友人でしかなかった。
少女は寝台に転がったままのユディを心配そうな目で見やると、白い額に手をあててくる。
「体調が優れないのではないですか?」
「平気よ。それより何か……本が読みたいわ。恋愛小説とか」
「恋愛小説ぅ?」
素っ頓狂な声がおかしくてユディは吹き出した。少女は本気で顔を顰めると「熱でもあるのでは?」と聞いてくる。
「熱はないって。それより何だか分からないけど、そういう話を読みたい気分なの。何か持っていない?」
「持っていません。私物はここに来た時にみな処分しましたから」
「なら買いに行きましょうか」
「え!?」
唖然とする少女を前に、ユディは寝台から飛び起きた。白い聖衣を見下ろし眉を寄せる。
「この服じゃ駄目ね。すぐ軍に捕まってしまうわ。……裾を短くすればいいかしら」
「む、無理ですよ! それくらいじゃ! まずばれますって!」
「え。どんな服ならばれない?」
とんでもない提案を少女は必死に留めようとしたが、聖女はまったく聞き耳を持たない。

やがて一時間後。
「一人で地上に行かれるくらいなら自分もついて行く」とのことで、彼女はユディに平服を着せると共に聖域を出た。
勿論他の人間たちは誰もこの外出を知らない。



少女の選んだ町は、軍の支配が比較的薄い寂れ気味の町だった。
色あせた背表紙の本ばかりが並んでいる小さな本屋で、彼女は文学としても名高い恋愛小説を選び出すと、それをユディに渡す。
「これ、面白い?」
「分かりません。そういうものって、そこからどれだけ自分が何かを汲みだせるかで評価が違ってきますから」
「共感意識? それとも教養?」
「どちらも。もしくは反感かもしれません」
「あ、貴女は反感を持ったのね」
ユディが苦笑すると十代半ばの少女は苦々しい顔になった。まさしく図星だったのだろう。
あまり恋愛ごとに興味がなさそうな彼女を置いて、ユディは会計を済ますと本を胸の中に抱え込む。
二人は行き交う人もまばらな大通りを並んで歩き始めた。ところどころ舗装が剥げた埃っぽい道を少女は感情を抑えた目で見下ろす。
「結局、人を管理すると言っても人の暮らしがよくなるわけではないんですよね。
 この町だって軍の支配を受けているけれど、それで豊かになるわけではない」
「そんなことを地上で口に出すと捕まるわ。せっかく服を変えたのに」
「……すみません」
事情があってテドラに逃げ込んできた少女。彼女は今の地上の有様に色々と思うことがあるのだろう。
その思うところの大半が軍への反感であることをユディは気付いていたが、だからと言ってテドラに絶対の正義があるわけではない。
つまるところこれは単なる勢力争いなのだ。
今現在テドラが地下で息を潜め、地上では軍が優位を保っているというだけのことで、二つの勢力が善悪で分かれているわけでは微塵もない。
これから先どうなるのか。迷走する社会において、地下の要人である聖女は色あせた一冊を抱える。



―――― 渇えている。
それさえあれば他の何も惜しくないものを、彼女は失ってしまっている。
苦しくて苦しくて仕方ないのに思い出せない。手を伸ばしても誰もいない。
だからせめて、この飢餓の正体を知りたいのだ。
それにあてはまる言葉を見出せば、きっと彼女は一から変わってしまうだろう。
そんな日が来ることが怖くて、だが探さずにはいられなかった。



長い黒髪が乾いた風に舞う。
ユディは白い手でそれを押さえて、埃から目を庇おうと顔を伏せた。罅割れた道を睨んで、前から来た通行人を左に避ける。
そして、足を止めた。
振り返り、顔を上げる。
―――― 見たいと思った。
理由は分からない。言葉はない。
ただ何故か惹かれたその相手は、やはり同じように足を止め、青い瞳で彼女を見下ろしていた。
少し驚いたような顔。端正な顔立ちをした若い男は、この町の住人ではないらしく垢抜けた服装をしている。
よく鍛えられた体。均整の取れた長身の彼は、何処か胸の熱くなる懐かしさを感じさせた。
一瞬の沈黙。
正体の分からぬ飢えを探るように、男はしばらくの無言の後、彼女へと手を伸ばしてくる。
覚えのある手。
狂いそうなほど欲しかったその手に、ユディはおそるおそる腕を上げた。震える指先が男の手に近づく。






突然立ち止まった連れに、少女は困惑を通り越して激しい混乱に陥っていた。
一体この男が何だというのか。まさか彼女の知り合いのはずがない。
飛び抜けたエギューラを持つユディは、幼い頃から男の近づけない環境で過ごしてきたのだ。
テドラは彼女の力を保つ為に、その白い手を異性に触らせることさえ否定し続けていた。

少女は男の顔を盗み見る。秀麗な顔をしているが、そこに潜むものは精悍さだ。
そして男がユディに手を伸ばした時、少女はその袖口にあるものに気付いてしまった。たちまち顔から血の気が引く。
「だ、駄目です!」
男に触れようとしているユディに飛びつくと、少女は体格の変わらぬ女を引き摺ってその場を逃げ出した。
相手の方も連れがいたのか、道の先から戻ってきた少年が怪訝そうな顔で男に何かを問うている。
少女は半ば忘我しているユディを連れて一番近くの角を曲がりながら、声を殺してその耳に囁いた。
「逃げますよ、ユディ様。あの男は……軍の将官です」
「え?」
袖口にあったものは軍の階級章だ。完全なる統制を意味する五角形。
それはまだ若く見える男が軍上層部に所属することを示している。つまりは彼女たちを捕らえようとする天敵だ。
少女は追われていないか何度も振り返りながら、町の路地をジグザグに曲がった。
そのまま逃げて逃げて……ようやく足を止めると、彼女はユディを覗きこむ。
「一体どうなさったんですか。あの男がどうしたんです?」
「あの人、軍なの?」
「ええ。間違いありません」
「なら私の力は―――― いつかあの人を殺すのかしら」
その言葉は、まるで深淵のようだった。
暗く、空っぽで、絶望だけが降り注いでいる。
理解できない重み。その響きに少女はぞっとして闇色の瞳を見た。ユディは黒い睫毛を伏せると、腕の中の本に目を落とす。

そして一月後、聖女は防御システムの一部となった。






「また被害が出たぞ。第六支部が全滅した」
「テドラか?」
「ああ」
友人の渋面はここ数ヶ月、いつものものとなってしまっている。
男はつまらなそうに相槌を打つと、投げ出された報告書に目を通した。被害の概要を確認して頷く。
「テドラの防御システムに引っかかったのか。あれはエギューラを使った攻撃の粋だろう? 近づけば死ぬ」
「まったくだ。もっともその核になっているのは一人の人間らしいけどな」
「人間?」
軍の中でも異端に位置する彼には、全ての情報は回って来ない。
高い階級を与えられているのは、特殊な異能者である彼を逃がさない為の厚遇であり、しかし男はその欺瞞を感じ取っていた。
今も初めて聞く意外な話に彼は青い目を軽く瞠る。
「一人であれを保っているのか。凄いな。そいつも異能者か」
「テドラの中でもエギューラが跳びぬけてる人間らしい。化け物だな。
 このままそいつをどうにも出来なかったら、きっとお前に任務が回ってくるぞ。エギューラを無効化出来る異能は軍ではお前だけだ」
「そうかもしれんな」
だが、いくら無効化出来るといってもその範囲には限度がある。
やるならばかなりの人数を動員しなければ、テドラの中枢には届かないだろう。男は長い指で書類を弾いた。
冷めてしまったお茶を手に、彼は友人を見やるとふと呟く。
「そう言えばこの前、『運命』を見た」
「運命? 何だそれは」
―――― そうとしか言いようがない。
小さな町ですれ違った女。闇色の瞳を見た時、まるでずっと探していたかのような感慨に捕らわれたのだ。
あの時は自分でもその理由が分からなくて、思わず立ち尽くしてしまった。
後から思えばどうして追いかけて名を聞かなかったのか、そのことが非常に悔やまれる。
少し浮世離れした美しい女だった。どこかの箱入り娘が屋敷を抜け出してでもいたのだろうか。
「……ティナーシャ」
「ん? 何か言ったか?」
友人の問いに男は意識を引き戻す。
一瞬の夢。それは泡沫のように砕けて消え去った。彼は痛む頭を押さえて首を傾ぐ。
「いや? 何も言ってはいないが」






―――― 求める。
強く強く求める。狂うほどに、存在を賭けて。
闇の中には無限の時が満ちている。無数の糸が力を広げていく。
「あいしている」
口の中で呟く言葉は、声にはならない。それは彼女の夢でのみ弾けて消える。
目は開かない。何も見えない。ただ彼女は核として敵を退け続ける。
「あいしている……あいしている…………ずっと……」
懐かしい名。今は思い出せない名に涙が零れた。透明の雫は糸に覆われた体に落ち形を失う。

それは激しい闘争が大陸を彩り始める夜明け、黎明の時であった。