鳥籠の女 23 - 悠久を収めし櫃

mudan tensai genkin desu -yuki

「お前は娼婦ではないんだろう?」
簡素な寝台に座った男は、背を向けている女に問う。
苦笑混じりの言葉に、黒髪の女は少しばつが悪そうに振り返った。美しい顔が、悪戯のばれた子供のような表情を湛える。
「すみません。嘘をついて」
「別にいい。だが何故だ?」
焚き染められた甘い香りの充満する部屋。商売女が使う宿の一室で、彼は行きずりの女を見上げる。
仄暗い部屋の中に佇む女は、息を飲むほどに鮮烈で、清冽であった。
薄絹の上からでも分かるたおやかな躰。人目を惹き付けてやまない美貌は何処か触れがたく、だが紅く塗られた唇は禁忌のように艶かしい。
彼女はその貌の上に甘えるような微笑を乗せて、男を見た。
「貴方に近づきたかったもので」
心を絡め取る言葉。彼女は男の隣に座る。闇色の瞳が少し濡れてまたたいた。
彼は華奢な躰を抱き寄せ、女の額に口付ける。もたれかかる彼女の髪からは花の香りがした。白い指が彼の首筋に伸びる。
恋人に抱かれる女が、相手の《鍵》を見たがることは珍しいことではない。
娼婦たちは暗黙のルールとしてそれに触れることはしないが、女たちにとってそこに見て取れる揺らぎや波は、自尊心や愛情を満たすものなのだろう。彼は、確かに娼婦ではない女の仕草に苦笑しつつ、だが《鍵》を覗き込む彼女を好きにさせていた。耳元で息を詰める気配がする。
「……どうして?」
聞こえた声音は愕然としたものだ。
彼は怪訝に思って女の横顔を見やる。闇色の目はその時限界まで見開かれ、まるで何かに慄いているようだった。
《鍵》に両手の指を添えて凍り付いている彼女を、男は気遣って覗き込む。
「どうかしたのか?」
「貴方は、これは―――― 」
飲み込まれた言葉。
白い手が、彼の顔へと向けられる。
途端襲ってくる強烈な睡魔に、彼は気が遠くなった。寝台に倒れこむ瞬間、女の黒髪を掴む。

そこから先のことは覚えていない。
それまでのことも忘れてしまった。
ただ彼女はあの時、泣いていた。
そして彼はもう、目覚めることがない。






宮殿内の混乱は既に隅々まで広がっており、その警備体制からして崩れかけていた。
兵士たちは皆、自分のつくべき側に惑い、新旧の意識の間で煩悶し、どちらにつくか決した後は、意見を違える味方と衝突する。
今まで国境で行われてきた戦争が「血の流れぬ戦争」と言われるのなら、この戦いもまた「無血の勝利」と後に語られるのかもしれない。
少なくとも帝国軍は、ラディクの軍を待つまでもなく、急速に自壊しつつあった。
ある箇所では平民の兵士たちが持ち場を放棄して去ろうとし、それを呼び止める貴族士官の怒声が響き渡る。
いまや意味を失いつつある身分差を声高に叫ぶ声は、アルファスの耳にはひどく虚しく聞こえた。
以前ティナーシャやケストナーが彼を訪ねてきたように、おそらくラディクはこれまでの間、そこかしこで内部から揺さぶりをかけていたのだろう。体制の崩壊は既に誰の目にも明らかであり、それを留めようとすることは乾ききった砂で城を作るに似て見えた。
このまま混乱が進めばやがて、兵士たちによる略奪にまで至ることも大いにありうる。
だがそれへの対応は、もはやラディクに任せた方がいいだろう。飛沫のごとくあちこちで起きている騒動を潰していくには、それなりの人員と統制が必要なのだ。
アルファスは部下たちと共に広い宮殿を奥へと進んだ。幸いこの状況下の為、彼らの動きを咎める者には出会わない。
そして彼は再び、皇帝の座す広間へと辿りついた。

「おぬしが来たのか」
広間の前にいた警備兵に誰何され、「護衛強化の為に来た」と答えて中へと入ったアルファスは、いつかの広間に足を踏み入れるなり、皇帝からそのような言葉をかけられた。
まっすぐに奥へと伸びる空間は、前回の傷痕のせいか未だあちこちに補修の痕が見える。
護衛兵も欠けた人数を元通りには補わなかったらしく、三十人余りの武装した人間が配備されているだけであり、そのほとんどは珍しいことに貴族位を持つ士官たちのようだった。ただ皇帝の傍には、前回ラディクと互角以上の戦いを見せたワルド少将が控えている。彼は銃ではなくサーベルを携えており、射抜くような目でやって来た男を睨んだ。
広間の最深に座す老人に向かって、アルファスは声を上げる。
「私が、とはどういうことでしょう」
「おぬしが来たのか、と。ただそれだけだ。
 最後にここに至る者ははじめから、おぬしかラディクかのどちらかであったろうからな」
しわがれた声は、今この状況さえも余興として愉しんでいるかのようであった。
得体の知れぬ存在に、アルファスは這い上がるような気分の悪さを覚える。
玉座までの距離は、彼が全速で走っても十秒近くはかかるだろう。
だがそれほどの遠さでも皇帝の声がはっきりと聞こえるのは、この空間が静まりきっているからに違いない。
何者からも不可侵であった場所。外の喧騒と混迷が嘘のように、広間の中には澄み切った静寂が湛えられていた。
皇帝は、やり取りに不審を抱いたのかアルファスらに銃口を向ける護衛兵たちを、手で留める。
「まだおぬしは何も聞いておらぬのか? 何も分かってはおらぬのか」
「何を……でございましょう」
「己のこと、あの女のこと、この櫃のこと―――― いや、教えぬのだろうな。
 あの女はおぬしを矢面に立たせることを嫌がった。だからラディクを与えてやったのだ。
 奴であれば同じ属性同士、動かしやすいだろう」
「同じ属性?」
ラディクとティナーシャが似ていると思ったことはない。
そう思うほどには、アルファスはラディクの人となりを知らなかった。
皇帝は含み笑いを洩らす。
「『変革』の属性。数多ある属性の中でもこのような時には特に強い効果を持つものだ。
 ラディクはそれを持っておった。……もっともおぬしの『征服』でも、充分な動きが出来たであろうがな」
意味の分からぬ言葉。
皇帝はあたかも自分だけにしか見えぬものを見ているようである。
そしてそれこそが、彼が指し手であるということを意味しているのだろう。
盤上に立つアルファスは表情を険しくした。
「陛下。まもなく現体制は崩れ落ちます。これが、あなたの望みであったのですか?」
「退けられる者にそれを問うてどうする? 儂の望みなど、決めたい者が好きに後づけるものであろう」
「ですが、今のこの状況を導かれたのはあなただ」
それはとうに明らかなことである。
周囲の護衛兵や部下たちが困惑の空気を漂わせる中、アルファスは端然とした態度で主君を見据えた。
皇帝の笑う気配がやむ。
己の国を、地位を、命をかけて進められている遊戯。
その最後の段階において、駒の一つは指し手に向き合った。
「あなたが、彼女となさった取引は何だったのですか」
―――― 取引は断られたと、ティナーシャは言っていた。
だがそれは真であり、同時に偽でもあるのだろう。
皇帝と彼女は未だ駆け引きを続けている。同じ盤上に暗黙のルールを敷いて、一つの結末を導こうとしているのだ。

落とされた空白。
それはゆっくりと広間に染みを作り広がっていった。
アルファスは揺らぐことなく主君を見つめる。
決して長くはなかったであろう沈黙。欺瞞の欠片が剥がれ落ちようとする様相の中で、老皇帝は笑った。
「儂はただ、あの魔女が苦しみ足掻く様が見たかっただけだ。……この櫃の終わりと共にな」
乾いた笑声。広間に反響するそれは、届いた端からぼろぼろと罅割れていく。
長年糊塗し続けていたものが崩れ去る時間。
その歪みに呼応するように、場の空気は息苦しいものとなって全員に圧し掛かった。
アルファスは溜息をつきたくなる衝動を堪える。
そして彼は、最後の引き金となる問いを口にした。
「この大陸を縛する神の遺志とは、何ですか」



国を滅ぼす皇帝と、彼が捕らえていた鳥。
二人の間に広げられる盤の下には、一体何が押し込められているのだろう。



老皇帝は彼の問いに答を返さなかった。
ただ軽く手を振って護衛兵たちを緊張させる。同様にアルファスの部下たちも息を飲む中、老いた男は晴れ晴れとした声を上げた。
「おぬしは、儂のところへ問答をしに来おったわけではあるまい。
 真実など知ったところでどうにもならぬ。―――― 幕を下ろしたいのならば、相応のものを示すがよい」
決裂の言葉に、アルファスは息を飲む。
周囲の誰もがまだ状況を理解出来ていない中、彼は左手を後ろに回すと指を二度弾いた。部下の一人がそれに気付いて頷く。
皇帝は果物でも選ぶように軽々と命じた。
「そやつらを殺せ。たった今から反逆者だ。その男を殺し得た者には元帥位をやってもよい」
終幕の始まりを告げる言葉。
最初の命で訝しげな顔をした士官たちも、続く「元帥位」の言葉に色めきだった。アルファスに向けて銃口を構えようとする。
しかし彼は、それを待つような真似はしなかった。
アルファスの背後から、部下の一人が二つの球を投げる。それは床を弾みながら護衛兵たちの間際にまで接近し、白い煙を吐き出し始めた。
途端に覆われる視界に、激しく咳き込む声がいくつも重なる。
対人戦闘にてよく用いられる無力化ガス。
あらかじめ無言でその使用を打ち合わせていたアルファスたちは、ガスが投げられた時点で鼻から下を覆うマスクをつけていた。
効果時間はそれ程長くない。その間に護衛兵たちを拘束しようと、彼らは走り出す。
有人部隊としては帝国内で一、二を争うほど生き抜いてきた経験を持つ男たちは、苦悶している士官らに回り込むようにして近づくと、次々その体を引き倒して押さえ込んだ。血流を圧迫し気絶させ、抵抗の激しい者は腕や足を打ち抜いて武器を奪っていく。
アルファスは、咳き込みながらも銃を乱射しようとする士官の足下を蹴りつけると、相手が武器を落とした隙に喉を締め上げた。数秒で気を失った男の体を別の護衛兵に投げつけ、大きく踏み込むとその顎を拳で打ち抜く。
淡々として作業にも思える制圧。実戦経験の違いを明らかにする衝突は、ガスが晴れるまでに全てが終わった。
彼は周囲を見回し部下たちが無事と分かると、微かにガスの残る範囲を越えて、玉座へと距離を詰める。

皇帝は愉悦に満ちた目で近づいてくる男を眺めていた。老いの濃い手が、傍に控えるワルド少将を手招く。
事前に打ち合わせてでもいたかのように、侍従がもう一振りのサーベルを持ってきた。皇帝は肘掛に頬杖をついて嘯く。
「どれほど慎重に駒を並べようとも、期待通りの場面が見られるとは限らぬ。
 それが儂の凡庸さなのであろうな。つまらぬことだ」
「無意味な戦闘を煽ることはやめて頂きたい」
「意味のある戦いなどあったのか?」
辛辣な言葉はしかし、本来は臣民よりも皇帝へと向けられるものだったろう。
だがアルファスは自嘲が感じ取れるその言葉に何も反論はしなかった。彼はマスクを取り去ると、それを床に投げる。
「あなたが一言やめると仰れば、この戦いは終わる。
 玉座にいることが不満であれば、ラディク公にその座を譲られればよい」
少なくともそれで、この混乱は早急に沈静化するであろう。元々全てはその終わりへ向かって進んでいるのだ。
ただ経過が苛烈になるか、そうでないかの違いがあるだけである。そしてアルファスは前者に意義を見出していなかった。
皇帝は男の提案に目を細める。
「本当にそう思うか? 騙され続けた者たちがその捌け口を求めないとでも?
 …………だが、まぁよいのだ。儂が望むものは外のことではない」
その言葉を合図として、サーベルを掲げ持った侍従がアルファスの方へと歩いてきた。
眉を顰める男に老皇帝は短く命ずる。
「剣を取れ」
「何ゆえでしょう」
「折角の機会だ。間近で観るならば、胸躍る戦いの方がよい。
 おぬしは剣を以って、このワルドと戦うのだ」
アルファスの前に差し出されるサーベル。ワルド少将が玉座の傍を離れ、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
隙のない足捌きは嫌でも男の戦意を思わせ、アルファスは苦々しさを覚えた。皇帝の声が響く。
「ラディクであれば、もっと泥臭く苛烈に火を散らして儂のもとへと辿りついたであろう。
 おぬしはその点、つまらぬのだ。せめてその剣技をここで見せてみよ」
「……軍人の技は見世物ではありません」
「儂にとっては見世物だ。儂を満足させれば、おぬしの望む対価を支払ってやるぞ?」
対価とは、争いを止めることだろうか。それとも真実か。
アルファスは渋面で差し出された軍刀を見やったが、銃を床に置くとそれを手に取った。背後の部下たちを振り返り、手出しせぬよう指示する。
彼と相対するワルド少将は、軍人らしい強固な統制を窺わせる目でアルファスを見据えた。低い声が反逆者とされた男にかかる。
「貴官は見所があると思っていたが、残念なことだ」
「閣下はこれをおかしいとは思われないのですか」
言葉の応酬はそれだけで終わった。二人はサーベルを抜き向かい合う。
皇帝が愉悦に満ちた目で彼らを見下ろした。誰もが二人に視線を注ぐ中、顧みられぬ入り口に一人の女が現れる。
ティナーシャはアルファスの様子を一瞥すると、目を閉じて傍の白い壁に寄りかかった。
異様な舞台となった広間。皇帝の声だけが虚しくこだまする。
「始めよ」
そして広間には剣戟の音が鳴り渡った。