鳥籠の女 07 - 罅割れる籠

mudan tensai genkin desu -yuki

青年の長い指は軽く硝子のテーブルを叩いた。
硬質の音はだが、さして響くわけもなく静寂の中に消え入る。
それよりも強くその場に響いたものは、当の青年の声だった。
まだ若い容姿。笑顔が染み付いているような顔立ちの中で、灰色の双眸だけが野心と挑戦心に彩られている。
「決して不可能なことではない。皆が不可能と思っているだけだ。そうだろう?」
「で、ですが今までそのようなことを為した人間は……」
「いない。だがそれは記録の上でそうなっているだけだ。それもこの帝国の記録に限ってな。
 実際のところはどうなのか。やってみなければ分からない」
柔和な笑顔で語りかけてくる青年に、向かいに座っていた中年の男は額の汗を拭った。しどろもどろの相槌を打って、深く息を吐き出す。
先ほどから彼の額と背をひどく濡らしているその汗が、暑さによるものではないことは、剥き出しになっている《鍵》を見ても明らかだった。目に見えぬ圧力に男は刻一刻と消耗を強いられ、逃げ出す機がないものかと視線をめぐらせている。
余分なものは何一つない部屋。
灰色一色で統一された部屋には、硝子のテーブルと二対のソファだけしか置かれていない。
その一つに座す青年は悠然と足を組んで、この状況自体を楽しんでいるように見えた。
彼はふっと微笑むと、テーブルの上から映像フィルタを一枚取り上げる。
そこには本来データの流出が禁止されているはずの「少女」が映っていた。芸術品のような少女の横顔を、青年は目を細めて見やる。
「皇帝とは本来、民を支配し国を動かす至尊の地位であるはずだ。
 それが鳥籠の鳥を愛でるしか能がないとあれば、廃されても仕方はあるまい」
「そ、それは」
「たとえば―――― 美女は帝国に数多居れども、異能者となればそうではない。
 俺ならばただ籠に入れるのではなく、もっと上手い使い方を考えるがな」
青年の指から弾かれたフィルタは、硝子テーブルの上を音もなく滑っていった。
目の前で止まった一枚。
しきりに額の汗を拭く男は、青年の言葉に恐れを抱いたのか、そこに映っている「少女」の冷ややかな双眸に臆したか、ソファの上で身を縮める。
「まさかあなたは、鳥籠の娘に……」
「どうだろう?」
はぐらかすような返答に男はますます蒼ざめた。彼は半ば呆然と口を開くと、目の前に座す青年を見つめる。
だが青年はその視線により一層笑んだだけで、不穏当な発言を撤回する言葉はいつまで経ってももたらされなかったのである。





透明な天井。硝子を支える黒い格子が、外周へと下りてくる部屋の内部は、まるで時が停滞しているかのようだった。
アルファスは出されたお茶を手に、整然とした室内を見回す。
妙に白い印象を受ける部屋は気のせいか、初めて訪れた時と何ら変化がないように思える。
そしてそれは部屋に閉じ込められた少女も例外ではなく、彼女は一向に変わらない顔つきで、アルファスを空中から見下ろしていた。
しなやかに細い足が、半ば逆さになっているせいか、惜しげもなく男の視線に曝されている。
だが彼はそのことに何ら感銘を受けるわけでもなく、温かみのない視線で彼女を見返していた。
ティナーシャは空中で一回転すると、アルファスの眼前に降り立つ。
「最近はよくいらしてくださるのですね」
「こちらの配属に戻されたからだ」
冷淡な返答に少女は微笑んだ。
白く小さな手が彼の顔に触れないぎりぎりのところで留まり、濃い茶色の髪を梳いていく。
柔らかな眼差し。伸ばされた指に温度はなく、ただその動きはぞっとするような焦燥を感じさせた。
ティナーシャは指を離すと熱い溜息をつく。
「たまに……時の流れの速さというものに耐え難さを覚えます」
闇色の瞳には、一体何が映し出されているのか。
アルファスは思わず不透明な双眸を見直し―――― そして刹那魅入られた。
全てを飲み込み、許し、共に在ることを選ぶであろう女の目。
彼女を隣に置けば、間違いなく多くのものが得られることだろう。
それらは稀少で、だが決して失われないものなのだ。


欠けたるものを埋められるかの如き幻想。
だが男は、その誘惑に乗るような真似はしなかった。
アルファスは己を鼻で笑うと、空になったカップをサイドテーブルに戻す。
「時が経つのが早すぎるなどとは、皆が一度は思うことだろう」
「たまにひどく遅い時もあるのですけどね」
「お前が年を取らないようにか?」
ティナーシャは黒い目を僅かに瞠った。
猫を連想させる表情。だがすぐに、彼女は目を閉じて微苦笑する。
―――― それは、アルファスの中で密かに燻っていた疑問であった。
初めて鳥籠に足を踏み入れた日は、もう一年以上も前のことである。
その間ティナーシャは、着ている服こそ変われど、髪の長さも顔立ちも体つきもまったく変化がない。
まるでこの部屋の中だけ時が停滞しているかのように、いつ訪れても少女は同じように彼を迎えるのだ。
同じ頁を捲り続けるに似た繰り返し。
しかし、それだけなら彼は、彼女が「成長しない人間なのではないか」と疑うことはなかっただろう。
おかしいと思ったのは、彼女についての噂を再確認した時のことだ。
二年近く前に皇帝の前に現れた異能者。
彼女の外見は既にその時、十六歳程に見えたと言われている。―――― つまり今と同じように。
二年は長すぎる時間ではない。だが、この年頃の少女が成長するには充分な時間だ。
で、あればティナーシャはとっくに大人の外見に近づいていていいはずだろう。
けれど彼女は「大人にならない」のだ。

精神に深淵を抱えた少女。
闇色の目が再びアルファスを捉えた。計りきれない暗がりがそこには垣間見える。
男はその闇を見返し、確信した。
どちらかと言えば、彼女は既に大人なのだ。ただその外見だけが少女のまま停滞し続けている。
ティナーシャは少し悲しげに、だが嫣然と微笑むと彼の問いを首肯した。
「この外見で居続けることは駆け引きの内なんですよ」
「誰との駆け引きだ」
「皇帝」
端的な答は、乾いた骨のように床を転がる。
自嘲も顕にティナーシャは右手を天井へと伸ばした。何も掴むことのない指が、硝子の天井を指差す。
「完成した鳥には居場所が与えられない。私には、今この居場所が必要なんですよ」
「……観賞物としてか」
沸き起こる嫌悪感は、自然と男の声を苦いものとした。
女は沈黙する。
沈黙こそが答であるのだろう。アルファスはそれ以上の会話を放棄すると寝台から立ち上がった。
ティナーシャは彼の前から退き場所を空ける。
いつものように扉へと向かう男に、女の声が背後から囁いた。
「もし、貴方が」
「何だ」
「私を、外へ連れて行ってくれるというのなら」
アルファスは振り返る。
蒼い瞳が彼女を視界に収めた。ティナーシャの顔に、気のせいか縋るに似た感情が垣間見える。
「私は……」
「俺は、そのようなことはしない」
「ええ」
跳ね除けるような返事に、けれど女は憂いを見せない。
そのことがより一層アルファスの焦燥を煽り、彼は言葉にならない後味の悪さを噛み締めた。
男は少し躊躇ったが、彼女に歩み寄ると顔を寄せ、小さく耳打ちする。
「出られるのなら、自分でさっさと逃げろ」
「アルファス」
「俺はお前の気紛れには付き合わない」
二言目は、監視にも聞こえるようはっきりと口にした。
或いはそれは、この会話を聞くかも知れない皇帝へと向けた言葉なのかもしれない。
まるで趣味の悪い遊び。幾人もの思惑が錯綜する中へと巻き込まれた彼は、その言葉を最後に鳥籠を去る。
背後で閉まった扉はどちらが選んだものであるのか。
アルファスは吐き出しきれない感情を嚥下すると、その日は宮廷を後にしたのである。





「お前それは、その娘のことが嫌いじゃないんだろ」
差しさわりのない部分を明かして感想を求めたところ、友人から返ってきたものはそんなあっさりとした言葉だった。
思わず数瞬の自失に陥ったアルファスは、そこから立ち直ると眉根を寄せる。
「は? そういう話をしていたんじゃないんだが」
「そうか? そういう話だと思ったけど」
にやりと笑ってケストナーは酒の入ったグラスを掲げて見せた。琥珀色の中身は店の照明を反射して深みを増す。
だがその混濁はアルファスに何の感銘も与えず、彼はますます顔を顰めただけだった。
アルファスは空になっていた自分のグラスを手で押しやる。
「得体の知れない女だ。関わらずに済むならその方がいい」
「まぁ謎が多い感じではあるよな。でもそれがいいって奴もいるだろう」
「俺は違う」
「なら普通の場所で普通の出会い方をしていたら?」
友人の声音には試してみるような興味が消せずにちらついていた。
そのことに気付きながらも、アルファスは虚を突かれて黙り込む。
多くの来訪者が退けられた鳥籠において、ただ一人だけ彼女の関心を向けられているらしい男。士官学校時代からの友人を、ケストナーは笑いながら眺めた。
「話を聞いてると、お前はそう思っているように聞こえるよ。
 彼女が鳥籠を逃げ出していたら、おかしな駆け引きに執心していなかったら……好意に応えることが出来るのに、って」
「まさか」
皇帝と駆け引きをし続ける鳥籠の女。
彼女のおかしな点は、だがそこだけに留まらないのだ。
自分に伸ばされる手をアルファスは決して取らない。どれ程媚態を注がれようとも振り向くことはしない。
だがもし―――― 彼女を、別の場所で識っていたのなら。

頭の奥に在る空白が軋む。
だがそれは、アルファスに正体の知れぬ気分の悪さをもたらしただけで、何の変化も与えはしなかった。
憮然としてしまった友人を宥めるように、ケストナーは苦笑する。
「そんな顔をするなよ。言ってみただけだ。俺なら自分だけが特別って扱いされて悪い気はしないからな」
「なら代わってくれ」
「遠慮しとく」
二人の会話はそこで別の方向へと切り替わった。
最近の情勢へと移り変わった話題。アルファスの意識から鳥籠は薄れ去る。
だがこの時の会話は、彼の記憶の中に沈殿し、ふとした時に疼くようになった。
鳥籠の女からもし鳥籠を取り去ったのなら―――― そのことをアルファスは常に心の何処かで考えることになったのである。