鳥籠の女 25 - 悠久を収めし櫃

mudan tensai genkin desu -yuki

「櫃の中に行きたいのです。ちょうど貴方には後継者がいない。退位を早めて誰かに皇帝位を譲ってはくれませんか?
 その時に私を櫃の中に連れて行ってくれるなら、私はこの力を以って帝国に百年は安寧をもたらしましょう。
 たとえ神の遺志が失われても、この国が崩れずに済むように」
「そのようなものは要らぬわ。魔女よ、欺瞞の帝国に安寧など必要か?
 欲しいものがあるならば、己の采配で血路を開いてくるがよい」
「―――― ならば国には、人の手による変革を」






灰色の影に相対する魔女。
その姿は同じ空間にありながら、ひどく「違う」場所に佇んでいるように見えた。
ティナーシャは短剣を構えながら左手を緩やかに振る。聞きなれぬ言語がアルファスの耳に届いた。
何をしているのか、訝しく思ったのも束の間、彼女の周囲に白い光球が浮かび上がる。
空中に静止する球は全部で六つ。その光は、無人機の放つ光条を思わせた。
魔女の白い指が影を指差す。
一方その影は、人型から輪郭を変え大きさを増すと、甲虫に似た巨大な姿へと成っていた。角の代わりに長い尾が宙を揺れる。
その先は槍の穂先のようになっており、体の何処であっても貫かれれば大穴が開いてしまうことは予感できた。
ぼんやりとした影から明確な姿になったそれを、アルファスは唖然として見やる。
「何だこれは……」
「だから遺志の具現化。危ないから下がってて下さい」
ティナーシャは前を見たままアルファスに手を振る。ラディクが顔を険しくさせて叫んだ。
「お前は俺にそんなものの相手をさせる気だったのか!」
「貴方だけが来ていたならこんな形にならなかったでしょうよ。精神干渉されて、属性視の能力を与えられて終わりです」
「皇帝がそんなものだとは聞いていなかった!」
「言う必要もないでしょう。『これ』は私がここで殺しますし」
灰色の甲虫に目はない。
だが気配からしてそれは、ティナーシャに意識を集中させているようだった。
波紋のような不可視の振動が広がり甲虫の意思を伝える。言葉なき声はアルファスにも伝わり、その意味を解することが出来た。
(変質して奢ったか。人の魔女よ)
「好きで変質したわけではない……などと言っても詮無いだろうな。私を敵に回したのはそちらだ」
(これは、人が手にしてよい力ではない)
「その力を私たちに委ねたのは、半分はこの世界そのものだろう。私は私に課せられた役目を果たすまで」
ティナーシャは煩わしげにかぶりを振ると、甲虫を差す指に光を灯した。その指先で宙に何かを描く。
「人を外れた私たちが悪いのか、強欲なお前が悪いのか。それはこれから決すればいい」
白い指が描く「何か」。それは、湾曲した刃を持つ巨大な鎌のようであった。ティナーシャは輝く鎌を左手に取る。
「では、始めようか」
何ということのないように言い放って、彼女は床を蹴った。



大きな鎌は、小柄な彼女が振るうには不相応なものに見えたが、それは元から手に持って戦う為に作ったわけではないらしい。
ティナーシャは宙を蹴って跳ぶと、白い鎌をおもむろに投擲した。鎌は回転しながら甲虫の背に食い込む。
外殻を切り裂きながら更に内へと抉りこんでいく刃。しかしその刃は、途中で虫の尾に砕かれた。空間に硝子が割れるような音が響く。
はじめの攻撃が消し去られたことによる空白。
ティナーシャはだが、その時既に灰色の背のすぐ上へと迫っていた。跳ねる尾をすれすれでかわす。
すれ違いざま彼女は笑ったように見えた。
纏う光球が、全弾背の亀裂へと飛び込む。甲虫の外殻が中から飛沫をあげて爆ぜた。
血は流れない。代わりにただようものは、薄白い煙だ。
アルファスは甲虫の背から漏れ出す煙を、忌まわしいものを見るかのように目で追った。
鋭い尾が彼の視界を横切って、宙を舞う魔女を狙う。
けれど彼女はその攻撃をまったく意に介せず、まるで泳ぐかのように空中を自在に飛び回っていた。指先から間断なく放たれる光球が、徐々に傷口を抉り外殻に皹を入れていく。
再び白い鎌を作りながら、ティナーシャは皮肉げな微笑を見せた。
「慢心していたのはどちらだ? 朽ちかけた楔如きが、千年以上もの間戦いを重ねてきた私に勝てるとでも?」
(黙れ、人間風情が。神の慈悲を忘れたか)
「あいにくと私はアイティリスの生まれだ。シルジニアドには何の義理もない」
(不出来な末弟め。人に毒され存在すら忘れられた)
「だがアイテアは、人に自由を与えた。―――― 定めることによって守ろうとした長兄と違ってな」
二つ目の鎌が、甲虫の首元に刺さる。
だがそれは、外殻を薄く切り裂いたところで、尾の一撃を受け砕け散った。
甲虫はティナーシャに向かって白い霧を吐く。
宙を蠢く霧は、彼女の放った光をすり抜け、意思ある雲のように体へまとわりついた。彼女の細い喉を締め上げ始める。
魔女の苦しげな呻きがアルファスの耳に届いた。
「ティナーシャ!」
彼は素早く短銃を抜くと、ティナーシャの体に巻きつく霧の端を狙った。
だが発砲された弾は、半ば予想していたように霧を突きぬけ、何の効果ももたらさない。甲虫が笑う気配がさざなみのように生まれた。
(所詮お前たちは人の身だ。女よ、貴様が死した後は同様に、その異質を抜いてやろう)
彼女の薄い腹を狙って突き出された尾。
女を貫くはずだった先端は、しかし己の白い霧と何もない空間だけを貫通する。苦い声が甲虫の背後から聞こえた。
「人の身と、たかをくくってくれているのならやりやすいな」
白い煙。
立ち昇り始めたそれを、アルファスは眉を顰めて見やる。
魔女はいつの間にか太い尾の根元に立っていた。その尾に刺していた短剣を、ティナーシャは引き抜く。
(まさか、貴様)
「神の力を継ぐ者が自分だけかと思ったか?」
喉元に赤い痣を残して、女は可憐に笑った。
そして彼女は続く短剣の一振りで、虫の尾を切断してのけたのである。



目の前で繰り広げられる戦闘が、夢だと片付けられたのならそれが一番気が楽だったのかもしれない。
アルファスは巨大な甲虫と戦う魔女が、少しずつ、だが着実に相手を押していることを見て取ると息をついた。同じように立ち尽くしているラディクを一瞥する。
彼の傍に倒れ伏す皇帝はぴくりとも動かない。アルファスは老人に近づくと、その様子を調べた。
まず武器を置き、膝をついて傷口を確かめてみる。撃たれた穴は既に塞がっており、血も止まっていた。ティナーシャが治したのだろう。
しかし肝心の息がまだあるかどうかは分からない。拍動を確かめようとしたアルファスは、こめかみにナイフをつきつけられ眉を顰めた。
ラディクは混乱の残る目で彼は睨む。
「何をしようとしている?」
「生死を確かめようと」
「不要だ。それよりお前は、何故ここにいる?」
「……さぁ」
それはアルファスが聞きたいくらいである。
ラディクと皇帝は、おそらく皇位継承絡みで今この場に連れてこられたのだろう。
そしてティナーシャは自ら望んで櫃の中に入ってきた。
ならばアルファスは何故ここに来てしまったのか。先程の様子を思うに、彼女にとってもこれは予想外の事態だったに違いない。
自ら疑問を呈し沈黙してしまった男を、ラディクは苛立ちを込めて見下ろした。だが彼は、何かに気付いたのか目を瞠る。
「そうか、お前……」
答を見出したかのような呟き。
アルファスがそれを怪訝に思うと同時に、ラディクはナイフを振るってきた。
彼の喉を切り裂こうとした刃。それを、アルファスは瞬時に飛び退いて避ける。
短銃をティナーシャに消されてしまったラディクは、何も言わず開きかけた間を詰めてきた。
みぞおちを狙って突き出されたナイフを、アルファスは下から蹴り上げる。
サーベルは床に置いたままだ。短銃は持ってはいるが、それをラディクに向けることには抵抗がある。
次代皇帝になる男―――― その相手を万が一殺してしまったら、帝国は留めようもない混乱に陥るかもしれないのだ。
勿論急所を外すことは可能だが、ラディクの動きは早い。そのような甘さを許してくれるか、彼はいまいち心許なかった。
アルファスは刹那逡巡すると、抜いていた短銃を腰に戻す。間髪居れず目を狙って薙がれたナイフを身を屈めてよけた。
ラディクは相手のその様子を見て、鼻を鳴らして笑う。
「何故武器をしまった? 俺に殺される気になったか」
「いや、念の為」
「愚かだな」
流れるような攻撃はやむ気配がない。
突きこまれるナイフ。それを握る腕を、アルファスは前に踏み込みつつ取った。ラディクの足を払い、相手の勢いを利用して後方へと投げる。
ラディクが舌打して受身を取る間、アルファスは振り返ると弾き飛ばされてきた女の体を受け止めた。
いつの間に怪我をしたのか、脇腹から血を滲ませているティナーシャは、男を見上げると汗を滲ませながらも苦笑する。
「すみません」
「大丈夫なのか?」
「多分。……私がここで全力振るうと空間が壊れちゃうんですよ。一人ならよかったんですが、参った参った」
―――― 何か手伝うことはあるか、と。聞く前に彼女は両手を上げた。
追撃で放たれた無数の針が、彼らの周囲で弾けとぶ。魔女は軽い声で笑った。
「じゃ、行ってきます」
腕の中から消え、甲虫の真上に現れたティナーシャを、アルファスは険しい表情で見仰ぐ。
だがそうして余所見をしていられたのも一瞬のことで、彼は再びラディクの刃を避けて右に動いた。脇腹を狙った手は、不敵に笑う相手の肘に阻まれる。



「参ったなあ。卵の殻の中で、殻を割らないように戦ってる気分」
(どうした。人の魔女よ)
嬲るような声。ティナーシャは右手の短剣に目を落とした。
数秒考えると、彼女はふっと笑う。
「よし、この手で行こう」
ティナーシャは剣を握る指を、そしてその先を意識して構成を組み始めた。
故郷の大陸では精霊術士と呼ばれる者たちだけが使えた構成。それを彼女は黒い刃に注いでいく。
短剣の刃は、その力に呼応するかのように徐々に大きさを増していった。やがてそれは、すらりとした一振りの剣となる。
甲虫の驚愕が空間を震わせた。
(たわけたことを)
「私は元々精霊術士だからな。アイテアの力とは相性がいい」
美しい魔女は艶かしく微笑むと、黒い剣で宙を薙ぐ。
切り裂かれた空中から雷光が走り、甲虫の背へと注いだ。穴だらけの体から更に白煙が上がる。