嚆矢 002

禁転載

「父さん、ミミルの家でパンを貰ったよ」
「ああ、いいな。美味そうだ。テーブルの上、片付けてくれ」
帰ってきたアージェを見て作業に没頭していたグラフは立ち上がる。
彼の仕事場兼住居、その居間の床板は、削り取られた木屑で溢れかえっていた。
まず道具を片付け、その後飛び散った木屑を掃き始める父に少年は苦笑する。
これをクラリベルが見たなら「作業部屋でやってって言ってるでしょ!」と怒ることは確実なのだが、彼女はまだ帰って来てはいなかった。
グラフはお茶を飲みながら作業に取り組んでいたらしく、テーブルの上にまで細かい木屑が散乱している。アージェは水に濡らした布で木屑ごとテーブルの上を拭き取った。
職人のグラフと子供二人で暮らすこの家では、基本的に家事は三人で分担している。
だがグラフ自身は料理が得意ではなく、これに関してはアージェかクラリベルのどちらかがいつも受け持っていた。
火を起こしスープを温め始める息子を見て、グラフは怪訝そうな声を上げる。
「今日はクラリベルの当番じゃなかったか? 何やってるんだ、あいつは」
「ミミルたちと遊びに行ってるって。抜けられないんだろ。俺がやるよ」
「あんまりあいつを甘やかすなよ」
アージェは鉄鍋の中身をかき混ぜながら苦笑した。
グラフは彼のこともクラリベルのことも等しく「自分の子」として扱ってくれる。
それは彼が物心ついた時から変わらず、三年前の事件を経ても変わることはなかった。
妻を喪った経緯について、まったく何も思っていないはずがないとアージェなどは思うのだが、この養父はそれを表に出したことはない。
常に落ち着いた背を見せ続ける父は、少年にとって紛れもなく「大人」そのものだった。

アージェは本当の両親の顔を知らない。名前も知らない。
彼はほんの赤子の頃、産着一枚にくるまれ森の入り口に捨てられていたのだ。
村人全員が顔見知りであるこの村では、同時期に妊娠していた女がいなかったことは皆が知っている。
その為アージェはすぐに余所者が捨てて行った子として知れ渡り、結果困惑を以って迎えられた。
彼を当時結婚したばかりのグラフが我が子として引き取った時、おおっぴらにではないが眉を顰める者もいたくらいである。
―――― 自分が何処の誰の子かも分からない。
その事実をアージェは早くから村人たちの噂話で知っていたが、実の親に捨てられたと嘆くことはしなかった。
嘆く余地もなかったと言った方が正確かもしれない。つまりはそれくらい、グラフ夫妻はアージェを我が子のように愛してくれたので。
彼が拾われてから三年後、グラフたちにはクラリベルが生まれたが、その後も二人の愛情が変じることはなかった。
思えば途轍もない幸運だったのだろう。もっともその幸運は永遠に続くものではなかったのだが。

「皿取って」
「はいよ」
二人の父子は手分けして食卓に料理を並べていく。
木で出来た広いテーブルにはあっという間に質素ではあるが温かい食事が用意された。自分の席につきながらアージェは窓の外を見やる。
黄昏時の空は薄黄色に染まっていた。木々の緑が影を帯び、徐々に黒へと近づいていく。
子供たちがそれぞれ自分の家へと帰っていく時間。家々に明かりが灯り、平穏な食卓が供される一時に、少年はしばしあてどなく視線を彷徨わせた。妹の帰りを待つ間、湯気が上がるスープを見やる。
人によって日常を連想させるものとはそれぞれ違うのだろう。
たとえばアージェにとってそれは、人と囲む温かな食卓だ。
誰かと顔をあわせ、言葉を交わし、束の間の食事を共にする。死すまでに何千何万と重ねていくであろうこの時こそが、彼の心に「自分は平穏の中に在る」という安らぎをもたらすのだ。
「アージェ、また少し力がついたみたいだな」
「そうかな。自分じゃ分からない」
「体つきを見れば分かるよ。お前は毎日力仕事してるし」
グラフの表情には感心の色が濃く出ている。アージェは照れくさくなって下を向いた。
誉められようと思ってやっていることではないが、父に評価されるとやはり嬉しいのだ。
成長期の真っ只中にある彼は自分でも時折体の変化に気付くことはあるが、ちょっとした成長を指摘されることは言いようのないくすぐったさがある。彼は気恥ずかしさに視線を窓の外に移した。
「クラリベル帰ってこないね」
「まったくだ。いつまで遊びに夢中になってるやら」
テーブルの上には温かな食事が少女の帰りを待っている。
だが―――― スープがひんやりと冷え切ってしまうまで待っても、金髪の少女は家に戻ってこなかった。

そしてこの夜、アージェは再び「禁忌」を破ることとなる。



すっかり日の落ちた村。
普段であれば皆が寝静まる時間に向かい、緩やかに帳を下ろしていくであろう夜の景色は、けれどその時いくつもの松明が掲げられ、ただならぬ喧騒に包まれていた。女たちが声を潜めて慄き、男たちが険しい表情で溜息をつく。
彼らが集まっている場所は村外れ、隣接する森の入り口である。そこはディテル神の古い石碑が置かれ、小さな広場となっていた。
普段は森に薪を取りに行く人間か広場で遊ぶ子供たちしか訪れない空き地で、集まった人間たちは揃って蒼ざめた顔を見合わせる。
「まさかまたこんなことが……」
「森の奥に入ってしまったんだろう……何てことだ」
囁きあう彼らの見下ろした先には地面に広げられた白い布がある。
おそらく惨状を見ていられない誰かが持ってきたのだろう。洗いざらしの掛布はその下に人型の膨らみを隠しており、にもかかわらず布越しに浮かび上がる黒い染みが事態の惨たらしさを示していた。何処からか押し殺した女のすすり泣きが聞こえる。
畏れと諦観。集まった人間たちに共通していたものは何よりもその二つだ。「禁を破ったのだから仕方ない」という冷然とした結論が、その場には横たわっている。
だが、そのように諦められる者が全てではなかった。
「ミミル!」
人だかりをかき分けて現れた女。彼女は被せられた白い布に飛びつくと、周囲の人間が止める間もなくそれを捲った。
土の上に横たわる我が子に瞬間絶句し、うつろな視線を少女の濁った目に注ぐ。
泥に汚れた死に顔、痣だらけの四肢。そしてそれ以上にぽっかりと腹に空いた穴が、まだ幼い少女を襲った悲劇を物語っていた。
腸が抜かれている為、萎んで血も流れない痩せた腹部を母親は呆然と見下ろす。
「どうして今更……この子まで……」
震える手が娘の顔に伸びる。母親はそのまま力ない指でこびりついた泥を拭うと、不意に弾かれたように慟哭した。娘の体をかき抱き悲痛な叫びを上げる。
「あなた! どうしてよ! どうしてえ!」
突き刺さるほどの絶叫に慰めの声を掛けられる者はいない。
夫と娘、その両方を森で失った女をどうやって宥められるのか。
集まった者たちはある者は声を押し殺して嘆き、ある者は顰めた顔を闇夜の彼方へ背けた。
その最中に駆けつけたグラフとアージェは人の輪の外から事態を悟って愕然とする。グラフは驚愕の視線を夜の森に投げかけた。
「馬鹿な……奥へ立ち入ったのか? 何故だ」
「そんな。だって何も……聞こえなかった」
気付かなかった。 誰もアージェを『呼んで』はいなかったのだ。三年前のあの時とは違って。






―――― 三年前。

『森の奥に立ち入ってはいけない』
いつから伝わっているのか分からぬ禁忌は、この村において半ば迷信に近いものとなっていた。
昼でも暗い広大な森は、迂闊に足を踏み入れれば方角を見失い戻ってこられなくなる可能性が高い。
だからこそ禁によって人の立ち入りを防ぎ、無駄な犠牲を出さないようにしているのだろう。―― 村人たちはそう単純に考えていたが、実際森の奥に用事がある人間もいなかった為、この慣習は長い間守られ続けていた。
もっとも彼らが禁を侵さなかったのは、子供の頃聞いていた老人たちの話が深層で影響していたという理由もありえなくはないだろう。
今はなき年寄りたちはかつて本当にあった話として、森の奥に入り込み無残な死を遂げた人間たちのことを幼子たちに語って聞かせていたのだから。
しかし「昔々」で始まるそれらの話はいつしか単なる御伽噺として現実から乖離し、忘れ去られていった。
残ったものはただ「立ち入るな」という禁忌のみ。そしてそれはある日唐突に破られたのだ。

切っ掛けはアージェだった。
それを否定することは彼には出来ない。彼があれに気付かなければあんなことにはならなかった。
今冷え切った少女の遺骸が横たわっている広場。三年前、彼はまさにこの場所でクラリベルと共に大工の真似事をして遊んでいたのだ。グラフから要らない木材と道具を貰って小さな鳥小屋を作っていた。
小屋に迎え入れる為の鳥がいたわけではない。単に作りやすそうだから鳥小屋を選んだに過ぎなかった。
アージェが見よう見まねで板を小屋の形に組み込み、クラリベルが出来上がったものに色を塗る。
そんなことをしていた時、ふとあの声が聞こえた。
(おいで)
甲高い子供の声。まるですすり泣いているような掠れた囁き声に彼は顔を上げた。辺りを見回し、誰もいないと分かると妹に問う。
「今、誰か何か言ったか?」
「何も? 気のせいじゃないの、アージェ」
(来て、見つけて)
「また聞こえた」
「聞こえないってば」
クラリベルの表情を見るだに嘘をついているようには思えない。ならば本当に彼女には聞こえなかったのだろう。
アージェは声がしたような気がする方角、森の奥を見やって首を傾げた。
「何だろ」
(おいで)
姿の見えない声に少年は不審を覚えつつも、さして重要視せずその日は家に帰った。
そして彼は夕食の場で件の声について話題にしたのだ。

「迷子がいるのではないの?」
クラリベルの母親、テフィはとかく善良で温かい女だった。
或いは善良すぎたのかもしれない。結婚してすぐアージェを引き取り育てたように、同情心が強く、誰にでも手を差し伸べられる人間だったのだ。
そして彼女の手は、その時姿の見えぬ声の主にも向けられていた。養母の疑問に、アージェは昼間の声をよく思い出そうと考え込む。
「そうかな。声が聞こえるってことはもう入り口近いから、迷子じゃないんじゃないかな?」
「怪我でもして歩けないってこともあるでしょう。最近また強盗団があちこちの村を襲っているらしいのよ。
 近くの村から逃げ出した子が森に迷い込んだのじゃないかしら」
「うーん……」
「どのみち明日薪を取りに行くから。ちょっと見てくるわ」
「俺も行こうか?」
「いいわよ、遊んでいて。子供はいっぱい遊ぶものなんだから」
「何それ」
温かい笑顔。無条件に与えられる安らぎに、アージェは気恥ずかしさを覚え母親から顔を背けた。
ともすれば異質視され、引け目を負わざるを得なかった出生の彼が、他の子供たちと変わらず成長してこられたのは、彼女たち夫婦の存在に拠るところが大きいだろう。当時十二歳のアージェは面と向かって母に感謝の言葉など述べることは出来なかったが、いつか与えられるものに見合うだけの何かを返したいと思っていた。その「何か」は具体的には想像出来なかったが、将来自分が大人になった後、親たちを守り支えていきたいと考えていたのだ。
「何かあったら声かけて。俺、多分広場にいるから」
「大丈夫よ。でも夕飯前には戻ってきてね。あの人が散らかすテーブルを片付けて欲しいから」
「父さん何度言っても木屑だらけにするもんな」
息子の同意にテフィは声を上げて笑う。

翌日彼女は森に入った。
そして戻ってこなかった。