青の部屋

mudan tensai genkin desu -yuki

月が皓々と輝く晩には、彼女は瓦礫の塔に帰りたがることが多い。
それは、塔の寝室の天井が硝子張りになっており、そこから月光を仰ぐことが出来る為であろう。
鳥籠に閉じ込められていた時も、あの部屋の天井だけは気に入っていると言っていた彼女は、今も広い寝台に仰向けになって、硝子の天井を見上げていた。
寝室に戻り彼女の隣に座った男はその頭を撫でる。
「何が面白いんだ?」
「いえ、色々懐かしい気分になりまして」
微笑んで恋人に返したティナーシャは、だが何かに気付いたのか表情を変えた。神妙な面持ちで体を起こすと、彼に向かって手を伸ばす。
前髪をかきあげてくる手を、男は苦笑して受けた。ティナーシャは軽く首を傾げる。
「―――― 戻ったんですか?」
「ああ」
数日前からしきりに頭痛を訴えていた彼は、彼女を残して入っていた浴室で不意に本来の記憶を思い出したのだ。
もう何度目になるのか分からない覚醒。だがその瞬間はいつも、不思議な虚脱感を彼に抱かせる。
オスカーは飛びついてくる女の体を抱き寄せると、その額に、頬に、口付けた。ティナーシャはうっとりと目を細める。
喉を撫でられる猫に似た様子。だが、そうしていても彼女が緊張を覚えていることは確かだった。
怒られることを覚悟しているような女に、オスカーは小さく噴き出す。
「何だ。どうした」
「今回は十日くらいの説教ですか? 独断過ぎるって」
「確かに言いたいことは色々あるけどな」
彼から記憶や力が失われた隙に、人としての道を歩かせようとした女。
それは彼の意に添う判断ではなかったが、彼女が何を思ってそうしてくれていたのか、オスカーはよく理解していた。
彼は膝の間に女の体を座らせると、後ろから細い肢体を抱く。青い瞳が硝子の天井越しに夜空の月を仰いだ。
無言の時間は、二人でいる時はいつも温かく、ほろ苦い。
オスカーは目を閉じて額を妻の肩に預ける。溜息が言葉になった。
「二度とするな」
釘を差す言葉にティナーシャの体は震える。
子供の不安に似た恐れ。それを安心させるようオスカーは抱く腕に力を込めた。
道が分かたれかけた初めての機会は、乗り越えた今でも消えない不安を抱かせる。
彼は、気の遠くなる年月を共にして、だが一度も言ったことのない真実の記憶を紐解いた。
「お前は……今まで生きてきた中で一番嬉しかった時がいつか、覚えているか?」
「一番嬉しかった時?」
ティナーシャの声は怪訝そうなものだった。
彼女はしばらく考えた後、「分かりません」と答える。
「嬉しかったこといっぱいありますから。貴方を好きになった時のこととか、子供を生んだ時のこととか」
「そうだな」
「どうしてそんなことを?」
「俺は覚えているからな」
苦笑混じりの言葉に、ティナーシャは振り向こうと身じろぎした。
だが彼はそれを許さず彼女の体をそのままに留める。今この時だけは、彼女の顔を見ることに抵抗があった。
ティナーシャは彼の揺らぎを察したのか、息を吐くとその背を男に預ける。
「いつのことですか?」
「お前が初めて戻ってきた夜のことだ。小さな最上位魔族になってな」
「ああ」
あの時彼女は元の記憶もろくに揃っていない幼子であったが、今の彼女はそれも含めて思いだせるのだろう。微苦笑する気配が伝わってきた。
オスカーは彼女の黒髪に口づけて続ける。
「あの晩ほど嬉しかったことはない。失ったはずのお前が戻ってきた。
 ―――― それだけじゃなく、俺は、永遠にお前を失うことがないと知った」
それまでは、繰り返しの記憶が汲み出せようとも、それ自体自分の妄想ではないかと恐れていた。
だが真実彼女が戻ってきた時、オスカーは己の運命を確信したのだ。
彼女も自分も、本当の意味では喪われることがない。
彼はその変質を―――― 心から、喜んだ。

「エルテリアを壊すことを決めたのは俺だ。だが結局は、あれのせいでお前まで逸脱してしまった。
 俺がお前をこの変質に引きずり込んだんだ。それを分かっていながら、俺はあの時ひどく喜んだ」
「オスカー」
「言えば呆れられると思って黙っていたがな。……すまなかった」
度し難い思い。
王として生きてきた彼の、一片の愚かさがそこにはある。
永遠の生が欲しいわけではない。ただ彼は、永遠に彼女を失いたくはなかったのだ。
だからティナーシャははなから迷う必要もなかった。
彼は逸脱した二人の道を、そのはじめの時から歓迎していたのである。



喜びは、大きければ大きいだけ苦さを伴う。
ずっと黙っていたことを吐き出した男は、贖罪をするように頭を垂れた。己の指を妻の指と絡めて握る。
ティナーシャがそっとその指を握り返した。
月光の降り注ぐ青い寝台。二人の異質はお互いをあるべきように寄り添わせる。
「だからいいんだ。二度とするな。俺を置いていくな」
「オスカー」
清冽な声は、どれほどの時を経ても変わらない。
幾度となく聞いた呼び声に彼は頷いた。緩んだ腕の中で、女が振り返る。
夜を凝縮したような、それよりももっと深い黒の瞳。
彼に多くの感情を抱かせる眸をオスカーは見返した。
冷えた空気全てが過去に繋がっているような幻想。乗り越えてきた多くと置いてきた無数が、静寂の中をたゆたう。
不変を負う二人は、真摯な目でお互いを見つめた。
同じものを分かち合って飛ぶ片翼。ティナーシャはふっと微笑むと、彼の手を取りその甲に恭しく口付ける。
それだけの仕草に深い思いを込めて、彼女は囁いた。
「私も、貴方がいる限りずっと」



いつか終わるであろう旅路。
その時が二人平等に訪れるのか、まだ定かではない。
ただ出来るなら自分の終わりには彼女の手を取っていたいと願って、オスカーはティナーシャの柔らかな躰をそっと抱いた。