鳥籠の女 26 - 悠久を収めし櫃

mudan tensai genkin desu -yuki

長剣と言えるほどの長さになった黒い細身の剣。
ティナーシャはその刀身に雷光をまとわりつかせて、灰色の甲虫を見下ろす。
既にその巨体は彼女の攻撃であちこちが崩れかけており、虫は力が削れてきた為か、尾を再生する力も残っていないようだった。
魔女は艶やかに笑って剣を掲げる。
「さて、いくつに切り分けてやろうか」
結末を宣告する言葉。
怪我は治したが、少なくない疲労感は彼女の中に溜まっている。
それは魔力を使いすぎていることと無縁ではないだろうが、今のところティナーシャの中では高揚が勝っていた。
彼女は、残酷な女王の如き微笑で、神の残滓を見下ろす。強張った思念波が返ってきた。
(魔女よ、神殺しを恐れぬのか)
「恐れん。私は神の存在を知ってはいるが…………昔から無信仰だ」
空を蹴って、彼女は真下へと跳ぶ。
まるで剣舞のように優雅な一振り。
それは研ぎ澄まされた力を以って、甲虫の胴を鮮やかに両断した。



襲い掛かってくるラディクの攻撃を黙々と捌き続けていたアルファスは、相手が次第に苛立ちを顕にしても、意識して平静を保ち続けた。
ラディクもここまでの間に疲労してきたのだろう。僅かずつ精彩を欠くナイフ捌きに、アルファスはそろそろそれを取り上げられるかもしれない、と考えた。だがいざ彼が機を計り始めた時、背後から冷たい風が吹き付けてくる。氷のような女の声が響いた。
「ラディク、つまらぬ真似はやめなさい。殺しますよ」
「……ティナーシャ」
見ると戦闘は既におおかた決着がついているようである。
黒い剣を提げた魔女は、ぶつぎりにされた甲虫の頭の前に立って、二人を見やっていた。
斬りおとされた体の他の部分は、薄灰の霧となって白々とした空間に霧散していく。
ラディクは忌々しげにアルファスをねめつけると、戦うことをやめ魔女の方へと歩いていった。
彼は気味悪げな表情で甲虫の頭を眺める。
「死んだのか?」
「瀕死ってやつですね。もうすぐ死にますよ」
「気味が悪いな。さっさと殺せ」
「まだやることがあるんですって」
ティナーシャは苦笑すると右手の剣を軽く振った。黒い剣身が瞬く間に縮み元の短剣に戻る。彼女はそれを腰の鞘に戻した。
ラディクは彼女の半歩後ろで足を止める。
その間に魔女は、白い右腕を甲虫の頭へと向けていた。
美しい指先。何も持っていないそれが、虫の体の中に没していく。
水の中にでも手を差し込むかのように、細い腕が灰色の殻に飲み込まれていく様はひどく異様で、だが神秘的な光景だった。
アルファスは倒れたままの皇帝の傍に寄り、膝をつきながら、二人の様子に注意を払う。
ティナーシャは何かを探しているかのように、しばらく肩まで差し込んだ右腕を中で動かしていたが、ようやく見つけたのかふっと微苦笑した。ゆっくりと腕を引き抜いていく。
―――― おそらく今彼女が見つけたものこそが、「奪われた力」であるのだろう。
アルファスは緊張と好奇心を持ってティナーシャに注目した。白い指が再び視界の中に現れる。
彼女の五指がしっかりと握っていたもの。それは、剣の柄であるように見えた。
何かの装飾が施された柄。その先には、鏡のように磨かれた両刃が続いている。
柄が完全に外へ出てしまうと、魔女は一息にその剣を甲虫の頭から引き抜いた。安堵の嘆息が洩れる。
「これでようやく……」
「それが『永遠の生』か?」
続く光景は、アルファスには予想外なものだった。少なくともティナーシャにもそうであったに違いない。
後ろからナイフで背を一突きされた魔女は、驚愕の表情でその場に両膝をつく。
そのまま縮こまるように崩れ落ちる体を、ラディクは陰惨な微笑をもって見下ろした。女の黒い髪に足を乗せる。
「安心しろ。お前は後でちゃんと相手をしてやる」
魔女はその囁きに答えない。
男は身を屈め、彼女の握る長剣に手を伸ばした。瞳の奥に昏い野心が揺れる。
「鬱陶しい神の遺志とやらも死んだ。これからは俺が―――― 」
ラディクはそこで言葉を切った。
体を強張らせ、指を落とす。均整の取れた長身が揺らぎ、ゆっくりと前へ倒れた。
左のこめかみに開いた銃創。丸い傷口から赤黒い血が溢れ出す。
皇帝になるかもしれなかった男を、一発の銃弾で殺したアルファスは、隣の老人へと尋ねた。
「……よろしかったのですか」
「構わぬ。儂の見込み違いだった」
薄く目を開けた皇帝は、そう言って乾いた笑いを零した。






ティナーシャの傷は急所から外れていた。ラディクがあえてはずしてあったのだろう。
アルファスの手を借りて彼女はナイフを引き抜いてもらうと、何とか己の傷を治癒した。一息つくと苦い声で慨嘆する。
「油断しました。すみません」
「ひやりとしたぞ」
「おぬしは詰めが甘いのだ」
彼女を支えるアルファスと、床に胡坐をかいた皇帝。二人にそう言われて魔女は軽く項垂れる。
ティナーシャは大きく溜息をつくと、老皇帝を見やった。
「にしても、予定が崩れたな。すまん」
「大したことではない。属性が分かってもその人間の全てを把握出来る訳ではないのだ。儂の手落ちだ」
「とは言え、私の不手際だからな。百年には及ばぬが、数年は何とか出来るようにしよう」
言いながら魔女はまた、意味の分からぬ言語で何事かを詠唱した。白い掌を皇帝の額に当てる。
そのまま彼女は目を閉じて一分程何かをしていたが、ようやく手を離すと「これでいい」と苦笑した。
彼女はあちこち血に染まってしまった白い服を見下ろすと、改めて取り落とした長剣を拾い上げる。
曇りの一つもない剣身をアルファスはまじまじと見つめた。
「で、これがお前の取り戻したかったものか」
「そうですよ。力、記憶、運命―――― そんなものの結晶です」
鏡に似た美しい刃は、見つめれば見つめるほど飲まれていく気がした。
アルファスはのめり込むようにその剣を注視している自分に気付くと、気まずい気分で顔を離す。
彼はティナーシャから一歩下がって距離を取った。何処にもドアのない空間を見回す。
「取り戻せたのならさっさと帰るぞ」
「帰りますけど、その前に一つ」
闇色の瞳が彼を見上げる。
夜よりも深く広がる深遠。
蠱惑的で、だが何処か悲しげな双眸がアルファスを見つめた。彼女は両手で支えた長剣を、彼へと差し出す。
「アルファス・クロイツァー、貴方に問います」
澄んだ声は、変質した運命によるものだ。アルファスは息を止めて続く言葉を待つ。
―――― ここがおそらく、最後の時なのだろう。
彼女が約束した問い。歴史の裏側で下りる幕。
魔女は真摯な瞳で唇を開いた。
響いて忘れられぬ声が、彼の精神にかかる。
「貴方は、永遠の命を望みますか?」
それは感情のない、ただの問いだった。



まったく予想していなかったティナーシャの言葉。
それを聞いてアルファスが真っ先に思い出したものは、野心に目が眩んだラディクの姿だ。
彼は女の黒い瞳を見つめる。
いつかの日、「自分は人間ではない」と語った彼女の寂寥。孤独と自嘲を思わせる貌が、アルファスの脳裏に浮かんだ。
多くの疑問が乾いて喉につかえる。彼は目の前の魔女に反問した。
「何故、そんなことを聞く」
「答えて下さい。貴方の思うままを。私は貴方が望むのならそれを叶えることが出来るのです。
 ―――― アルファス、永遠の命が欲しいですか?」
淡々と落ちる水のような誘い。
魔女の問いは、人によっては何よりも甘い誘惑となっただろう。絵空事のような不死が、すぐそこに用意されているのだ。
人を外れて得る特権。それを望んで叶えられなかった人間が過去どれ程いることか。
想像しだせばきりがない。
だがアルファスは……そのこと自体に何も惹かれるものを覚えなかった。
彼はティナーシャの目を見て答える。
「興味がない」
きっぱりとした返答。
アルファスはその答を前提として、続く言葉を口にしようとする。
彼女の真意は何処にあるのか、一度きちんと問い質そうと思ったのだ。
だが彼の詰問は、声となる前に塞がれることとなった。
寄せられた体。重ねられた唇に、アルファスは意表を突かれる。
まるで少女のような口付け。ティナーシャは顔を離すと、男の頬に左手を添えて笑った。
透き通って美しい貌が、幸福そうな微笑に染まる。
「私の王よ。どうぞ、お幸せに」
温かな祝福。
想いだけを残し、魔女は床を蹴って宙に跳ぶ。
それが別れの言葉だったと彼が気付いたのは……剣を抱いた彼女が音もなく消えた、その後のことだった。