鳥籠の女 02 - 歌わぬ鳥

mudan tensai genkin desu -yuki

「全てを変えろと、言っているわけではありませんよ」
女の声は冷淡に響いた。
暗い空間に佇む彼女は、形のよい眉を顰めて何もない場所を睨む。鈴を振るに似た声が続けた。
「ただ私はあの人を返して欲しいだけです。それ以上でもそれ以下でもない。
 それとも一度手にしたものは何であっても手放さぬと、そう言っているのですか?」
問いかけてすぐ、彼女は両目を閉じた。長い睫毛が微かに震える。
それは抑えきれぬ苛立ちのせいのようで、しかし不意にぴたりとやんだ。
闇色の瞳が、静かな怒りを湛えて開かれる。
「そう……強欲なことですね」
女は己の腰に手を伸ばす。そこに携えた短剣の柄を白い指が握った。
紅い唇が欠けた月のように微笑みを象る。
「ならば待っているがいい。
 私は私の王を取り戻す為なら―――― 神を殺すことさえ厭わないのだから」






「帝国」と、国民からは一般的にそう呼ばれているこの国の正式名称は「ディノケディルム・ラサヌム・カドエデラ」という。
古代語で「神より託された櫃」という意味を持つ名は、しかし文書に記されることはあっても会話において用いられることはほとんどない。
その原因としては、ただ単に長いからという理由や、発音が現代には馴染みにくいという理由もあるだろうが、実際のところ国民にとって国とは自分たちが住む「帝国」のみであり、その外のことはよく知らないという現実が主な要因として横たわっていた。

帝国「外」との戦争を任務として動いている人間たちの一人、アレイン・ケストナー少佐は、帝都の片隅にある酒場でその日、久方ぶりに会った友人と酒を酌み交わしていた。皮肉げに唇の片端をあげ、氷の入ったグラスを手に取る。
「結局、俺たちが外にしか向かわせられないように、民衆には中だけしか意識させないんだよな。
 国民は皆、完全に役割分担をさせられていて、自分の役目に必要ないところは見えないようなってる。
 たとえば民間人の大半は、外と戦争が起きてるってことは知ってるが、どこと何故戦ってるのかは知らない。
 そういうものなんだ。それを当然と思ってる」
「あまり言い過ぎるのはよくないぞ」
苦笑もせずアルファスは友人に返した。
もし他の煩い人間に聞かれでもしたら、国家反逆罪の疑いをかけられかねない内容に、だが当のケストナーは肩を竦めただけで撤回はしない。逆に平然と口笛を一つ吹いてみせる始末だ。
数年来の悪友がまったくその性質を変えていないことに、アルファスは呆れはしたものの悪い気はしなかった。むしろ数日振りに正常な神経を持つ人間に会えた気がして、内心の重苦しさが若干薄らぐ。
ひとしきり最近の戦況について、お互いの知っている情報を交換してしまうと、ケストナーは友人に問うた。
「そう言えばどこか調子でも悪いのか? 会った時は随分浮かない顔をしていたが」
「体調は別に悪くない。嫌な任務のせいで気分が悪かっただけだ」
「嫌な任務?」
「『鳥籠』に送られた」
端的な答ではあったが、ケストナーもまた例の噂を知っていたのだろう。目を丸くすると「それはそれは……」と呟いた。
数秒後、彼は意外にもさらりとした口調で「で、どうだった?」と聞いてくる。
「どうもこうも。確かに外見は美しかったな。年は十六くらいだった」
「いや、そうじゃなくてさ。お前は無事で済んだのかってことだ」
「無事と言うなら無事だが。何故そんなことを聞く?」
アルファスが怪訝に思って聞き返すと、ケストナーは軽く周囲を見回した。
薄暗い店内の誰も二人の会話に興味を持っていないと分かると、男は声を潜める。
「そりゃあそこに送られたらしい人間の顛末を知っていれば、そう聞きたくもなるさ。
 お前は最近までずっと東部にいたから知らないんだろう? 教えてやるよ。
 例の彼女が鳥籠に入れられてからまず最初に中へ送られたのは、いわゆる力自慢の奴らばっかりだったんだ」
「それは……」
「まぁ、大体分かるだろ? 権力でどうにもならなかったから暴力で、って発想だ。
 でもそいつらは全員──── 立ち上がることも出来ない状態で鳥籠から叩き出された」
話の内容とそれを話すこと自体の、両方を楽しんでいるようなケストナーは、そこで言葉を切ると友人を見やった。
皇帝の直接的な狙いに眉を顰めかけていたアルファスは、さすがに唖然とした表情で固まっている。彼は一呼吸置くと、ケストナーを見返した。
「どういう状態だ? 精神的ショックでも受けたのか?」
「違う違う。そのままの意味だ。一番酷い奴は背骨を砕かれたらしい。
 力で女を屈服させようとしてやり返されたんだな。それを二十人ほど続けて……その後は人選が変わった。
 今度は顔のよい奴、愛嬌のある奴、女あしらいが上手い奴なんかが選ばれたんだ。
 こういうのも懐柔策って言うのか?」
「……どうだろうな」
聞いていれば、気分が悪いを通り越して、馬鹿らしくさえなってくる。
嫌そうな顔で頬杖をついたアルファスとは対照的に、ケストナーは心底おかしそうに喉を鳴らした。
「中でもカーティスが選ばれた時は傑作だった。どういう基準で選んだんだろうな。あいつとか無理だろ」
「は? あいつが?」
アルファスとケストナー、そして話題に上がったカーティスの三人は士官学校時代からの友人同士である。
平民出身であるアルファスとケストナーに対し、カーティスは中流貴族の出であるのだが、彼は貴族の子弟にしては呆れるほど大雑把で陽気な男であった。その底抜けに適当な性格は、普通は越えぬ身分の垣根を越えて二人とたちまち親しくなってしまったほどである。
もっとも確かに彼は人懐こい男ではあるが、女受けがよいかと言ったら決してそうではない。むしろ無神経なことをして知らずうちに相手に逃げられるタイプだ。
だから「人選ミス」と笑うケストナーの気持ちも分かるのだが、それ以上にどういう結果になったのか、アルファスは友人として気になった。彼は苦い顔に戻ると手振りで話の続きを促す。
「いや、カーティスも怪我はしなかったんだ。ただひたすら無視されたらしい。
 強行手段に出なかった奴は、普通に追い出されるか無視されるかのどちらかみたいだ。
 お前も……まぁ、乱暴なことはしなかったよな」
「誰がするか。気分が悪い」
「じゃあ無視か」
「いや……」
無視はされなかった。
追い出されもしなかった。
だが、アルファスはあの時それがどれ程特異なことなのか、思ってもみなかったのだ。
彼が望むのなら娼婦になるとさえ言った少女。その真意はどこにあったのか、彼は困惑して口ごもる。
「今の話、本当なのか?」
「さぁ、全部が全部本当かは分からないな。ただカーティスから聞いた話は本当。
 他にもいくつか本当だろうなってことは分かってる。
 実際『鳥籠』の娘はかなり手強いらしいぞ。いい気味だな」
「あの娘は」
頭の奥で、何かがちりりと痛んだ。
だがそれはすぐに消え去って何も残らない。
ただ続いていかない思考の先に、見通せない闇が広がっている気がして──── アルファスはかぶりを振ると、そこでその話題を打ち切った。






彼女は鳥籠において、そのほとんどの時間を眠って過ごしているらしい。
予想していなかった二度目の呼び出しを受け、当然のように「鳥籠」に送られることとなったアルファスは、先日案内してくれた大尉からそう聞いて、少々の意外さを覚えた。監視された廊下を行きながら当たり障りなく問う。
「そのような生活で体が悪くならないのか?」
「どうでしょう……こちらでは彼女の身体検査などはしておりませんので、そこまでは分かりかねます」
「随分細い体つきだったが、あれに軍人が手酷くやられるというのも信じられぬ話だな。
 短剣の武装はしていたが、それにしてもたかがしれているだろう」
「短剣? あの部屋には武器の類は一切存在しないはずですが」
食い違う話に、二人の間には一瞬小さな沈黙が落ちた。
大尉の不思議そうな視線を受け、アルファスは反射的に「いや、気のせいだった」と返す。
──── あの時、確かに少女は腰に短剣を佩いていたと思ったのだが、見間違いだったのだろうか。
思い返してみれば、彼が見たものもただの鞘で、刃の実物を目にしたわけではない。
監視の人間がそう言うのなら、きっと単なる装飾品か何かであったのだろう。
アルファスはそう片付けると、途切れたままの会話をおいて顔を上げた。
突き当たりに見えるドアが近づいてくる。
「それでは、私はこれで」
扉を前に大尉が踵を返すと、アルファスは一人でその中へと入った。
何もない白いだけの小部屋。無機質なドアの向こうは既に「鳥籠」だ。
彼は武装を外した自分の軍服を見下ろし、口の中で呟く。
「……虫唾が走る」
それだけの言葉を外に捨て、彼は最後の扉を開けた。



「鳥籠」の天井は、硝子で出来たドームになっている。
そこにはしかし、黒い格子が本物の籠のように巡らされ、檻の如き影を真下の寝台に注いでいた。
青白い敷布の上に仰臥して目を閉じていた少女は、彼の気配に気づいたのかゆっくりと体を起こす。黒い両眼が真っ直ぐに彼の瞳を捉えた。
「また来てくださったのですね、少佐」
「そのようだな」
「不本意だと、顔に書いてあります」
笑いながら立ち上がる少女に、アルファスは憮然となった。
今日は白いワンピースを着ている彼女は、動かない彼に向かって一歩一歩近づいてくる。
黒い石床を踏む素足は忌まわしくも彼の視線を引いて、ついにその目前で止まった。小さな手が男の顔に向かって伸ばされる。
「窮屈が嫌ならば仰ってください。風通しをよくしますから」
「余計なことを考えるな。お前はお前のことだけ考えていろ」
「この鳥籠の中のことを、でしょうか」
頬に触れた指。
背の低い女が爪先立ちしてようやく届いた指先は、彼の顔をなぞるとそのまま首筋へ移動した。
細い指が軍服左襟の合わせ目から入り込み、肌に埋め込まれた《鍵》へと触れる。
ぞっとするような感覚。本来何も感じないはずの《鍵》の表面を撫でられ、アルファスは顔を顰めた。少女の手を乱暴に掴み取る。
「やめろ」
「痛むのですか?」
「気持ち悪い」
「ああ。すみません」
少女は思っていたよりずっとあっさり謝罪すると、彼の前から退いた。
寝台に戻る後姿を睨んだ男は、だが彼女が佩いている短剣に気づくと、その後を追う。右手で薄い肩を掴み、左手を剣の柄に伸ばした。少女はいささか慌てたように身を捩って振り返る。
「え、どうしました?」
「これは……柄しかないのか」
抜いたと思った短剣は、柄から先、あるべき刃が存在していなかった。
拍子抜けしたアルファスの手から、彼女は素早く柄を取り戻す。
「何ですか急に。飾り物ですよ」
「いや。一応の確認をと思った」
「貴方に傷をつけるようなことはしません」
その言葉が本当のことを言っているのか、それともこの場限りの偽りであるのか、ただ少女はひどく綺麗に笑う。
不完全な月を思わせるその姿は歪で──── アルファスの目には、彼女自身がまるで鞘を失った刃のように映ったのだった。