鳥籠の女 08 - 罅割れる籠

mudan tensai genkin desu -yuki

深く、潜っていく過程。
それはまるで、眠ろうとして眠れない夜のようだ。不安と焦燥、そして巡り巡る意思だけが浮かんでは消える。
自分が世界に一人きりのような孤独。
だがその空虚も、あながち間違っているわけではないだろう。今の彼女は確かに一人きりだ。
最下層に降り立ったティナーシャは自嘲ぎみに微笑む。
この二年間で彼女が調べ上げた情報は、この帝国の長年の研究成果そのものだ。
そしてそこには蓄えられていた個人のデータベースもいまや加わっている。
必要な情報は全て揃いつつある。後は、彼女がそれを自身の技術と出来るか否かだ。
「《鍵》を弄る類の手術は厳禁……それは被術者の命や精神に関わるから……」
《鍵》についてのデータは全て、重要な機密とされている。
人々はただ出生時にそれを埋め込まれるだけで、処置を施す病院も、上から支給された《鍵》のIDを個人コードとあわせて記録し施術するだけだ。
一度埋め込まれた《鍵》はそして、二度と取り除くことは出来ない。
それを試みようとする者もいない。《鍵》が外れてしまえば、人間は空気中のイドに耐えられなくなるのだから。
だが彼女は、その常識を覆そうと、二年にわたって知識と技術を集めていた。
人から《鍵》を、《鍵》から人を切り離す為に必要な情報。
もっともまったく異なる文明を持つ別大陸から来た女は、それを身につけるにもまた困難が付きまとっているのではあるが。
「エギューラ糸の存在は想定されてないでしょうから、それを使って侵入して……でも事前に練習しておきたいですね。
 いい練習台が手に入ればいいんですが」
呟きながら最下層を移動する彼女は、《鍵》に関して行われた実験的手術のデータを見つけると、それを引き出し始める。
データの海を漂う魔女。
彼女の手は、今ようやく一つの区切りへと届きつつあった。



「眠っているのか?」
声と同時に伸ばされた手。
それが頬に触れた時、彼女ははっと目を覚ました。
目前によく知る男の顔が見える。彼の蒼い目は探るような色を宿して彼女を注視していた。
ティナーシャは、頬から引かれようとする手を掴む。
「失礼しました」
アルファスは、彼女の言葉か手かに顔を顰めると、寝台に座った。ティナーシャは体を起こし、彼の隣に寄り添う。
鳥籠において、来訪者の訪れる時間は基本彼女に通達されていない。
だからティナーシャはいつも予期せぬ彼らを迎えることになるのだが、彼女はそれらの来訪を培った警戒心によって、扉が開けられると同時に察知していた。
ただ一人、その効果が及ばないのは、今彼女の隣に座している男だけである。
アルファスにはティナーシャの警戒心は働かない。
それは彼女の魂に根ざす信頼と愛情が故であり、今この時だけ変えられるようなものでは到底なかった。
だがそれでも、今までは普通に彼を迎えられていたのだが、今日のように「潜っている」ところを見つかってしまったのは初めてである。
ティナーシャは内心の動揺を表に出さぬよう、押し殺して息を整えた。
曖昧な意識、疲労した体で彼にもたれかかろうとし、すんでで己を御す。
代わりに白い敷布を掴んで、彼女は溜息をついた。
「すみません、少し疲れていまして」
「なら寝ていろ。俺は帰る」
「もう少しいてください」
掴んだままの手を引くと、アルファスは煩わしげな顔になる。
だがそれでも席を立たないでいてくれたのは、ティナーシャが本当に疲労に貌を曇らせていたからかもしれなかった。
静謐の檻の中では時の流れが緩やかに思える。
男は何か言いたそうな目で彼女を一瞥したが何も言わなかった。
ティナーシャは、月光が照らし出す男の端正な顔立ちを見上げる。
「《鍵》を、見せてくださいませんか」
「何故だ? 常態値と変わらん」
「見たいんです」
姿勢を変え寝台の上に膝立ちすると、アルファスはあからさまに嫌そうな顔をした。
ティナーシャはだが、物憂げに微笑し手を伸ばす。
この帝国の軍服は高い襟を持っており、普通にしていて《鍵》が見えるということはない。
勿論襟の合わせ目から手を入れることは可能であるし、場合によってはそうして上官に《鍵》の提示を求められることもある。
だが基本的には己の状態を数値として示す《鍵》を、あまり曝け出したくないと思っている人間の方が多数派であり、若い人間たちが拘りの一環として好んで露出する以外は、それは医者に見せるか、もしくは交渉手段の一環や忠誠の証明として相手に呈する場合がほとんどであった。
そういった常識を知らないでいるのか、今までも何度か彼の《鍵》に触れてきた女は、襟の合わせ目から細い指を滑り込ませる。
首筋を白い手が滑っていく感触は、背筋を走る衝動と嫌悪を彼にもたらしたが、アルファスは何も言わなかった。
おそらくは《鍵》を持たない彼女の好奇心を許容することで、彼女の素性を探ろうとしているのだろう。
ティナーシャは薄い微笑を浮かべつつ、男の《鍵》を表に出した。
常態値の範囲内と言える数値。だが少しだけ、その数値には波が見られる。
アルファスはおもしろくもなさそうな声で問うた。
「何がおもしろい?」
「色々と」
「俺の体は一度調べたのだろう」
「隅々まで見させて頂きました。多分貴方の主治医より詳しいですよ」
率直な返答に男は嫌な顔をしたが、それが自分の命を助けてもらった時のことであるせいか、何の苦情も述べはしなかった。
ティナーシャは《鍵》の外周、皮膚とのつなぎ目を指でなぞる。
六角形のつなぎ目は、どこにも傷や綻びは見られない。
魔女は一瞬、今すぐにエギューラ糸をつなぎ目から侵入させたい衝動に駆られ、だがそれを飲み込んだ。
―――― 今、危険な橋を渡ることは出来ない。出来るだけ可能性を完全なものとしなければならない。
彼女は湧き起こる狂おしいまでの感情を、目を閉じて堪える。
手の届くところにあるものに、触れられないという煩悶。
叫び出しそうな激情に、ティナーシャはきつく唇を噛んだ。
白い服の上に落ちる黒髪。
男は眉根を寄せる女を、感情の窺えない目で見下ろす。彼女にしか聞き取れぬ声で、アルファスは囁いた。
「お前は何をしようとしている?」
「私は」
そこから先を言語化することは、未だ出来ない。
ティナーシャは泣き出しそうな熱さを抱え、男の首筋に顔を埋めた。
紅い唇を《鍵》の上にそっと重ねる。
瞬間波打つ数値。だが彼女はそれを見ようとはしない。贖罪をするかの如くアルファスの肩に額を預ける。

まるで泣いているような女の様子に、アルファスはしばらくそのまま沈黙を保った。
何かを堪えるかの如き彼女に言葉をかけることは、秘された傷口を暴くに似て抵抗を感じたのだ。
だが息苦しいような不可思議な時間も、彼女がすっと退いたことにより終わりを告げた。
いつもと変わらぬ微笑を浮かべたティナーシャは、握ったままの手をようやく離す。
「私はここで比較的好きなことをしてますよ」
「そのようだな」
「それが永遠に続くわけではないですけど」
艶やかな微笑で吐き出された言葉は、いささかの毒を感じさせた。
あるいはそれは、可能性と言ってもいいのかもしれない。
完全であることを否定する欠片に、アルファスは彼女の不安定さを嗅ぎ取った。
倒れこみそうで、だが倒れない危うさ。
孤独を飲み下す女の顔は、常に何かを恐れているようにも見える。
「お前は」
そこで語ることをやめたのは、意味がないと思ったからだ。
男は、流れる彼女の髪を一房指に絡める。
淡い花の香り。小さな熱を精神に落とす香りは、遠ざけてしかるべきものだった。
そうしてだが―――― アルファスは黒髪を引き寄せると、無言で口付ける。
小さな間を経て顔を上げると、女は酷く驚いた目で彼を見ていた。震える声が唇から零れる。
「……どうして?」
「どうでもいいことだ」
期待させるような真似をするつもりではなかった。
アルファスは憮然とした表情になると立ち上がる。そのまま鳥籠を去ろうとする彼を、女は慌てて追ってきた。
だが、男は足を止めない。
彼のコードに応えて扉が開くとアルファスはその先の小部屋へと抜ける。
そのまま鳥籠の女だけを閉じ込めるドアが、彼の背後で閉ざされる―――― はずであった。本来であれば。
「アルファス!」
叫びながら飛び込んできたティナーシャは、閉まろうとする扉に左手をかけた。
重いものを持ったこともないだろう白い手。五本の指が分厚い扉の端を掴む。
そしてそれは、何の脈絡もなく鋼鉄の扉をひしゃげさせた
歪んでこじ開けられたドア。振り返ったアルファスはあまりの光景に口を開ける。その体にティナーシャが飛び込んできた。
「待って! お願い……」
「何なんだ、お前は!」
何もかも意味が分からない。
自分に執着していることも、彼女が異能者であることも。
何故鳥籠を出ないのか、何を望んでいるのか、少しも分からない。
ただ無防備に彼を欲して縋ってくる躰。
それは焦燥と、焼け付くような情熱を彼に思わせるのだ。



アルファスはしがみついて来るティナーシャの両肩を掴んで引き剥がす。
そのまま軽い体を、鳥籠から死角となる壁に押し付けた。何かを言おうとする女に顔を寄せ、深く口付ける。
目の眩むような内奥の熱さ。
それは、愛情などではないだろう。何かを変えるようなものでは決してない。
強引に、理解し得ぬ自我をぶつけるだけの行い。
彼女への掣肘でもある行為は、しかし彼自身の精神をも灼く温度を持ち合わせていた。
顔を離した男は、何かを振り落とすようにかぶりを振って踵を返す。
その場にへたりこんだティナーシャを見ることはせず、アルファスは小部屋を出た。
ちょうど向こうから異変に気付いたらしい大尉ら数人が走ってくる。
「クロイツァー中佐! 彼女は!」
「中にいる」
ティナーシャが追ってくる気配はもうない。そのような気は挫かれてしまったのだろう。
アルファスは苦い顔を手で覆うと足早に廊下を去っていく。
次に鳥籠に送られたらどのような顔をして彼女に向かえばいいのか、今は考えたくなかった。