鳥籠の女 00 - 序章

mudan tensai genkin desu -yuki

眠りが体の隅々までを支配している。
体が重い。腕を上げることが出来ない。
ティナーシャは広い寝台の上、黙って身じろぎした。仰向けになり硝子の嵌め込まれた高い天井を仰ぐ。
すっかり見慣れた鳥籠。彼女が留まり続ける部屋の中で、その窓だけは唯一彼女の気に入ったものであった。
ティナーシャはそれから十五分ほどかけてようやく体を起こすと、欠伸と共に伸びをする。
白い薄絹の夜着のまま少女姿の彼女は浴室へ向かうと、そこで覚醒の為の時間を過ごした。

広い部屋は彼女以外誰もいない。時折許可を得た来客が訪れるだけだ。
ただその来客も皇帝の命によって来訪していることがほとんどであろう。
ティナーシャは皮肉げな微笑を浮かべながら、濡れた裸身で寝台へと戻る。
己の寵愛を拒否した彼女のもとに、何故皇帝が人を向かわせるのか、その理由を彼女は知っている。
知ってはいるが止めようとは思わない。たとえばこの部屋のあちこちに全てを網羅する映像監視装置が置かれていることも、彼女にとってはどうでもよいことであった。
昼夜問わず監視され鑑賞され続けているティナーシャは、体の水気を取ると黒い長衣を適当に羽織る。
彼女は正面から自分の姿を捉えているであろう壁の彫像を見上げて笑った。
「目に映るものなんて、ほんの僅かなんですよ」
―――― そうして今日も彼女の侵食は始まる。






閉ざされた部屋に客人の男が訪れたのは、夕刻過ぎのことだった。
軍服に身を包んだ男は不機嫌そうな表情で彼女の部屋に足を踏み入れる。
「アルファス」
男の名を呼んでティナーシャは寝台を駆け出す。
この狭い世界において、もっとも優先されるものは彼の存在だ。飛びついてきた彼女を男は煩わしげに引き剥がした。
青い瞳が鳥籠の女を見下ろす。
「変わりはないか」
「何も」
口付けを待つように顎をあげ、ティナーシャは微笑んだ。男の手が頬に触れる。
だが彼はそれ以上何もすることはない。彼女は嘆息すると、彼の手を離れ寝台へと戻った。
「少しお疲れですか」
「そんなことはない」
「顔に出てます。何だったら眠っていけばいいですよ」
彼女の申し出に男は首を横に振る。それは分かりきったことであったのでティナーシャは苦笑した。

この鳥籠に送られる人間は皆、彼女の機嫌を取ろうと躍起になる男ばかりだ。
それは皇帝の趣味の悪い意図を理解している者であれば、当然のことであろう。
だがそんな中で彼だけは一人、彼女に取り入ろうとしない。むしろ注がれる媚態を無視する。
己に期待された役目を無視するように、彼はティナーシャと僅かな時間、言葉を交わすことだけを常としていた。

「昔話をしましょうか」
囁くような声。
寝台に腰掛けて天井を見上げていた男は、その声に顔を戻した。隣り合う女の双眸を覗き込む。
「どのような話を?」
「御伽噺を」
ある時突然この国に現れた女が、過去のことを語るというのは珍しい。男の両眼に好奇心が跳ねた。
ティナーシャは嫣然と笑って遠くを見る。
「今よりもずっと、ずっとずっと昔、ここから遠く離れた大陸に一人の魔女がいたんです。
 彼女は何百年もの間、探し物をしてずっと孤独に彷徨っていました」
「……それで?」
「彼女は人間が好きで、でも自分とは違う存在だからと一人高い塔に引きこもり、距離を取って暮らしていました。
 そんなある日、彼女の前に一人の男が現れたんです。
 男は彼女の用意した試練を乗り越えると、代わりに助力を願いました。
 彼女はそれに応えて男の傍で暮らすようになった。
 ―――― 強く、気高く、優しかった彼に魔女が惹かれるにはそう時間はかかりませんでした」
女は息を切って微笑む。
天井から注ぐ月光が闇色の瞳に当たって四散した。
ティナーシャは白い五指を上にかざし、その向こうを見つめる。
嬉しそうとも悲しそうともつかぬ美しい貌を、アルファスは横目で見やった。
「ですが、幸福な時とは限りがあるもので、やがて魔女は彼を喪い、再び一人へと戻りました。
 片翼を失った彼女はその時になって初めて、孤独というものの本当の苦痛を知ったそうです」
謳うような声はそこで途切れた。女の双眸が彼の方を向く。
何一つ意図が読み取れない話に、アルファスは眉を顰めた。
「だから何だ?」
「いえ。ただそれだけの話です。 
 今でも魔女は彼のことを忘れず、何百年も何千年も広い世界を探して彷徨っている。
 彼に焦がれて少しずつ狂っていく。―――― それだけです」
細い指が彼の首へと伸びる。
白いだけの指先が、男の首元に埋め込まれた《鍵》へと触れた。
今は常態値を示しているそれを、女は爪先で引っ掻く。
この帝国の人間全てが生まれながらに埋め込まれる機械を、彼女はしかし身につけていない。
それは彼女が純粋に他国の人間であるからという理由だけではないだろう。
今の時代、識別コードによって国民を管理統制していない国はほとんどないのだ。
アルファスは、モニタ越しに見せられた彼女の何もない肢体を思い出して、不信を顕にした。
「まさかそれがお前だと、言うつもりではないだろうな」
「どうでしょう」
《鍵》に触れていた指が彼の唇に触れる。
美しい顔を近づけて女は笑った。蒼白い月光がその貌を非人間めいたものへと変える。

鳥籠を訪れる男たちの中で、彼だけが一人彼女に冷たい。
にもかかわらず彼が鳥籠に送られ続けるのは単に、彼女が好意を示して触れるのが彼だけであるからだ。
今この瞬間も自分たちを監視している目を思い出し、アルファスは彼女の手を退けた。
ティナーシャは微苦笑して体を引く。長い黒髪を月影が滑り落ち、白い敷布の上に散っていった。
見つめすぎれば囚われる双眸から視線を逸らし、男は立ち上がる。
「帰る」
「ええ。お時間を取らせまして申し訳ありません」
彼女の言葉は、彼が自分の意思でここに来ているわけではないことを指摘しているようだった。
アルファスは若干燻るものを覚えながら鳥籠を後にする。戯言めいた御伽噺だけが頭の中で繰り返し響いた。
つまり―――― 一人の男を愛し、彼を探し、狂ってしまった魔女とは、一体何を指しているのかと。






「いずれ全部、壊してあげましょう」
誰にも聞き取れぬくらいの声で呟くと、魔女は一人笑った。
彼女の侵食は続く。そして月はまた朝の影へと消えていくのだ。