鳥籠の女 10 - 罅割れる籠

mudan tensai genkin desu -yuki

女の白い指が盤上を動く。
叩かれる升目。それに応じて駒の姿が青白く浮かび上がった。
剣を携えた獅子人が黒い盤上を動く。
戦局の繋ぎとなる一手。ティナーシャは相手の動きを待った。
対面に座る皇帝は、美しい駒が居並ぶ様を見て微笑む。
「奇手を打つか。悪手を恐れぬのだな」
「好きで打っている訳ではない。他に打てる手がないだけだ」
「だが、ラディクはおぬしのよい駒となるであろう?」
この場にはいない男の名を挙げられ、ティナーシャは眉を上げる。花弁のような唇がいささかに歪んだ。
彼女は盤に向かっていた体を、乱暴に背もたれへと預ける。上を向く頤。闇色の双眸が籠の天井を捉えた。
玲瓏たる女の声が、場に降り注ぐ。
「お前はそれでいいのか? 私は手を止める気はないぞ」
静止した盤上。
駒に見入っていた皇帝は顔を上げた。皺を深めて目を瞠る。
「おぬしが儂のことを気にかけるとはな」
「気にかけてなどいない。何を考えているのかと思っただけだ」
上を見たまま動かない女を前に、皇帝は枯れ枝のような指を盤に伸ばした。
剣を持った騎士の駒が音もなく滑っていき、膝をつく女教皇に向かってその剣を振り下ろす。
硝子が砕け散るに似た破砕音。失われた駒に、ティナーシャは細く息を吐き出した。
ゆっくりと変化していく戦況。不均衡な鬩ぎあいに皇帝は上澄みのような目を向ける。
「何も考えてはおらぬ。ただおぬしと、こうして駒を競わせることが愉しいだけだ」
「駒はいい迷惑だろうな」
「お互い様であろう?」
辛辣な指摘に女は嘲笑を浮かべる。
皇帝は目を閉じ、嘯いた。
「さあ、駒を動かすがよい、変革の魔女よ。―――― まもなく滅びの幕が開く」
時計の針は戻らない。
それをよく知る女は、冷えた目で駒を見下ろす。
そしてティナーシャは細い指を伸ばすと、己の獅子で騎士の首を刈り取ったのだった。





鳥籠でラディク公と対面してからというものの、アルファスにはぴたりと鳥籠への召喚命令が来なくなった。
散々迷った挙句、ラディクを見たことを上に報告しなかった―――― そのことが影響しているのかもしれないし、違うのかもしれない。
ただ貴族たちの不興を買ったラディクが急に呼び戻されたことといい、帝都が不思議とざわついていることといい、宮廷やその周辺で何かが動いているらしいことは確かだ。
アルファスはそれに勘付きつつも、だが「関わりたくない」と思う。
貴族たちが争う中に巻き込まれたいとは思わない。
それが彼の正直なところで、鳥籠の女についても同じようにしか思えなかった。
本来の任務において、有人部隊の演習に携わっていたアルファスは、カーティスやケストナーと会う度いくつかの話を聞く。
それは、貴族同士の関係に大きな、だが静かな動きがあることや、帝都から西の基地へ大規模な兵力調整があったこと、また報道機関の一部が軍部に直接接触していることなど、いずれも「今までとは違うざわつき」を示す違和感で、アルファス自身も日々それとなく感じていることばかりであった。
たまたま重なった休日の午前中、今は通信部隊に所属しているケストナーが、いつものカフェでお茶を手にぼやく。
「まったく、貴族連中は使い物にならなくて腹立たしい。
 民間人が戦争の実情を知らないっていうレベルじゃないからな。戦争に携わっているのに、何も見えていない」
息巻く友人にアルファスは苦笑した。
今日はカーティスがいない為、話にずれた水を差す人間もいない。
その為彼は「直属の上司が必要な連絡を少しもしてこない」というケストナーの文句を、先ほどから一人で聞き相槌を打っていた。
香りの強い褐色茶を飲みながら、ケストナーは苦々しく吐き捨てる。
「結局奴等が見えているのは見たい範囲だけなんだ。上からしたら操り易いんじゃないか?
 利権をちらつかせて誇りをくすぐってやればすぐに動く」
「元々そういうものだ。まともな判断を期待してもこちらが馬鹿を見るだけだろう」
「あいつらを一掃出来れば、もっと費用も人員も効率化出来るんじゃないか、ってところがいくつかあるんだけどな……」
「絵空事にもなれん話だ。それが出来たら俺も動きやすくなる」
冗談めかしてアルファスは言うと、テーブルの上のメニューに手を伸ばした。
そろそろ休日の昼近くという時間である。軽食でも追加しようと思ったのだ。
だがそれを見ていたケストナーはふと口を開いた。抑揚のない声音で呟く。
「お前さ、もし本当にそれをする、ってことになったらどうする?」
「うん? 何だそれは」
「いや……」
ケストナーは何かに気付いたかのように、いささか歯切れ悪く口ごもった。
アルファスは目を丸くして友人を見やる。その視線に気付くと、ケストナーはかぶりを振った。
「何でもない。今は忘れてくれ」
「どうした。今は、って」
「単なる噂みたいなものだ。はっきりしたらまたお前に言うさ。
 ―――― あの話が本当なら、お前がいてくれれば心強い」
何のことやらまったく分からない話。
しかしアルファスが怪訝な顔をしても、ケストナーはそれ以上何も言おうとはしなかった。
不審な友人の態度に、アルファスは自分たちのすぐ傍まで「ざわつき」が侵食しているような気分になる。
少しずつあちこちから押し寄せてくる違和感。
だがそれも、友人が絡んでいることならばいずれ明らかになるだろう。
アルファスはこの時はそう片付けて、別の話題へと移った。
けれど、そう思ってケストナーと別れた三日後、友人は急な配属換えで帝都西の基地へと移り―――― 結果アルファスは、「その時」が来るまでざわつきの奥に広がるものを、知ることが出来なかったのである。






暗い空間に彼女は立っている。
白い素足が踏むものは、概念でさえない単なる虚だ。
ティナーシャは綱渡りをするように、細い足を繰って一歩一歩前へと進む。
右手に持った短剣。黒い刃が濡れているかのような艶を放った。魔女は顎を上げ、先に在るものを見据える。
「もうすぐに行く。返してもらいますよ」
抑えた声での宣言に、返事はない。それは言葉や声として返って来るものではない。
在るものは波のようなただの意思で、ティナーシャにとってそれは、大陸を覆う残滓と大差ないものだった。
人から変質し、呪具となった魔女は黒い刃を顔の前にかざす。
既に交渉は決裂し、あとは衝突するだけとなった現状。
彼女は目を閉じると、無言で邂逅の場を割り砕いた。



目を開けた時、まず見えたものは自身に向かって伸ばされる男の手だった。
ティナーシャは体を動かすことなく、その手を魔力によって振り払う。
不可視の力に拒絶されたラディクは驚いて手を引いた。微かな怒りが男の表情に横切る。
彼女はソファから体を起こすと、額の汗を手で拭った。
「触らないでください。次は殺すかもしれませんよ」
「俺の部屋で眠っておいてよく言う」
「私が、貴方の小心にあわせてさしあげたのですよ」
鳥籠で密談することを嫌って彼女を自邸に呼んだ男は、それを聞いて今度こそ苛立ちを顕にした。
鍛えられた腕が防ぐことを許さぬ速度で彼女に伸びる。
ティナーシャの細い首と顎を、ラディクの手は違わず手中に収めた。
芸術品のような貌を男は黙って見下ろす。無骨な人差し指が首筋を這うように撫で、熱を込めた囁きが洩れた。
「すぐに折れそうな首だ」
「やってみなさい。忠告はした」
まるで興味がないかのような返答。
ラディクはその温度の無さに、興ざめしたのか手を放した。背後にあるテーブルに戻ると、酒の入ったグラスを手に取る。
「お前も飲むか?」
「要りません。それよりも言いたいことがあるのならばどうぞ」
「準備が整った」
双方にとっての転機を予告する言葉。
その言葉にだが、ティナーシャは「そうですか」とそっけなく答えただけだった。
ラディクはテーブルに置かれた書類の数枚に目を通す。しかし彼はすぐにそれらを、硝子の皿の中へと放り込んだ。燭台の炎を近づけ、全てを躊躇いもなく燃やしてしまう。
ティナーシャは夜の窓に映るその光景を無表情で眺めていたが、小さく息をつくと口を開いた。
「私の予定は変わらぬままでいいんですね?」
「ああ。他にそんなことを出来る奴はいない。時間を間違えるな」
「予定した以上のことはする気がありません。失敗せぬよう」
「お前の期待に応えてやる」
傲然とした自信に溢れる男に、ティナーシャは苦笑する。
だが彼女は自分の思ったことについて何も言葉にはせずに、ソファから立ち上がった。
折れそうに細い、だが芯が通って見える立ち姿。毅然とした少女の姿にラディクはしばし見惚れる。
ティナーシャは乱れた髪を乱雑にかき上げた。
「貴方が私の希望を叶える限り―――― 少しだけ、力を貸してあげましょう」
闇色の双眸が、奥底に孕むものは空虚である。
覗き込む者の声だけしか反響せぬ虚に、男は顔を顰めた。
「お前は……一体何だ?」
根源的な畏れ。
それは、子供が夜を恐れるようなもので、人が神を畏れるようなものだ。
異質であると、直截的に指摘された女は目を閉じて微笑する。
ティナーシャは問いに問いで返した。
「貴方は、永遠の生というものを望みますか?」
人間の前に、自身を映す鏡を置くに似た問いかけ。
ラディクは眉を寄せると、得体の知れぬ女の内面を探るように「興味はあるな」とだけ嘯いた。






その日、アルファスは宮廷から唐突な呼び出しを受けた。
鳥籠に呼ばれたのかと思えばそうではない。宮廷奥にある謁見の広間へと呼ばれたのだ。
初めて足を踏み入れた壮麗な部屋。最奥にある玉座へと呼ばれた彼は、内心の疑問を押し隠しつつ皇帝の前へと赴く。
貴族ではなく、将官でもない自分のような人間が、何故突然皇帝の傍に寄ることを許されたのか。
心当たりは一つしかない。アルファスは鳥籠でのことを単一ならざる感情をもって想起した。
近づいてくる玉座。そこに座す老皇帝は衰え枯れきった体に、だが余人には理解しえぬ泰然を持って、近づいてくるアルファスを見ている。
若き頃は聡明で知られていた支配者は、その頃の鋭さから少しだけ変質した存在感を退廃に包んで、豪奢な椅子に身を沈めていた。
アルファスが玉座の前に跪くと、皇帝はしわがれた声で笑う。
「来たか」
「は……」
「武器を取るがよい。おぬしは儂を守る大事な駒だ」
それは、すぐには意味の分からぬ言葉だった。
アルファスは主君に謁見する身として全ての武装を預けさせられている。
だが老皇帝が傍に立つ人間に目配せすると、それらの武器はすぐに侍従の手によって彼の前へと差し出された。
何がどうなっているのかも分からぬまま、アルファスは皇帝の首肯を受けて武装しなおす。
それを眺める皇帝は、面白い趣向を見るかのようにくぐもった笑い声を洩らした。
「もう始まりおるわ。あやつが何処まで来られるか、いい見物になるの」
―――― あやつとは、誰か。
聞きたくは思ったが、許可無く発言することは臣下の身では不可能である。
アルファスは警護官の指示を受け、広間の入り口と玉座の中間地点へ移動した。何も分からずただ「その時」を待つ。
広間の中に行き渡る沈黙。
代わり映えのしない全てが、硬直した帝国の風景内へと埋もれかけた。
けれどその時、何処からともなく緊急事態を知らせる警報が鳴り響き始める。
耳障りに鳴り止まぬ音。
それは帝国の歴史を大きく変える事変の始まりで、盤上を大きく揺るがす駆け引きの、転機を告げるベルの音であった。