嚆矢 001

禁転載

神は選ぶ。
王たちを指名し国を生ませ、その繁栄を地の果てから見守る。
神は示す。
人の意思を、その相克を、逃れられぬ有限の虚しさを呈する。

―――― 死して残るものはない。ならば生においてその意を見せよ。

王たちが頭を垂れ、召使が受諾する。その中でしかし、一人の男が「否」と言った。






 喧騒など滅多に聞こえぬ村の一角。森際に立つ小屋の裏から薪を割る音が響いている。
小気味のよい音は規則的に昼過ぎの青空に響き、日常の風景の一部として辺りに溶け込んでいた。
細枝を行き来する小鳥たちも慣れているのか葉々を揺るがす音に逃げ出すわけでもない。
時には転がるような囀りが木の割れる音にあわせて降り注ぎ、今ある平穏がまるで永遠に続くような幻想をもたらしていた。
 斧を手に薪を割っていた少年は髪を揺らす風にふと手を休める。溜めた息を吐くと空を仰いだ。
少し日に焼けた肌。栗色の髪は襟足で短く揃えられており、灰色がかった緑の瞳が空を飛ぶ鳥の影を映し出す。
まだ大人になっていない未完成な顔立ちは、整っていないというわけではないが、際立って人の目を引くほどのものでもなかった。
それでも彼の容姿から他の少年たちと違う点を見出すとするなら、それは両眼に見える寂然と、片手にのみ嵌められた皮の手袋だろうか。
斧を握る右手ではなく左手を覆う手袋は、長い間愛用しているのか全体的に黒ずんで指先は薄くなっていた。
 彼は息を軽く整えるとまた木を拾い上げ、斧を振るう。身に染み付いた動きには一切の迷いがない。
実際彼は毎日のように薪が必要なこの村において、自分が住む家の分だけではなく、若い男手のない数軒分もの作業を担っていた。
勿論それは強いられたものではなく彼自身が言い出して始めたことである。
親のない自分を受け入れ生かしてくれるこの村に、まだ子供の彼が出来ることはそれくらいしかなかった。
 少年は出来上がった分の薪を麻縄でまとめて壁際に積み上げると、また別の木を手にする。
遠くから聞こえる子供たちの声。何処かの家からはパンを焼く香ばしい匂いが漂ってきていた。

―――― 森の奥に立ち入ってはいけない。
それは小さなこの村に生きる人々の間で長年語り継がれてきた不文律であったが、村人全員が遵守しているというわけでは決してなかった。特に、好奇心が全てに優先する子供たちなどにおいては。彼らは無防備に、無邪気に、そして残酷に何処にでも踏み入っては気が済むまで歩き回る。大人たちは奔放な彼らを時に苦笑して見守り、時には叱責しながら村全体として育てていた。いわばこの小さな村自体が一つの閉ざされた家族のようなものだ。
「遊びに行かない? アージェ」
少女の声に薪割をしていた彼は振り返った。汗が滲む額を手斧を持ったまま袖で拭う。
そこに立っているのは血の繋がらない彼の妹だ。
長い金髪を赤いリボンで止めた彼女は先月十二歳になったばかりであり、くるくるとよく表情の変わる大きな瞳を持っている。
細い四肢は子供らしく日に焼けていたが、本来は真っ白な肌の持ち主であり、あと数年もすれば村で評判の美しい娘になるだろう。
彼女は誕生日にアージェから贈られたばかりの腕輪を気にしながら、もう一度「遊びに行かない?」と笑う。
しかし遊びと言っても、隣村までも馬車を使わねば半日ほどかかってしまうこの森の村では、町の子供たちが享受するような娯楽はほとんど得られない。せいぜい広場に集まって石蹴りをしたり、草や木の実を集めて悪戯に使う練り物を作ったりするくらいで、そこに目新しさはほとんどないのだ。アージェは期待に満ちた目で待っている少女に左手を振って返す。
「行かない。まだこれが残ってるし」
「明日やればいいじゃない」
「クラリベルはそれでいいだろうけどな。これは毎日やらなきゃどんどん溜まっていくだろ」
「アージェがやらなくたってお父さんがやるもの」
金髪の少女が顎で指した傍の小屋では、彼女の父でありアージェの養い親でもある家具職人が今も仕事をしている。
その裏手で薪を割っていた少年は、気兼ねなく父親に頼ろうとする妹の言いように苦笑して肩を竦めた。
「俺の仕事だ。他に遊ぶ奴がいないなら一時間待ってたら行ってやるよ」
「いるからいいもん」
子供の自尊心を傷つけるような少年の提案にクラリベルは小さな口を尖らせる。
小さな村とは言え、彼ら二人の他に子供がいないわけではないのだ。遊び相手などいくらでもいると胸を張る少女にアージェは頷いた。彼の胸ほども背丈がない彼女に向かって釘を刺す。
「なら夕飯までにはちゃんと帰って来いよ。あと森の奥には行かないこと」
「分かってるってば。アージェったら口うるさくておばさんみたい」
「俺も村のおばさんたちの気持ちがよく分かるよ。クラリベルを見てると」
「何それ。失礼ね」
拗ねたような声は背伸びをしたいという意思を如実に表している。
生まれた時から彼女を知っているアージェは無言で口元に笑みを浮かべた。

クラリベルも大きくなった。
当然だろう。あの日からもう三年が経った。
母親がいなくとも子供は育つ。欠乏を飲み込みながらも少しずつ成長していくのだ。
そしてその三年はアージェにもまた平等に訪れている。
彼は自身の左手に目を落とすと手を固く握った。指の疼きがあの日から変わらぬ痛みをもたらす。

「アージェ、早く終わったらミミルのところへ来てよ。わたしもそこにいるから」
「そんな早くは終わらなそうだけどな」
「あんまりやってると薪割り魔になっちゃうよ! 早くね、早く」
「薪割り魔?」
彼女ももう十二だというのに未だに兄離れが出来ていないらしい。友人の名を上げてしきりに念を押す様にアージェは「分かったよ」と笑った。
早く終わるかどうかは分からないが、ミミルの家は彼が薪を届けている家の一つだ。一番最後に回ればそのまま彼女たちに合流することも出来るだろう。
再び丸太に向かって手斧を振り上げた彼に、クラリベルは「絶対だからね!」と腕輪が嵌められた手を振る。身を翻して駆けていく少女の、高い位置で一つに縛られた金髪が陽光のように輝いて小屋の向こうへ消えた。再び静けさが戻ってくると少年は肩を竦めて作業に戻る。
再びこだまし始める薪割の音。結局、アージェが全ての仕事を終えるまで二時間かかった。
そして彼は出来上がった薪の束を背に負うと、いつものようにそれを村の家々に届け始めたのである。

ミミルはクラリベルと特に親しい少女の一人であり、祖母と母親と共に小さな家に住んでいる。
彼女の父親は既に亡くなっており、今は母親が織物を織って生計を立てていた。
この村では出稼ぎなどもあり片親が不在の子供は少なくないが、中でも母親のいないクラリベルと父親のいないミミルは、同い年ということもありある種の親近感を抱いているらしい。よく一緒にいる姿が見かけられた。
ましてや彼女たち二人は「三年前」を共に過ごしている。あの時クラリベルの傍にいられなかったアージェには、幼い少女たちが寄り添ってどれ程の不安を抱えていたのか想像することが出来なかった。
アージェは最後の薪の束を背から下ろすと、ミミルの家の裏口に立つ。軽く戸を叩くとしばらくして中から少女の母親が覗いた。娘に似て優しげな顔立ちの女は少年を見ると顔をほころばせる。
「あら。アージェ」
「薪持って来た。置いとくよ」
「いつもありがとう」
裏口のすぐ隣に彼が背負ってきた束を置いていると、一旦家の中に引っ込んだ彼女は小さな籠を持って戻ってきた。「クラリベルと食べてね」と焼きたてのパンをアージェに渡す。どうやら先程辺りに香ばしい匂いを漂わせていたのはミミルの家だったらしい。アージェは美味しそうなパンを受け取り、礼を言いながらも首を傾げた。
「クラリベルはミミルと遊ぶって言ってたけど」
「少し前まではいたのよ。でも男の子たちが来て一緒に出かけたわ。アージェ、聞いてないの?」
「うん。じゃあクラリベルが戻ってきたら、俺は帰ったって言っといて」
そっけなくも聞こえる言葉にミミルの母親は苦笑しながらも頷く。アージェがあまり他の子供と遊びたがらないのを彼女は知っているのだ。
少年の一日は仕事と家の手伝いで大半が占められており、クラリベルにでも強く誘われない限りまず自分から遊びに行くということはない。
何かに突き動かされるように働く彼に、ミミルの母は一度だけ「もっと遊べばいいのに」と言ったが、アージェがやんわり否定するとそれ以来何も言わなくなった。そして、彼女のそういう優しさを彼はありがたく思っている。

ただ村の者全てがアージェを彼女のように受け入れてくれるわけでもない。
「また来たのかね」
吐き捨てるような声。背後からの老婆の声にアージェは何も言わず振り返った。
曲がりかけた腰の後ろで両手を組んだミミルの祖母は、彼が持ってきた薪を見やって嫌な顔になる。
「子供の癖に。こんなことをして機嫌を取ろうとでもしてるのかい?」
「やめてよ、母さん」
「お前は黙ってな。いいかい、アージェ。うちはお前にこんなことをしてもらう筋合いなんてない。
 辛気臭い面を毎日見せるのはやめてくれ。まったくお前はいつまで経っても……」
「母さん! ごめんね、アージェ」
自分を挟んでの二種の声。少年はそのどちらもに黙って会釈した。まだ何か言いたそうな老婆を一瞥し、その場を後にする。

謗られることには慣れているのだ。
三年前からアージェは、自分に向けられる冷ややかな視線と陰口とを当然のものとして受け止めていた。
あの事件で「生き残った」彼に対し、村人たちの思いは種々複雑なものである。
それは仕方のないことであるし、彼自身自分のことを素直には見つめられなかった。家への帰り道、アージェは左手を固く握り締める。
ちくちくと痛む指先。そこが今どうなっているのか、彼は誰にも見せていない。育ての父もクラリベルも見せろとは言わない。
だからずっと手袋で隠したまま日々の仕事に専念していれば、いつか多くのことが気にならなくなる時も来るだろう。
アージェにとって大人とは「受け止める強さ」を持つ人間だ。大人になればきっともっと強くいられる。
年月を重ね、大きくなりさえすれば全て―――― けれど彼には自分が大人になった時のことが、未だまったく想像出来なかったのである。