嚆矢 004

禁転載

黒い葉々の影から降り注ぐ囁き声。笑い声。警告。侮蔑。悲嘆。
一体何人の声の主がいるのか、いくつもの声がアージェにかけられる。
まるで悪夢のような夜の中、まとわりつくもの全てを振り払い彼は進んでいった。明かりのほとんどない森を、ところどころ差し込む月光だけを頼りに踏み込んでいく。だがそれは三年前とは明らかに違う道筋だった。
「……くそ、どっちだ……」
どちらに行けばいいか分かったあの時とは異なり、今のアージェは何処にクラリベルがいるか分からない。
それは違う場所から森に入ったからという為ではなく、単にあの時こそが特別だったのだろう。
声なき声に導かれるようにして夜の中を走ったあの日。だが今の彼には何の導きも与えられていない。
ともすれば同じところをぐるぐると回っているのではないかとさえ思えてくる焦りに、アージェは辺りを見回した。
(あーじぇ、まよったの?)
(道が分からない? 可哀想なアージェ)
「黙れ!」
くすくすと笑う声に怒鳴った彼は、けれど我に返ると何もない木々の合間を見上げる。
この森には動物さえ姿を見せない。この場所にいるのは「彼ら」だけなのだ。
ならば、クラリベルの居所を知るのも彼らだけだ。少年は短い間に考えをまとめると声を潜めた。
「森に迷い込んだ子供が何処にいるか分かるか?」
慎重に入れたつもりの探りは、けれど子供らしく焦りの隠せないものであった。アージェの迷いに「彼ら」は喜び笑い声を上げる。
(本当に、分からない?)
(しらないのね、アージェ)
「知っているのか、知らないのかを聞いてるんだ!」
(知らないなら使えばよいのに)
ぼそっと呟かれた言葉は、まるで耳の後ろで囁かれたかのように至近から聞こえた。
少年は瞬間身震いし、慌てて背後を振り返る。だがそこには何もいない。ただ夜の森が広がっているだけだ。
動揺を見せてしまったことを忌々しく思うと、アージェは再び木の上を睨む。
「使うって何をだ」
(それを)
姿の見えない相手。けれどそう言われた時、彼は確かに見えざる手が真っ直ぐ自分を指し示した気がしたのだ。
アージェは反射的に慄きながら左手を見やる。手袋に隠された指先が呼ばれたが如く疼いた。彼はそれを隠すかのように拳を作る。
これが一体何だというのか。こんなものは単なる古傷だ。クラリベルに繋がるようなものでは決してない。彼は震えを押さえ込むとかぶりを振った。
「……知らないなら用はない」
何とかそれだけを言うと、アージェはその場から駆け出す。
その姿が可笑しかったのか、背後から哄笑が聞こえた。そしてまた左手の指が痛む。
どうして逃げ出すような真似をしたのか、自分自身分からない。踏みとどまって詳しいことを聞けばよかったのかもしれない。
だがそれでも、彼らがアージェの助けになったことなど一度もないのだ。
彼らは母を奪い、彼を苛んだ。そして今またクラリベルまでもを脅かしている。
助けを求めてそれが返ってくるはずもないだろう。
少年は数秒前の自分の問いかけを恥じると大きな木の根を飛び越えた。叢を無造作にかき分ける。

必死に妹を探す自分以外、何も生きたものなど何もいないのではないかと思える森。その中を進む彼は、まるで大海を往く小船だ。
暗い海の上を何の導もなく揺られている。それはともすれば絶望に押しつぶされそうな孤独の時間だった。
だが彼は諦めない。暗闇の中を見回し耳を澄まして、行く手を阻む倒木を乗り越える。
そうしてどれくらい奥へ進んだのか、汗を拭って天を仰いだ時、アージェは遠くから何か聞こえてきた気がして足を止めた。そのまま息を殺して気配を探る。
葉々を揺らす風の音だけしか聞こえないはずの森。だが意識を研ぎ澄ませれば確かに、それまでとは違う音が風に混じって聞こえてくる。
誰かが草を踏みしだく音。おそらく走っているのだろう。その音は徐々にアージェの方へと近づいてきた。
音の様子からして相手は人間で、しかも一人だ。
彼は瞬時に判断を決めると近くにあった大木の影に隠れた。近づいてくる人間の正体を見極めようと暗闇を窺う。
不規則に聞こえてくる足音は、まるで何かから必死に逃げているかのようだ。近づくにつれ小さな嗚咽が草の音に混じる。
「……ひっ……ひぃぃ……だれかたすけて……」
それがクラリベルではないかと密かに期待していたアージェは、少女のものではない声に大きく落胆した。足音をさせないように木の影から忍び出る。
黒い木々の向こうに視線をやると、そこには白い影が地面を転がるようにして彼の方へと近づきつつあった。
見覚えのある顔。彼より一つ年下の村の子供だ。
顔中を涙と泥で汚しつつ走ってくる少年は、振り向かないまでもしきりと背後を意識しているようであったが、その後ろには何の姿も見えなかった。
アージェは油断なく長剣を意識しながら小声で相手を呼ぶ。
「おい」
他の何かに気付かれぬようにと潜めた声。それは三度目にようやく目標の少年へと届いた。
びくっと体を震わせた彼は木の影にアージェを見出すと、顔をくしゃくしゃにして飛びついてくる。
「ア、アージェ! 助けに来てくれたのか!」
「クラリベルはどこだ」
「はやく! 連れて行って! あれが……」
「俺の質問に答えるんだ。クラリベルはどこだ」
肩を掴んで大きく揺さぶると、少年は動揺と落胆を同時に見せた。アージェから視線を逸らし、小さく呟く。
「クラリベルは……多分、まだ奥に……」
「奥に? 何故置いてきたんだ。そもそも何で森の奥なんかに」
クラリベルは森の怖さをよく知っている。
母親を喪ったのだ。彼女は他の子供たちのように度胸試しで森に入るような愚かなことはしない。
だがそこまで考えた時、アージェは目の前の少年のポケットから見覚えのある腕輪がはみ出していることに気づいた。
アージェの視線に気付いた彼がそれを隠そうとするより早く、手を伸ばして細い銀の腕輪を抜き取る。
素朴な装飾が施された小さなそれは、まぎれもなくアージェがクラリベルに贈ったものだった。彼は冷ややかな目で蒼ざめた少年を睨む。
「何故お前がこれを持ってるんだ」
「そ、それは……」
「あいつから奪ったのか」
拾ったり渡されたりしたのではないことは、しきりにうろたえるその様子から分かる。
アージェは小さな腕輪を手の中できつく握ると、こみ上げてくる苦い溜息を飲み込んだ。
大方クラリベルは少年に腕輪を奪われ、取り返そうとむきになったのだろう。その結果彼らは共に森へと入り込んだ。
何処までが遊びで何処からが違うのか、子供の境界はいつも曖昧だ。
そしてその見極めが出来なかった者は時に、身をもって手痛い教訓を味わう羽目になるのである。

「クラリベル……」
腕輪など、くれてやればよかったのだ。
からかいになど乗るべきではなかった。そんなものより彼女自身の方がずっと大切なのだから。
アージェは大きく首を横に振ると森の奥を睨む。腕輪を懐にしまい、怯える少年の肩を叩いた。
「妹のところまで案内しろ」
「む、無理だよ! 殺される!」
「案内するんだ! でなければここに置いていく」
「そんな! 嘘だろ!」
ようやく助けが得られたと思っていたらしい少年は、冷ややかなアージェの宣告に半ば腰を抜かしてしまった。
すがりつくような目でアージェを見上げながら「助けてくれよ」と懇願する。
自分の足で立って歩くことさえ拒否するその様に彼は激しい苛立ちを覚えた。服を掴んでくる手を振り払うと、少年が走ってきた方向に向けて足を踏み出す。
「俺はクラリベルを迎えに来たんだ。村に帰りたいなら自分で帰れ。そのまま進めばいつか森を出る」
「ア、アージェ! 本当に置いていくのか!」
「最初からそう言ってるだろ」
これ以上こんなところで時間を費やしている暇はない。アージェは一人森の奥に向かって歩き始めた。背後から悲痛な泣き声が飛んでくる。
「戻れよ! 殺されるぞ!」

それは、意味のない忠告であるだろう。
殺されることが怖いのなら初めから森になど入らなかった。
本当に怖いものは己の死ではないのだ。アージェは無意識のうちに音を立て歯軋りする。
木々の合間を抜ける風の音はまるで、言葉を奪われた人々の嘆きのようだ。或いはもっと原初からの呼び声。
暗く押し込められた地の下から、形にならない手が温度を求めて這い出してくる。
その手に足首を捕らえられれば、きっともはや先へは進めなくなってしまうのだ。怯え蹲り嘲笑われるしかない。
アージェは森の中へと走り出す。
泣き声はもう聞こえない。そのことに罪悪感を覚えないわけではなかったが、振り向きはしなかった。
彼は踏みにじられた草を逆に辿って奥へ進む。人の存在を拒んで嗤う、更にその向こうへと。
ようやく掴んだ糸を手繰るような道筋。だが、彼がそうして進んでいられたのもほんの数分のことだった。
ある時太い倒木を境に、草の踏まれた跡が何処に続いているのか分からなくなってしまったのだ。
いくら目を凝らしても、逃げてきた少年がどこを通って来たのか、どの方角に行けばいいのか分からない。
首筋や額にじわじわと滲む汗が、不快にまとわりつきながら徐々に夜気に触れ冷えていく。
地面を睨みつつ焦りに背中がひやりとした時、だがアージェは何かを感じて顔を上げた。何もない暗闇を見つめる。

―――― ゆらり、と。
淀む空気が動いた。左手の指が痛む。
土の中に溶け込み黙していた闇が陽炎のように立ち上った。それはおぼろげな輪郭を持ちながら一つの形を取ろうともがく。
悪夢というより幻影に似た光景。黒い靄は唖然とするアージェの目の前で、やがて人に似た形になった。何もない顔が少年に向けられる。
男のようでもあり女のようでもある人影。その形を彼は驚愕を湛えて凝視した。震える声がこぼれる。
「……母さん」
何故そう思ったのか。
アージェはけれど思考より先に、その呼び名を口にしていた。
痛切な沈黙が彼を貫いて森の中へ拡散していく。語らないこと、語られないことに少年の胸はひどく痛んだ。
影はじっとアージェを見つめる。ぼやけてよく見えない顔は、しかし確かに彼を見ていた。発することの出来ない声の代わりであるかのように、手にあたる部分がゆっくりと上がる。
彼に向けられたのではない左腕。―――― その指先は森の深奥、ある方向を指し示していた。アージェは示された方角を見やる。
「クラリベル?」
向こうに行けと言うのだろうか。
アージェは問うように影を見上げたが、影は何の言葉も返さない。ただ微動だにせず森の奥を指しているだけだ。
少しの光も見えない木々の向こうを少年は目を細めて睨む。もう一度だけ振り返り、アージェはもの言いたげに影を見つめた。
だが彼は結局、何も言わぬまま左手を握り締めると前を向く。
―――― 時間がない。
彼は意を決すると影の指す方向へ駆け出した。草を踏み、倒木を飛び越え先へ進む。
そうして大分進んでからふと背後を振り返った時、夜の森には何処を見渡しても、先程の影の姿は見えなくなっていたのである。