鳥籠の女 06 - 歌わぬ鳥

mudan tensai genkin desu -yuki

全身は強い倦怠感に支配されていた。
目を開けて見えたものは低い天井である。アルファスは目にかかる前髪を上げようと右手を動かした。
若干強張るような違和感。だがそこに痛みは感じない。彼は自分の腕を見て、服を着ていないことに気付く。
小さな部屋は、もともと簡易の宿泊施設なのか、最低限の家具だけが置かれていた。
寒々とした白い壁は少し薄汚れて見える。アルファスは慎重に体を起こした。
「ここは何処だ……?」
武器はない。服を着ていないのだから当然だろう。
一体何があってこうなったのか、彼はおぼろげな記憶を探った。鏡で《鍵》の値を確認したいとも思う。
しかし見たところ部屋に鏡の類はないようだ。アルファスは判然としない意識を抱えて頭を押さえた。
その時、一つしかない扉が開いて見覚えのある少女が入ってくる。
「起きましたか」
「お前……」
それは、ここにいるはずのない少女であった。
鳥籠に閉じ込められているはずの女。その彼女があろうことか鳥籠の外にいるのだ。
―――― ならばこれは夢なのか。
アルファスは結論の出ない問いを抱えたまま、近づいてくる白い服の少女をねめつける。
「何故出てきた」
「出たい気分だったので。服をお持ちしましたよ」
綺麗に畳まれた服を彼女は寝台脇のテーブルにおいた。軍服ではない一式は、しかしサイズは問題ないようである。
少女は彼の顔色を一瞥すると微笑んだ。
「具合が悪くないようで何よりです。ああ、防護服は手当てに邪魔だったので切ってしまいました。すみません」
「防護服……」
戦場に立つ時のみ必要となる装備。
その単語に刺激され、アルファスは自分に何があったのかを思い出した。
炸裂弾を投げ捨てようとして間に合わず、反動で谷底に落ちたのだ。
にもかかわらず何故今生きているのか―――― 夢か現か分からぬ事態に男は己の体を見下ろす。
「何があった?」
「川に貴方が落ちていたので拾いました」
「お前が?」
まるで犬を拾ったかのように言うティナーシャは、聞き返されて苦笑する。白い指が彼を指した。
「折角なので体を一通り調べさせてもらいました。怪我はしてないから平気ですよ」
「それで脱がせたのか? だがいくらなんでも」
炸裂弾が手の中で爆発して、怪我がないなどとはありえない。
そう言おうとしてだがアルファスは言葉を飲み込んだ。女の美しい貌が妖しく微笑む。
「……異能の力か?」
「ええ」
つまりこれは、夢ではないのだ。
そのことをようやく認めて彼は深く息をついた。
溜息を吐きながら上着を羽織ろうとする彼に、ティナーシャはその後の戦況についていくつか要点を伝える。
その中には彼の部下が命を取り留めたという内容も混ざっていた。
「ぱっと見て致命傷は治しておきました。彼らの方は軍病院に収容されましたが」
「ここは何処だ?」
「国境間際の宿屋です。商売になるのかどうか微妙なところに建ってますよね。すぐ隣は禁域ですよ」
少女の暢気な感想に、カーティスであれば共に笑っただろうが、アルファスは表情を緩めない。彼は低い声で問うた。
「何故俺を戻さなかった?」
釦を留めようとして、激しいだるさに男はそれを諦める。
怪我はなくともダメージは疲労感となって残っているらしい。ティナーシャは反動をつけて寝台に座った。
「私も、少し息抜きがしたかったもので」
「……鳥籠を出られたんだな」
「出ようと思えばいつだって出られます」
「なら何故逃げない」
「さぁ?」
唇に指を当て嘯く彼女はその時、少女ではなく女の顔をしていた。



国境近いという宿。部屋に窓は一つもなかった。
アルファスは少女の白い首筋を見つめる。
「……お前は本当に《鍵》を持っていないのか」
「映像記録をご覧になったんでしょう?」
「身体検査をしたわけではないと聞いた」
肩を竦めた彼女は立ち上がった。扉に向かって歩き出す。
気を悪くして出て行くのかとアルファスは思ったが、彼女は数歩行ったところで鳥のように振り返った。
白い上質な外衣。その前をとめている釦を躊躇いもなく外していく。

―――― モニタ越しにその躰を見たことは、確かにあった。
だが実際目の当たりにすると、彼女の肌はおそろしく透き通り、蠱惑的な魅力を放っていた。
肉付きの薄い躰。しなやかな曲線はしかし、女として申し分ない均整を備えつつある。
むしろ未完成から来る不安定さは歪な妖艶を生じさせ、正面から彼女を見ていたアルファスは顔を顰めた。
全てを脱ぎ捨てた少女は、己の体を確認させるよう両手を広げると、次に後を向く。長い黒髪を両手で上げ、滑らかな背中も男の目に曝した。
何処にも《鍵》の見つけられない肢体を、彼は注意深く観察する。
「頭皮は?」
「さすがに髪の毛剃るのは嫌ですよ……」
ティナーシャは素足をぺたぺたと鳴らし、彼の前へと戻ってきた。
誰しもが持っている他人には踏み込ませぬ領域。それを軽々越えて彼女は男へと顔を寄せる。裸身を曝したまま寝台へと膝立ちになり、女はたおやかに笑んだ。
「どうぞ。お好きなように」
腕の中に収めようと思えばそう出来る距離。
眩暈を伴う誘惑を多分に、その近さは孕んでいた。
何人の男がそれを欲して叶えられなかったのか。だがアルファスは余計なところに触れようとはせず、上げた指を少女の黒髪へと差し入れた。息を殺して丹念に頭皮を探る。
帝国において、全ての《鍵》は値が確認しやすいよう一部を皮膚上に露出させることになっている。
だが、技術的にはその上を更に人工皮膚で覆うことは可能なのだ。
これは見つかれば犯罪行為として処罰されるが、彼女もそのような処置を施しているのかもしれない。
アルファスは、撫でられる猫のように目を閉じて、されるがままになっている少女の髪を丁寧に探っていく。
何も引っかかるところのない頭皮を越え、うなじに指を滑らせながら、彼は華奢な躰を見下ろした。
一見何処にも継ぎ目が見えない肌。だが、何処かに《鍵》があるならば、触れてみれば分かるだろう。
少しだけ力を込めて体中を探ってみれば見つけられる。
しかしその瞬間から彼女は―――― 「鳥籠の鳥」ではなく、ただの「女」となってしまうのだ。



すぐそこにある境界。
けれどそれを為しては飲まれる気がして、アルファスは一息に両手を引いた。彼女に上着を羽織らせようと、着かけた服に手をかける。
その時、軽いノックと共に部屋の扉が開いた。
「お客さん、換えのシーツを……あ、す、すみません!」
畳んだシーツを両手に抱えたこんだ娘は、挨拶をしようとして二人を見るなり真っ赤になった。一瞬の硬直の後、その場に持っていたものを放り出して走り去る。
ティナーシャは目を丸くして開かれたままのドアを見ていたが、こめかみを掻くと指を弾いて戸を閉めた。彼女は、憮然とした顔で沈黙している男を見上げる。
「今のは誤解されましたかね」
「多分な」
「何にもしてないのに……」
損した、とでも言い出しそうな目でティナーシャは頬を膨らませる。
アルファスはそんな少女から顔を背けると、薄い肩を叩いて「さっさと服を着ろ」と言い捨てたのだった。






灰色の大地には道の一本もない。
禁域にそのようなものは必要ないのだ。
石と砂だけが転がる土地を、アルファスは少女と二人歩いていく。
《鍵》を持たない彼女は晴れ晴れとした表情で空を見上げ、禁域の空気を深く吸い込んだ。
東部基地へと向かう道のり。まだ向かう先には建物の影さえ見えない。
何処までも続くかに見える地面を、二人はそれぞれの歩調で進んでいった。
「上の方には話をつけておきました。貴方が今回の件で処罰されることはないはずです」
「余計なお世話だ」
「貴方を殺そうとした貴族は私が殺しておきました」
さらりと付け加えられた言葉に、アルファスはさすがに一瞬絶句した。
隣を行く少女を見ると、彼女は嫣然と微笑んでいる。前を向く闇色の目は冗談を言っているようには見えなかった。
「気にしないで下さい。原因は私なので。
 以前腰の骨を折ってやった方なのですが、貴方の話を聞いて思うところがあったようです。
 二度やられては困るので対処させて頂きました」
「お前は……」
続く言葉が批難であったのか忌避の言葉であったのか、アルファス自身にも分からない。
ただその先は口にされなかったにもかかわらず、ティナーシャは淋しそうな目で顔を伏せた。
ささやかにそよぐ風。それに乗った塵が白い空を泳いでいく。
静寂とは言えぬ砂の音は、鳴った分だけ二人の距離を広げていくようだった。
彼は穏やかになびく少女の黒髪を横目で見やる。
「お前はこれからどうするんだ」
「鳥籠に戻ります」
「何故だ? 自力で出れるのだろう」
監視も束縛も、彼女にとっては意味を持たない。
閉ざされた鳥籠は、彼女を捕らえてはおけないのだ。
そのことを知った男は、自分でも判然としない複雑な感情に奥歯を噛みしめる。
何ものにも捕らわれぬ少女は、ふっと破顔した。
「あそこにいれば、貴方が会いに来て下さるので」
「嘘をつくな」
間髪いれず返すとティナーシャは声を上げて笑う。
見え透いた偽りに男が乗らなかったのが楽しいのだろう。少女は弾む足取りで数歩を駆けた。
彼に背を向け、謳う。
「―――― 奪われたものを、返して欲しくて」
欠乏を宿す唄。
その声は、枯れた大地に虚しく響いた。






東部国境での戦闘は、その三ヵ月後緩やかに沈静化した。
何度か有人戦闘を指揮し戦果を上げたアルファスは、階級を一つ上げ中佐となる。
それに伴い配属地を変えられた彼は、再び帝都に戻ってきた。
半年振りに足を踏み入れた鳥籠。
閉塞した部屋は記憶の中と何一つ変わらず―――― 鳥籠の女は微笑んで彼を迎えたのである。