薔薇の魔女

mudan tensai genkin desu -yuki

間の悪い時、というものは存在するものだとオスカーは苦笑した。
60年余りずっと組んでいた構成。
館に仕える使い魔の他に使役するものを持たない彼は、それが日課であるかのように長い間独りで片翼を探していたのだ。
厄介な戦いの余波で体内の力がズタズタに乱され屋敷から動けなかった時も、だから彼は構成を組んだ。
組んで、ようやく反応があった時どれほどの感慨を抱いただろう。
彼女が戻ってきた。
失われていた彼の魔女が、ようやく戻ってきたのだ。
身動きが出来ない彼はリトラを向かわせ、彼女がまさにその日滅んだ国の王女で落城と共に幽閉から解放されたことと、そのままロズサークに連れて行かれたこ とを知った。
どちらかと言えば巡り合わせが悪い事態だ。
王家の人間、それも興亡に関係する人間を手中にするのは容易ではない。
勿論力で奪い去ることは出来る。だが人質として連行された亡国の王女を拉致すれば、おそらく彼女の国の民にしわ寄せが出てしまうだろう。
余程の状況でなければ彼女だけを優先し、他を切り捨てるというわけにはいかない。
出来るだけ波風を立てないように、彼女を取り戻さなければならないのだ。
それは既に人ではなくなった彼らの人間に対しての弁えであり、かつて王であった彼らの身に染み付いた理想だ。
オスカーはナークだけを彼女の元へ向かわせると、自分は深い休眠へと落ちていく。
例えどれ程の苦労が必要であろうとも、彼女が戻ってきた、そのことだけで全てを容易くこなせる気がした。

「いつもついてろと言っただろう」
主人に叱られナークは項垂れたように見えた。
至急とのことで王に呼ばれたティナーシャを案内した彼は、彼女の傍にドラゴンが居ないことに気づき、自分のもとに呼び出したのだ。
ナークには王が彼女に手を出そうとしたら痛い目を見せてやれとも命じてあったのだが、未だに彼に怪我がないところを見るとティナーシャ本人にでも痛い目に遭 わされたのだろう。半日で後宮を出され魔法制御の訓練を受けていると聞けば大体の想像もつくというものだ。
「俺がいるからいいと思ったのか。俺にも立場がある。どこにでもはついていけん」
言いながら彼は菓子を出す。菓子の類があまり好きではない彼がそんなものを持ち歩いているのはこのドラゴンのためだった。
投げてやるとナークはひょいひょいと食いつく。いつ見ても面白い。
立て続けの雑務に疲れていたせいか、つい夢中になっていたオスカーは、 後ろから遠慮がちに声をかけられてようやく彼女が戻ってきたことに気づいた。
60年ぶりに会った魔女は幽閉されていた為であろう、まるで幼い子供のようになっていた。
その姿は痛ましくもあるし愛らしくもある。
人に慣れていないせいか、時折不安そうな目をする彼女を見ると胸を焼かれる思いがした。
二人は異国の城の長い廊下を歩いていく。
既視感に似た不思議な空気が漂った。
すぐ後ろを歩くティナーシャは何か考え込んでいるようだった。
何を考えているのかは分かる。ナドラスに彼女の安否を問う書状を出させたのは彼だからだ。
一度ロズサークが自ら彼女を手放してしまえば後はどうにでもなる。オスカーが彼女を連れ去ってもアンネリの民に被害が及ぶことはないだろう。
だがある意味問題はその後のことかもしれない。
ティナーシャは昔、記憶を失い出会い直す自分たちについて「変わらず相手の心が得られるかどうかを試されている」と言ったが、こういう形で彼が試されるのは初めてのこと だったからだ。
もし彼女がロズサークに帰りたいと言ったらどうしようか、そんなことを考えている自分に気づいてオスカーは苦笑した。
ティナーシャの表情を見ようとして、ふと彼女がじっと自分を見ていることに気づく。
「どうかしましたか、姫」
「あなたの目、綺麗な色」
「それは……ありがとうございます」
急に何を言うのか。
オスカーはかつてのように彼女の頭をくしゃくしゃと撫でたくなる衝動を堪えた。
ティナーシャは真顔で彼を見上げたままだ。足は止まっていないものの歩く速度は大分遅くなっていた。
「あなたの声も、好き。夢の中の声みたい」
彼は笑顔のまま答に悩んだ。
文官として当たり障りのないことを言わなければならないとは思うのだが、彼女の言うことが率直すぎて難しい。
オスカーは少し迷ったが、方向を転換させることにした。
「姫の目や声の方が綺麗ですよ」
「でも、私の目の色は、よくないものとされた」
「言いがかりです。私はとても好きですよ」
ティナーシャは軽く目を瞠る。
その深淵が何よりも愛おしいと今の彼女は知らないのだ。
自分を見上げる闇色の瞳にオスカーは恋情を隠すと微笑む。
二人だけのこの廊下が少しでも長く続けばいいと、思った。

「オスカー、ここ読んで」
「分からないところだけお教えしましょう」
ティナーシャは素直に頷くと書物にかじりつく。その様が可愛らしくてオスカーは小さく笑った。
オルトヴィーンが彼女を手放すことを拒否した以上、別の手を考えなければならない。
この城内で事故死にでも見せかけようかとは考えつつも、少しずつ自分に懐いてくる彼女が嬉しくて具体的な計画を動かなさいままになっていた。
だがいつまでも微温湯のような生活に甘んじてはいられないだろう。
紋様で制限されているとはいえ、彼女は本来は大陸最強の魔女だ。
その力を軍事利用される前に連れ出さなければならない。
ティナーシャは文字の上を追っていた指を止めると、首を捻った。
「ここ、分からない」
「これは人名ですよ。レオノーラ、呼ばれぬ魔女です」
「魔女? 私と同じ?」
また答に困る質問をされた。
だが間を開けても不審に思われるだけだろう。
オスカーは「姫は魔女ではありません」とそつなく答えた。けれどティナーシャの顔は晴れない。
他の人間からは無表情に見えるようだが、彼には彼女がどんな表情をしているのかよく分かっていた。
魔女ではないと言われても幽閉されていた17年間が素直に肯定を選ばせないのだろう。欺瞞を重ねることを嫌ってオスカーは彼女の頭を撫でた。
「魔女だろうが何だろうが姫は姫です。私は姫が好きですよ」
それを聞いた彼女の白い頬に朱が差す。ティナーシャはややあって
「本当? なぜ?」
と聞いた。
多分、率直に好意を示されることに慣れていないのだ。期待と疑いが絡み合ういじらしい目にオスカーは穏やかな微笑を返す。
「努力を怠らないところや真っ直ぐなところが。あまり他人を疑わない、お人よしなところも」
「それ、ほめているの?」
「どうでしょう。私が好きなだけです」
「オスカーは、よく分からない」
「なら分かるようになってください。将来私の妻になられた時に困るでしょうから」
さらりと呈した言葉。
ティナーシャの黒い瞳が限界まで見開く。
微かに震えた彼女を、オスカーは視線で閉じ込めるかのように見つめた。
数百年を、もっと永い時を圧縮したような一瞬。
しかし今の二人にはこの時が全てだ。
小さな薔薇に似た唇が動く。
「…………本気?」
「当然です、リースヒェン。貴女を手に入れる為ならどんな努力でも致しましょう」
子供が困惑したような、それでいて躊躇いがちな熱を宿した目を見ながらオスカーは思う。
何度繰り返しても、何度試されても、自分は必ずこの女を選ぶ。彼女に囚われる。
決して違えようがない。そうでありたいと思うのだ。
オスカーは恭しくティナーシャの手を取ると、甲ではなく平に口付ける。
臣下の礼としてではなく男として、恐ろしいまでの情念を込めて。
新しい彼の魔女と新しい約束を、今ここより始める為に。

事実上の求婚をしてから、ティナーシャは彼の前に現れなくなった。
それが一週間も続くとさすがのオスカーも時期尚早だったかと後悔する。
人間関係の経験がほとんどない彼女なのだ。警戒させてしまったのだろう。
さてどうしようか、と対策を練り始めたある日、しかし彼は廊下の柱の影から手招きする魔女を見つけた。
彼女はきょろきょろと辺りを見回すと小声で彼を呼ぶ。
これで隠れているつもりなのだろうか、柱の影からはみだしたドレスの裾を見下ろしてオスカーはつい笑ってしまった。
「何でしょう、姫」
「お話が、あります」
「拝聴しましょう」
ティナーシャはもう一度周囲を確認して誰もいないことを確認すると、背伸びしてオスカーに顔を寄せる。内緒話をするように囁いた。
「私はアンネリの王女です。だから、民に害が及ぶようなことは出来ません」
「よく存じております」
「それでも、何とかなる?」
「はい?」
何について聞かれているのか、オスカーは一瞬分からなかった。
だが、彼女は真剣な顔で頷く。
「この間のお話」
「ああ……」
人質としてこの城にいる王女。彼女の将来は彼女自身による選択を許されていない。
それを踏まえて彼女は問うているのだ。自分の行動によって民は困らないかと。
オスカーは表情を緩める。
「本当にお前は……」
まったくこんなところまで彼女は変わっていないのだ。融通の利かない気高さが愛らしい。
彼は安心させるように彼女の髪を撫でた。
「何とかしましょう。充分可能です」
「なら、私も努力します」
白い両手が男の顔に伸ばされる。
ティナーシャは、かつて夫であった男の頬に手を添えると「わたしは、あなたがすき」と花のような笑顔を見せた。

ロズサークの城を離れ、旧トゥルダール奥地の館へと移ってきたティナーシャは厨房に立つ男を見て目を丸くした。
広い背中に飛びついて彼の手元を覗き込む。
「オスカー、料理も出来るの?」
「何十年も一人で暮らせば出来るようになる。リトラは料理が出来ないからな」
「私もやりたい! 教えて!」
「ん。火傷するなよ」
許可を出すと彼女は目を輝かせて腕まくりを始める。
新しい生活の一つ一つが楽しくて仕方がないらしい彼女にオスカーは笑いを堪えると、まだ幼さの残る妻の額に口付けたのだった。