嚆矢 003

禁転載

帰ってこないテフィの為、その日の夜捜索隊が作られた。
もっともそれは「捜索隊」と呼ぶほど大仰なものではない。単に手の空いた大人たちが数名、明かりを持ってテフィを探しにいっただけだ。
捜索隊の中にグラフが入らなかったのは単に、子供たちだけを家に置いていくことが出来なかったからである。
しかし裏を返せばそれはまた、事態を深刻視している者がまだ誰もいなかったということであろう。
この時彼らは、彼女が森の中で足でも挫いて動けないでいるのだろうと思っていたのだ。
ミミルの父親を含め七人の男女は口々にテフィの名を呼びながら森に入って行き、そしてやはり戻ってはこなかった。
戻って来られたのはただ一人―――― 単身彼らを追って森へ入ったアージェだけだったのである。

声が、聞こえた気がした。
夜の部屋、寝台にもぐり外の音に聞き耳を立てていたアージェは恐る恐る体を起こす。
テフィはまだ帰って来ない。グラフは起きて妻の帰りを待っているのだろう。扉の隙間から差し込む光を確認し、少年は肩を落とした。
時間通り寝台に上がったはいいが、不安のせいかざわついた空気のせいかちっとも眠れない。
それは同室のクラリベルも同じらしく、反対側の壁際で掛布の固まりがしきりに寝返りを打っているのが見て取れた。
彼らの母が森に入ってからどれくらいの時間が経過しているのだろう。
時計のないこの部屋では正確なことは分からない。せいぜい月の動きで大雑把なことが分かるくらいだ。
外では少し前に誰かが話しながら歩いている声がしていたが、今はただ風が窓を揺らすざわめきだけが妙に響いて聞こえていた。
―――― 誰かの声がしたような気がしたが、幻聴だろうか。
アージェはクラリベルの方を窺いながら寝台を下りる。
窓辺に寄り、青白く染まる両手でそっと硝子窓を押し開けてみた。途端、夜の外気がひんやりと吹き込んでくる。気配で気付いたのかクラリベルが顔を上げた。
「アージェ?」
「何でもない。母さんが帰ってきてないかと思って」
(来ない)
「え?」
すぐ耳元で囁かれたような、逆にずっと遠くから聞こえてきたかのような声。
すすり泣いているとも聞こえる掠れた声に、アージェは問いを返した。闇夜に向かって誰何する。
「何だ? 誰かいるのか?」
(来ない、帰ってこない、アージェ)
「どうしたの、アージェ」
クラリベルの声が謎の囁きと重なる。
彼女にはこの声が聞こえていないのか。風が葉を揺らすざわめき。冷たい空気に背筋がぞくりと凍った。少年は何かの予感に身を竦める。
「誰だ。姿を見せろ」
(来ない、アージェ、来ない、ありがとう)
「何が? 俺は何もしていない」
(くれた、アージェ。ようやく。ありがとう。アージェは)
風に掻き消えた声。
かすかにしか聞き取れなかったその最後を知って、アージェは戦慄した。喉の奥がカラカラと罅割れて痛む。

それは、最初からすすり泣いてなどいなかった。
笑っていたのだ。声をひそめて。
そして今、礼を言った。
彼が話したから。母親に。それのことを。

(アージェは、わたしに、ははおやを、くれた)



彼は自分の机に走ると、そこにあったナイフを手に取った。そのまま上着も掴み取ると窓辺に戻る。
ただならぬ気配を感じたのかクラリベルが起き上がった。窓から出て行こうとする兄を呼び止める。
「アージェ!? どうしたの」
「森へ行く」
「え!? な、なんで!」
「クラリベル、ここにいろ。俺は」
窓枠に足をかける。広がる夜に向かってアージェは床を蹴った。手の中のナイフを握り締める。
「俺は、母さんを取り戻してくる」



後から思えば衝動が全てだったのだろう。
養母に危険が迫っている。それは自分が騙されたせいだと、そのことだけしか頭になかったのだ。
何が自分を騙したのか、森に何がいるのか、そこまでアージェは考えなかった。
考えれば身が竦んで先に進めなかったかもしれない。だから彼はひたすら無心で夜の村を駆けていった。
いつまでも捜索隊が戻って来ないのを訝しんだのか、数人の大人が明かりを持って森の入り口に集まっている。
アージェは彼らの前を無言で走り抜け森へと飛び込んだ。背後から村人たちの声が聞こえる。
「アージェ?」
「どうしたんだ! おい! 戻って来い!」
返事はしない。振り向かない。
ただ自分の名を呼ぶ「何か」を追って彼は走り続けた。
まるで闇色の海をかき分けるような一夜。先の見えない道行き。
明かりさえも持たない彼を、初めて聞くいくつもの声が嘲笑する。
(アージェ、来たね。来たのね)
(行ってはいけない。行けば殺される)
(あーじぇ、どうして、もりへ)
(せっかく知らないでいられたのに。愚かな子)
姿の見えぬ声は、ある者は子供のようであり、ある者は老婆のように聞こえた。
だがその中に彼を「呼んだ」あの声はない。
一体何処に消えたのか。それは少年に恐怖よりも焦燥をもたらした。アージェは全ての声を無視し森の奥へと走る。
何度木の根に足を取られ転びかけただろう。高く伸びた草の葉が肌を切り裂き、いくつもの裂傷を生んだ。
昼でも方角が分からなくなる広い森の中、けれどアージェは引き寄せられるようにして真っ直ぐに駆けていく。
彼にしか見えぬ闇。彼にしか聞こえぬ声。
まるで祝福されたかのように呪われた道を少年は走り続けた。
そして彼は、ついに深い森の奥へとたどり着く。
そこで見たものはけれど―――― 養母を含め、無残に腹を食い破られた八人の死体だったのである。

(アージェ、ありがとう)

そして彼は、闇に口付けられた。






あの夜、アージェは何も出来なかった。
ただ出くわした惨状に立ち尽くし、信じられぬ光景を見つめただけだ。
彼は全てが終わった後、自失したまま八人分の遺体を一人で森の出口付近まで運んだ。
何往復したのか、どれ程の時間がかかったのかは記憶が定かでない。
ただ母親の体がまだほんのり温かかったことと、腸がないせいか異様に軽かったことを覚えている。
いつか大人になった時負うはずだった母の体は、こうして一度だけアージェの腕に抱え上げられ、それが最後になった。
まるで現実味のない唐突な別れだった。

死体と共に戻った少年を、何があったのかと村人たちは代わる代わる問いただした。
しかしアージェには答えられることが何もない。隠しているわけではなく彼自身まったく分からなかったのだ。
首を左右に振り続ける少年を多くの人間は怪しみ忌んだ。中には彼を「森の中から村へと捨てられた人外ではないか」と言う者さえいたくらいだ。
けれどそのような中にあって、彼の家族だけは少しも態度を変えなかった。
森に入った彼を追って来ていたグラフは、妻の遺体を抱いて現れた息子を無言で抱き締め、ミミルの家に預けられていたクラリベルはただ声を上げて泣いた。
テフィを喪った彼らは、それまでと同じように、けれど消えない影を持って寄り添ったのだ。
それが、三年前に起きた事件の全てである。






あの日から、アージェには二つの変化があった。
一つは左手に嵌めた手袋。
そしてもう一つは、森に薪を取りに行くと聞こえる「声」。
森の深奥に母を誘ったものとは違うそれらの声は、酷薄な子供に似てひそひそと彼の名を挙げ笑いあう。
はじめこそ(アージェ)と、囁かれる度に狂乱して森の木々や自分にあたっていた少年は、やがてどれほど否定しても声がなくならないと分かると、それらについて一切考えることをやめた。
何も聞こえぬふりをして、ただ日々を過ごしていく。日々の仕事に精を出し、自分の役目を果たす。
そうして彼は、膿んでいく傷が乾くのを待つようにこの三年間を過ごしてきたのだ。
だが、顔を背けていられたのもそれまでだった。再び訪れた惨劇にアージェは見通せない夜の森を振り返る。
「誰も、呼んでいなかったんだ。なのに、何故」
自失の呟きは誰の耳にも入らずに落ちていく。
現実を疑う一滴。けれどそれが消え去る前に、彼はもっと重大なことを思い出した。
「―――― クラリベル?」
彼の妹は何処に行ったのか。
何故帰ってこないのか。
ミミルのところへ行くと言っていた彼女。
だがそのミミルは、いまや取り返しのつかぬ冷たい躯だ。
「クラリベルが……」
少年は人だかりの中、そっと震える体を返す。
そうして父の目をもすり抜け家に戻ったアージェは、そこに誰も帰ってきていないことを確認すると、古びた長剣を手に再び夜の中へと飛び出したのだ。



いつもの森の入り口からは入れない。
そこには今村人たちが集まっているだろうし、グラフに見つかればまず止められてしまう。
押し問答をしている時間はないのだ。今度こそ彼は間に合わなければならない。
アージェは一旦人のいない村はずれに出ると、そこから直接森へと向かった。
適当な場所から中に分け入ると道がないのだが、そんなことを言っていられる場合ではない。
少年は闇が支配する領域に向かって夜露に湿る草上を駆ける。あと数歩で木々の合間に入るというその時、背後で軽い足音が鳴った。
その音に人の気配を察知し、彼は俊敏に振り返る。
「アージェ、どこに行くんだい」
感情を抑えた声。それは今まで彼が何度も聞いた苦々しげなものである。
月明かりの下に立つ老婆、ミミルの祖母はひどく煩わしいものを振り払うかのように頭を振った。皺の中に落ち窪んだ目が険しさを帯びてアージェを睨む。
「また森に行くのかい。あの時と同じように」
「……クラリベルが、戻ってこないんだ」
「おやめ。また同じことを繰り返す気かい」
老婆は目を閉じて溜息をつく。
孫娘の死を知ったばかりとは思えぬ冷ややかな態度。
だがそこには言葉にすることも憚れる諦観が込められており、悲嘆を通り過ぎ全ての感情が深く死んでいるようだった。

青白い月。草の上に伸びる影。
アージェは老婆を見たまま森に向かってじりじりと後ずさる。
何と非難されても戻る気はないのだ。たとえ彼自身が惨劇の原因ではないかと疑われようとも。
アージェは鞘に入ったままの剣の柄を握りしめた。
若い頃父が狩に使っていたという長剣。だがこの剣が抜かれたところを彼は見たことがない。
アージェは横目で森の木々を見やる。一歩を踏み出そうとした時、またしわがれた声が響いた。
「アージェ、およし」
「でも」
「あの子たちは禁を破った。だから死ぬんだ。可哀想だけど仕方ないんだよ。でもあんたは」
老婆はまた首を左右に振る。
何を畏れているのか。何を忌んでいるのか。積み重ねられた年月が理解出来ぬ飛沫を落として、彼女の諦念を曝け出す。
光を拒む老婆の瞳がアージェを注視した。
「行っちゃいけない。あんたは、自分でどう思おうとまだ子供なんだ。何も出来やしないよ。全てを背負おうするのは諦めるんだ」
「…………」
その言葉は、少年にとって意外としか言えないものだった。
今までずっと彼女には嫌われていると思っていたのだ。三年前の悲劇の原因かもしれぬ存在として。
いつも働いている姿を見られる度に悪態をつかれた。「子供のくせに」と吐き捨てられた。
だがそれは彼女なりにアージェを思って言ってくれた言葉だったのだろうか。
さざなみ立つ困惑を、だが少年は口に出して問うようなことはしなかった。もう一度森を振り返り、次に老婆を見返す。
「でも、俺は行く。今度こそ必ず戻ってくる。クラリベルを連れて」
「おやめ!」
それ以上の制止をアージェは聞かない。身を翻して森の中へ飛び込んだ。乱暴に草木を掻き分け深い闇の中へと走り出す。
遠くなる背後で老婆の声が響いた。悲鳴のような泣き声のような叫びは沈黙する木々の合間に吸い込まれ拡散していく。
「アージェ! 戻るんだよ! 森に魅入られてしまう!」
少年は振り返らない。ただ前へ、森の奥へと進んでいく。左手の指がまた、じくりと痛んだ。
何と言われても戻れない。戻る気はない。
「魅入られる」というのなら彼はとうに、森に潜む者たちに魅入られてしまっているのだから。