嚆矢 005

禁転載

自分と兄は血が繋がっていないのだとクラリベルが知ったのは、記憶にも残らないくらい昔のことだった。
思えば物心ついた時既に、彼女はその事実を了承していたように思える。
近所の子供たちは時に拾い子である兄とのことを好奇心たっぷりの目でクラリベルに問うてきたが、彼女たちの両親は二人とも特にそのことを隠してはおらず、むしろ相手を大事にすることこそが家族だと散々子供たちに説いていたので、「血が繋がっていない」ことにどのような問題があるのか、幼い彼女には理解出来なかった。
当然その意味を理解した後も、クラリベルは「アージェが兄であることに変わりない」という考えを貫いており、そこに引け目も奢りもない。
ただ少しだけ変わったことがあるとしたら、今まで以上に彼を大事にしようと思った、それだけである。
そんな兄から誕生日に腕輪を貰った時、クラリベルは自分でも不思議なほど胸が沸き立つ気分を味わった。
小さな田舎町に住む彼女は、子供であるということもあり小奇麗な装飾品など一つも持っていない。
僅かに残る母の遺品にも手をつけないようにしていた為、そういったものに対する憧れは他の少女たちと同様、或いは母親から紛い物を借りられる彼女たち以上に大きかった。
だから兄から花の装飾が施された腕輪を受け取った時、彼女はまるで自分が一足飛びに大人へと近づいたかのような、心が浮き立つような感動を覚えたのである。
アージェはきっと隣町にまでこの贈り物を買いに行ってくれたのだろう。それを思うと、気恥ずかしさと共に深い感謝もまた沸き起こってくる。兄はいつでも口うるさいことを言いながら、彼女の為に手を尽くしてくれるのだ。

その日以来クラリベルは、銀の腕輪を昼夜問わず身に着けるようになった。
小さな腕輪を体の一部のように大事にして、それを見る度、兄への愛情をいつも思い起こすようになったのだ。
だから、その腕輪が悪戯で奪われた時、クラリベルには取り返さないという選択肢はなかった。
代わりがきくもののように腕輪を見捨てては、兄への思いを自ら軽んじるのと変わりがない。
彼女は必死でそれを取り返そうと少年たちに飛びつき、その必死さが余計彼らを喜ばせた。
そうしてクラリベルはミミルの制止も聞かず森の奥へと踏み込み……今ここで、闇に浸かっている。



目を凝らしても何も見えない。
だがそれは幸運なことだろう。クラリベルは周囲がどうなっているのかなど見たくなかった。
膝までぬかるみに埋まっているような感触。動かない足に再び力を込めてみる。
けれど伝わってくるものは鈍重な不自由さだけで、解放される糸口は少しも掴めなかった。
「アージェ……」
兄の名に悔恨を込めてクラリベルは呼ぶ。
この声が届くはずもない。しかしせめて口にしたかった。
そうでなければ今自分がちゃんと生きているのか分からない。まだ自分はクラリベルであると確認したかったのだ。
「……アージェ……お兄ちゃん……」
夜の森に少女のすすり泣きが響く。その声は風に揺れる葉々のざわめきの中に溶け、散り散りになって消えていったのだった。






あの影が何であったのか。アージェは心の底で疑問に思いつつも、今はそれを考えないよう努めていた。
時折空を見上げ木々の合間から方角を確かめると、再び走り出す。
そんな風にひたすらに前へと進んだのはほんの五分くらいのことだ。
やがて彼は、少し先に開けた場所を見出し足を緩める。剣の柄を握りなおしながら、できるだけ足音をさせないよう注意を払った。
気のせいでないのならば、その奥からは微かにぴちゃぴちゃと嫌悪をもよおす水音が聞こえてくる。
川も泉もないと言われる森のふところで何が待っているのか、アージェは恐怖を予感しながらもその正体を確かめようと木の影から奥を覗き込んだ。
―――― そして息を飲む。
木のない小さな広場と思われた場所。だがそこは、理由もなく開けているわけではなかった。
薄くなっている木々の隙間から見える地面には、何処から染み出しているのか黒い泥沼が小屋二軒分程に渡って広がっている。
そしてそれらが周囲の木々を退けて空間をあけたのだろう。沼際にかろうじて残った木は、全ての枝が毒にでも当てられたかのように黒く変色し、さらには蔓草にも似ていびつに捻じ曲がっていた。それら奇怪な形状をした枝は泥沼の周りを取り囲んでおり、まるで悪意に満ちた鳥籠のようにも見える。

だが奇怪な様相を見せる沼や枝よりもアージェを驚かせたものは、鳥籠の中央にある異物だった。
黒い巨大な卵のようなもの。
粘性の液体がてらてらと覆うそれは、目を凝らすと柔らかな表面を僅かに蠢かせており、まるで大きな一つの臓物にも見える。
それ自体命あるものなのか、時折脈動しては咀嚼に似た音を立てる様は生理的嫌悪を誘うに充分なものであり、少年は吐き気を覚えそうになるのを唇を噛んで堪えた。
アージェは僅かな自失から立ち直ると、息を殺して沼の様子を窺う。
けれどそこには卵の他に何の生き物の姿も見えない。彼は決心するとそっと沼のすぐ傍まで歩み出た。辺りを警戒しながら枝の向こうを覗き込む。
「何だこれ……」
泥に見えていたもの。だがそれは泥にしては黒すぎた。
間近で確認するまでは夜の暗さで黒く見えているだけだと思っていた。しかし実際は、この沼それ自体が漆黒なのだ。
アージェは捻れた枝を押しのけて沼の前にしゃがみこむ。用心しながらそっと「泥」に向かって指先を伸ばした。
触れたら毒されるかもしれないとも思ったが、軽く触れた表面は意外にもさらさらしている。そしてそれは、指の上にあってもその色を失わなかった。
彼は純粋な黒滴に瞬間呼吸を忘れる。
「これは」
光さえも吸い込む漆黒。この黒によく似たものを彼は知っている。
忘れられるはずがない。それはいつも彼の記憶の底にある。あの夜彼らの腹の中から――――

ぴちゃり、と音がした。
記憶の中に溺れかけていたアージェは我に返る。
目に入ったものは水面に浮かび上がってきた何かだ。
彼は目を凝らしてそれを見つめ……丸みを帯びたそのものの正体が分かると、強張った手を伸ばした。ぎりぎりのところで指先が黒く染まったそれにかかる。アージェは思い切って摘んだものを手元に引き寄せると、苦々しさを顕に手に取ったものを見下ろした。
それは、なめし皮を縫って作られた靴の片方だ。大きさや形から言って子供、それも少年のものだろう。
そう言えばクラリベルたちと一緒だった少年は一人ではなかったのだ。この靴はその一人の持ち物に違いない。
彼は靴を逆さにすると中からどろりとこぼれて行く黒い汚泥を眺める。その中にふと貝殻に似た薄い破片を見出し目を瞠った。
微かに光るようにも見えるそれは、しかしよく見れば明らかに足の爪である。
溶け損ねたのであろう爪を愕然と凝視するアージェは、我に返ると嫌悪とも恐怖ともつかぬ感情に駆られ靴を投げ捨てた。
「くそ……っ!」
ここは犠牲者の死体が捨てられ溶かされる淵なのだろうか。
あまりの胸の悪さにそれ以上の痕跡を探す気にもなれず、彼は体を返し沼から遠ざかろうとした。
しかしその時、すすり泣くような声がかろうじてアージェの耳に届く。彼は弾かれたように振り返った。
「クラリベル?」
返事はない。だが、妹の泣き声はよく知っているのだ。アージェは剣を握りなおすと沼の中央にある卵を睨んだ。黒い泥の中へ一歩踏み出す。
「クラリベル、いるのか? 俺だ。迎えに来た」
間に合わないはずがない。あの夜から三年も経った。その時間はきっと無為ではないだろう。アージェは声に力を込める。
「聞こえるか? 返事をするんだ、クラリベル!」
左手の指が疼く。靴の隙間から生温い泥が入り込んでくる。
先程の爪の持ち主と同じように溶かされてしまうかもしれない恐怖。
だがそれを乗り越え沼の中を進む彼に、風の音と紛うほどのほどの小さな声が聞こえた。
「……アージェ……」
「クラリベル!」
嗚咽混じりの声は間違いなく巨大な卵の中からのものだ。
彼は急いて走り出したくなる気持ちを押さえ、少しずつ深くなる沼を慎重に進んだ。夜の森に少年の声が響き渡る。
「待ってろ! 今助けるから!」
幸い卵は刃が通りそうな柔らかさだ。アージェは沼につかぬよう剣先を上げる。とろりとした感触は既に膝のところにまで達していた。
このままクラリベルのところまであと半分というところだろうか。
ともすれば転びそうになるぶよぶよとした底を爪先で探りながら、彼は先を急ぐ。
だがそうしてアージェが足を上げた時、不意に左手の指が激痛を覚えたのだ。まるで何かの予兆のように「その部分」が熱を持つ。
「痛……っ! 何だ?」
左手をかざし痛みの正体を確かめようとする間。―――― その間が、アージェを救った。足を止めた彼の眼前で水面が盛り上がる。
ついさっき靴が浮かんできたように、しかしそれよりももっと大きな何かが沼に波紋を起こした。黒い頭がゆっくりともたげられる。
明らかな異変に、アージェは本能的な警戒心のなせる業か、声も上げず慌てて後退した。
そうしている間にも「それ」はみるみるうちに少年の背丈を越え、ゆらりと沼の中に立ち上がる。
現れたものは、漆黒の人間。
けれど人と呼ぶにはあまりにも異形であるそれは、泥をこねて作ったような目鼻のない顔で彼を見やると、ゆっくりと長すぎる腕を上げたのである。