鳥籠の女 16 - 悠久を収めし櫃

mudan tensai genkin desu -yuki

女の貌は、反射する月光とそれが作る影によって、微笑んでいるようにも悲しんでいるようにも見えた。
ティナーシャは、彼を見上げていた双眸を遮断するかのようにそっと閉じる。
続く言葉を待っていたアルファスは、そこで話が断ち切られたと分かると、彼女に問い直した。
「大陸の遺志? 何だそれは」
「神代の残滓、と言えばいいでしょうか。神なき後も残り続けるものが、この大陸にはあるのですよ」
「神?」
馬鹿げている、と一蹴しようとして、アルファスは押し黙る。彼女の異能が、常識的には考えられないものであることを思い出したのだ。
ならばこの話にも一理があるのかもしれない。
どう切り取りどう理解するか、考え始めた男に、ティナーシャはかぶりを振った。
「いいんです。飲み込みやすい話ではないんですよ。
 私はただ、その遺志に対する為にこの国を転覆させることにした―――― それだけです」
「ティナーシャ」
名前を呼ぶと、彼女は儚くも嬉しそうに微笑む。
孤独を束の間忘れるような貌。
そのような表情は、鳥籠の中での短い邂逅をアルファスに思い出させた。
男は宙に向けて手を差し伸べる。
何をしようと思ったわけではない。ただ、埋められない空虚をそこに感じたのだ。
ティナーシャは悲しげに微笑むと、素直にその腕の中に収まった。
男の胸に顔を寄せ目を閉じる彼女は、まるでようやく安寧の居場所を得られたかのように穏やかな顔をしている。
このまま眠ることを望んでいるような貌は、捨てられた子に向けるに似た憐憫をアルファスに抱かせた。
彼はそっと女の背を抱いてその髪に顔を埋める。
淡い花の香り。染み入る温もり。
―――― だがこの安らぎが、仮初のひとときでしかないと、彼ら二人ともが知っている。
ティナーシャは目を閉じたまま囁いた。
「《鍵》を……少しだけ、弄らせてください。謀殺されることのないように」
「出来るのか?」
「外しては不味いんでしょう?」
顔を上げ苦笑する女は、最初から彼の答が分かっていたのだろう。アルファスは女の問いかけを首肯した。
「お前たちとは行かない。今はな」
「そう言われると思っていました。
 西部基地とは状況が違う。貴方は部下を混迷の中に見捨てていくことはしないだろうと」
今、アルファスの元に彼らが迎えに来ているのは、彼が彼だからという理由でしかないだろう。
情報を広め、多くの人々を味方につけようとしている彼らも、一般兵一人一人を訪ね真実を説明している余裕はないのだ。
ならば帝国を離反するのは今でなくともいい。
自分は自分の出来ることを果たし、それから事態を見極め動いても遅くはないと、アルファスは考えていた。

ティナーシャは彼の首筋へ手を伸ばす。襟の切れ目から指を滑り込ませると、六角形の《鍵》の表面に触れた。
皮膚との境界を白い指が丁寧になぞる。
我慢しようとは思うのだが、妙なくすぐったさにアルファスは手で顔を覆った。
「手術みたいなことをするのか?」
「外すならそうですけど、今は中を弄るだけですから―――― これを使います」
そう言ってティナーシャは手を引くと、黒い服の中から何かを取り出した。
透明な細い糸の束のようなもの。彼女は束を解くと、その中に右手を滑り込ませた。
糸の先端が次々白い手の甲に吸い込まれていく様を、アルファスは唖然として見やる。
「何だそれは……」
「エギューラ糸」
細く透明な糸が、薄白く発光し始めた。ティナーシャはその手を再び彼の首筋へと向ける。
思わず体を引きそうになったアルファスは、しかし女の左腕に抱きつかれてその場に留まった。
ぴったりと体を添わせたティナーシャは、彼の軍服の襟元を大きく開くと、右手を《鍵》に触れさせる。
何かが体に入ってくるような感覚。生温いお湯を注入されているような気持ちの悪さに、彼は顔を顰めた。
見たくはないし聞きたくもないが、おそらくあの糸が《鍵》の継ぎ目に入り込んでいるのだろう。
アルファスは医者嫌いの子供のように身を硬くさせて、処置が終わる時を待った。
爪先立ちして《鍵》を覗き込んでいるティナーシャは、己の施術を目で確認しながら付け足す。
「貴方からすると信じられない話でしょうけどね。別の大陸では『異能』も科学技術の変換を経て実用化されてるんですよ」
「別大陸? この糸はそこから持ってきたのか?」
「ええ」
女の声は何故か淋しげでもあった。
初めて聞く別大陸の話。それは以前聞いた「魔女」の話と同じ大陸のことなのかもしれない。
アルファスは壁に寄りかかった背を少し落とす。背伸びをしている彼女が辛くならないように、その体を支えた。
そうして彼女の体を抱きとめ目を閉じていると、こうしていることがとても自然なことのように思えてくる。
彼は、己の首筋に顔を埋めている女が、時折思案の声を洩らすのを聞きながら、滑らかな黒髪に指を滑らせた。
胸がざわめく半歩手前に似た不安定さ。だがそれを、今は安堵が相殺している。
伝わってくるティナーシャの鼓動は針のように、永遠にも思える時を刻んだ。
難しい箇所を乗り越えたのか、彼女のほっとした溜息が聞こえる。
少し隙間を残した通路を、人が近づいてくる気配がしたのはそんな時のことだ。
アルファスはそれに対応しようと体を起こしかけたが、ティナーシャに「駄目」と掣肘された。
万が一のことを考えて彼女の頭を庇って抱いた時、隙間からケストナーがひょいと顔を覗かせる。
彼は寄り添っている二人を見て「あ、悪い」と残し、そのまま廊下を奥へと行過ぎていった。
まだ施術に集中しているらしいティナーシャは、ぼそりと呟く。
「今のは誤解されましたか?」
「……かもな」
「縫い針を組み上げて城を作るような思いをしてるのに、ひどい話です」
「すまん」
もしかしたら、《鍵》をまるごとはずしてしまうより、残したまま中を弄る方が大変なのかもしれない。
ティナーシャはその後数分かかってようやく作業を終えると、深い息をつきながら笑顔で彼を見上げたのだった。

ケストナーは次に戻ってきた時、アルファスから返答を聞いていたく残念そうな顔になった。
だがそれも友人らしい判断と思ったのだろう。批難することなく何度か頷く。
「出来れば直接お前と戦うようなことにならないよう祈るよ。俺は対人戦闘苦手だからな」
「ああ」
苦笑する二人は、握手をして別れた。
アルファスは、ケストナーの後について立ち去ろうとするティナーシャを呼び止める。
「そういえば、ラディク公の施術はお前がしたのか? 手術痕が見えなかったが」
「ああ……そうですよ。というか彼が最初の実験台です。非常に嫌そうな顔で逃げ出したそうでしたけど」
あっけらかんとした返事に、アルファスは嫌そうなラディクを想像して笑いたくなる気持ちと、何となく腹立たしい気持ちの両方を抱いた。
ティナーシャは笑いながらひらひらと左手を振る。
「あの人プライド無駄に高いんで、言ったって内緒にしてくださいよ」
「それは吹聴されたくないだろう……仮にも指揮官が」
「日頃の傲岸な物言いにかちんときてたんで、途中で『あ、やっちゃった』とか呟いてやりましたが、びくっとして面白かったです」
「……お前は本当にいい性格してるな」
よく分からない付き合いをしていて分かったことだが、彼女は基本的に「やられたらやり返す」人間である。
しかもその報復は大抵が容赦ないのだ。アルファスは皮肉げな苦笑を浮かべた。
ティナーシャは白々とした顔で肩を竦めたが、不意に真面目な顔になると彼を見仰ぐ。
「本当は私、貴方にこちらについてもらうことは無理でも、戦火に巻き込まれぬ遠くにいてくれないかと、頼もうかと思ってたんです。
 南の禁域近くには小さな町があります。そこにでも……」
「悪いが、その気はない」
「ええ」
目を閉じて微笑む彼女は、鳥籠の中で見たのと同じ孤独な貌をしていた。
それ以上の言葉を飲み込むアルファスに向かって、鳥籠の女は物悲しい声で謳う。
「私は、貴方に駒になって欲しくはなかった」
「俺が選ぶことだ。お前には関係ない」
彼女の手を取り、その傍に立ち、彼女の力になっていたのなら。
それが一番憂いのない道だったのかもしれない。奪われたものを取り返す為の道。
だが、彼らは初めから、世界に二人きりでいるわけではないのだ。



アルファスはティナーシャの左手を取る。
黒い瞳を見つめ―――― 何も言わずその手の甲に口付けた。
顔を上げると驚く彼女の肩に手を触れさせる。
「すまなかった」
言うべきではないかもしれないと思ったが、言いたかった。
次に会う時、自分たちはやはり敵として相対するかもしれないのだ。
ならば今、彼女に渡せるものは言葉しかない。ティナーシャは大きな瞳を見開く。
細い両腕が、彼の首に巻きついてきたのはその一瞬後のことだ。
いつかのように彼のもとに飛び込んできた女は、華奢な躰を添わせてきつく目を閉じる。
震える声がアルファスの耳を打った。
「ずっとずっと……大好きです」
今にも泣き出しそうな囁き。
思わず呆然とする男を前に、彼女は鳥のように身を翻す。
そのまま振り返ることなくティナーシャはあっという間に部屋から去り、あとには男だけが残された。
扉が閉まると、気を抜かれたアルファスは狭い部屋の壁に寄りかかる。
「何なんだあの女は……」
室内に残る月光。
閉ざした瞼の奥に、空を仰ぐ女の姿が映る。
天を望んで頤を上げる彼女は哀惜に満ちて、だが最後まで孤高を望んでいるように見えたのだった。