鳥籠の女 03 - 歌わぬ鳥

mudan tensai genkin desu -yuki

その時、彼は不思議な夢を見た。
広い寝台の上、夢の中でも彼は横になって眠っている。
ただ実際と異なっているのは、彼が眠っている自分を認識しており、その周囲のこともまた分かっているという点だ。
彼が背を向けている寝台の端には、女が一人が腰を下ろしている。
その女はすすり泣きながら何かをしているようだった。
彼は彼女が何故泣いているのか、また何をしているのか、知りたく思ったが、どうしても夢の中の自分は目覚めることが出来ない。女の泣き声にも気づかぬほど深く眠りに落ちているようだった。
長い黒髪が敷布の上に垂れている。
彼女の顔は見えない。その手の先が何をしているのかも。
ただ彼は何も分からぬまま、しかし、自分がもう目覚めることはないのだと──── それだけは確かに理解していた。






束の間の眠りから彼が目覚めた時、部屋の主である少女は寝台には腰掛けていなかった。
お茶を淹れていたのか寝台脇のテーブルに向かい、硝子の茶器を手に取っている。
アルファスは体を跳ね起こすなり、手を伸ばして少女の腕を掴んだ。目を丸くする彼女を睨む。
「何をした」
「何も」
即答で返す彼女の感情は読めない。
何もしていないなどという言葉を信じるわけには到底いかなかったが、それでも一瞬本当に信じかけてしまうほど、そこには焦りも惑いも見られなかった。アルファスは手を離すと舌打して寝台に座り込む。
「俺はどれくらい寝ていた?」
「ほんの三十分くらいです」
ティナーシャが示した時計の数字は、確かにその通りの時間を示していた。
けれどもアルファスは警戒心を拭い去ることが出来ない。そもそもこのような場所で自分が眠ってしまったことが信じられなかった。
いつどうやって夢の中へと落ちたのか、それさえも思い出せない男は、まるで地面に穴が開いているかのような不信に駆られ、周囲を見回す。そこに湯気の立つお茶のカップが差し出された。
「別に何もしていませんよ。気になるのなら後で映像記録をご覧になればいいでしょう」
「分かっている」
彼がお茶を拒絶すると、彼女はそれをテーブルへと戻した。代わりに紅い唇が耳元へ寄せられる。
「それとも何かあった方が、貴方にはよい評価がなされるので?」
音声を拾われないようにか顔を近づけ囁かれた言葉は、いささかの毒気が感じられた。
彼は不愉快さを飲み込んで闇色の目を見返す。
「軍人がそのようなことで評価されても嬉しくもない」
「そうですか」
微笑んだティナーシャの目はその時、瑕一つない無垢な少女のように見えた。
まったく印象の安定しない相手に、アルファスは言いようのない気味の悪さを覚える。
それはただ、何色にも輝く宝玉というより、全てを内包し覆い隠す闇のように思えるのだ。
彼女は一つに縛ってあった髪を解くと、彼の隣に座った。白い頤を上げて硝子の天井を見上げる。
月光に照らされる喉は、生気の感じられない石膏のようだ。
細い喉を微かに震わせて彼女は謳う。
「この部屋がそんなにお気に召さないのなら、まもなく当分は自由になれますよ」
「またお得意の戯言か?」
「いえ。事実です。もうすぐ貴方は東部に呼び戻されます。
 戦況が苦しくなるのに、こんなところで貴方を遊ばせておくわけにはいきませんから」
さらりと呈された発言に驚いて、アルファスは彼女についてのそもそもの噂を思い出す。
不可思議な力を持つという少女は、宮廷にいながらにして遠く離れた地の出来事を言い当て、その異能を皇帝へと示したというのだ。
ならばこれも彼女の能力の内なのかもしれない。
アルファスの探る視線に、ティナーシャは微苦笑した。
「本当はこの力を取引材料にしようと思ったんですけどね」
―――― 皇帝が欲したものは、彼女自身だった。

権力者の鑑賞物である少女の横顔は、その時少しだけ悔いを見せているようにも見えた。
アルファスは、噂において語られていない続きに、幾許かの好奇心を抱く。
「お前は何を欲しがったんだ?」
彼女は、自分の力と引き換えに何かを皇帝に欲したという。
結局は与えられなかったそれが何であるのか。彼は問いながらも言いようのない不安を覚える。
それは鳥籠でこの少女と共にいる時、常に精神の片隅を苛む空白だ。
その「空白」には何かがあった気がして、でも今はない。なくなったということだけが分かる。
説明しづらい気分の悪さに、アルファスはいつでも落ち着かない思いを抱いていた。ティナーシャは口元だけで微笑む。
「私が欲しかったものは、ただの情報ですよ」
「情報? 異能を振るうお前がか?」
「私にだって知り得ないことはあります。たとえば貴方は―――― 」
寄せられる躰。
少女の指が彼の首筋へと伸びた。淡い花の香りが鼻孔に届く。
アルファスは、半ば反射的に起こる跳ね除けたい衝動を押し殺して、白い指が己の《鍵》に触れるのを我慢した。
美しい声は慟哭よりも虚ろに彼の耳を震わせる。
「―――― 貴方は、自分たちがこのように管理されていることを、おかしいと思わないのですか?」

闇色の目。
その輝きも、彼女の問いも、全ては「空白」の中に存在している。
彼にはそれを取り戻すことは出来ない。もう目覚めることはない。
降り注ぐ青光。
鳥籠の外から届く光が、女の貌を水中に在るかのように見せた。
アルファスは少女の眼のその中の、傾いた妄執に気付く。
空白がまるで喪失のように疼いた。
「馬鹿な。疑問に思うことはない。人は《鍵》がなければ生きられない」
口にした言葉が、誰かに言い聞かせるような強張りを含有していたのは何故なのだろう。
しかしアルファスの懸念は外れ、彼女はそこを突いてくるようなことはしなかった。
少女は自嘲気味に笑って返す。
「そうですね。今のところは」
「何故そんなことを聞く?」
「特に理由はないです」
寝台の上に降る光は、何かを作ろうとして叶わなかった砂粒のようだ。
形にならず崩れていくそれらは、白い布の上に広がり次々零れ落ちていく。
ティナーシャは、隔絶よりも孤独を思わせる寝台を離れると、この部屋唯一の出入り口である扉の傍に立った。彼の方を振り返り柔らかく微笑む。
まるで帰ることを促しているような素振り。
彼女がそんな様子を見せるのは、幾度か通ってきて初めてのことだった。
意外に思いつつもアルファスが扉へと向かうと、彼女は綺麗に作られた笑顔で彼を見送る。
「どうぞご武運を」
全てを見透かす女は、彼がドアの向こうに消えるまでその場から動こうとしなかった。
そして外界と鳥籠を分かつ扉が背後で閉まった時、アルファスはようやく何かから解放された気がして、深く息を吸い込んだのである。






「気になるのなら監視映像を見ろ」と彼女は言ったが、アルファスは結局自分の目でそれを確かめることはしなかった。
ただ顔馴染みの大尉に変わったことはなかったか確認しただけで、その答は「何もない」というものだった。
それ以上映像を確認する気にもなれなかったアルファスは、鳥籠の監視を任務とする男に苦い顔で問う。
「あそこの映像はどれくらい保管されているんだ?」
「ずっとです。彼女が入れられてから一年、全ての記録が残されています」
半ば予想していた答はしかし、アルファスに自分の映像が残り続ける為だけではない不快感をもたらした。
けれど立場上それを公言出来ない彼に、大尉は「ただ」と補足する。
「陛下がいらしている時は全ての映像は切られています」
「陛下が? あの鳥籠にか?」
「ええ。月に一度は必ず、お一人で足をお運びになっています」
―――― 老齢の皇帝が供を連れずに訪れた鳥籠で、定期的に少女と何を話しているのか。
それを知る者は当の二人以外に誰もいない。
アルファスは陰惨な有様しか想像出来ない情景に、感情を殺した沈黙を向けただけで、それ以上何も聞かずに宮廷を離れた。






「あの男が気に入ったのか」
しわがれた声に、壁の絵を見上げていたティナーシャは失笑を返した。
振り返る気はない。その価値も意味もない。ただ言葉だけを投げ捨てる。
「くだらぬ口をきくな。老体を引き裂いてやろうか」
「それは困る」
一つしかない椅子に座す老いた男は、刃の如き彼女の態度さえ愉しんでいるようだった。
悪意と言うより悪戯心に近いその態度は、まるで精神の畸形を孕んでいるように思える。
そのことに見過ごせぬ杞憂を覚えて、ティナーシャはようやく振り返った。皇帝を正面から見据える。
「私の取引に応える気がないのならば何もするな。
 少しでも余計な真似をしてみろ、生きながらお前自身の肝を食わせてやる」
「こわい女だの」
揶揄を多分に込めた含み笑いに、彼女は氷の視線を返した。
だが相手はまったく怯む素振りを見せない。
老人はひとしきり笑うと、嗜虐者の目でティナーシャを味わった。
「そのようなおぬしが、あの男に焦がれ忌まれる様は、実に胸が躍る。
 ままならぬということはまこと舌触りのよい美酒じゃな」
「それが何だ」
吐き捨てた言葉は、彼女にしては珍しく感情の見えるものだった。

―――― 初めから、「彼」の存在は特別と看做されるだろうとは思っていた。
それを隠す気は最初からなかったのだ。
彼女が執心するただ一人。
もし彼を害そうと脅す者がいたなら、彼女は駆け引きを待たず相手の命を刈り取るだろう。
ティナーシャは「今」において、彼の主君として存する皇帝を汚物のように眺める。
捻れてしまった結果を疎む目に、だが皺だらけの老人は喜色を浮かべただけだ。
「おぬしが儂のものにならぬと同様、おぬしもあの男を得ることはない。
 儂を殺しこの国を滅ぼしたとしても……おぬしはおぬしの欲しいものだけは手にすることがなかろうよ」
呪いのような宣告。
愉悦の笑い声は、閉ざされた籠の中で波紋のように広がっていった。
ティナーシャは顔色一つ変えず皇帝の言葉を受け止める。
内から外に、外から内に閉ざされた鳥籠。
黒い格子はそこにおいて、二つの世界を分ける単なる境界でしかない。その中では全ての常識が覆される。
だが、そうして彼女は微塵の悲しみも絶望も見せることなく、ただ女王のように傲然と佇むと……「知っている」とだけ呟いた。