嚆矢 006

禁転載

アージェの行く手を塞ぐ漆黒の塊は、先程森で出会った影に似ていなくもないが、あれよりも遥かに実体を感じさせる。
その奇怪な姿は、離れた場所から見たのなら人と見紛うことも考えられるが、実際大人の男よりも明らかに身長が高く、手も足も異様に長かった。
そしてもっとも不気味であるのは、それが出来の悪い人形のように、あるべき凹凸のない曖昧な姿をしているということだろう。
少年は恐怖を緊張で押さえ込みながら沼の縁に立つと、謎の黒い人型に向かって剣を構えた。
「何だお前は……お前もあれと同じか?」
黒い人、それは少年に過ぎ去った夜を思い出させる。常に付きまとう痛みと共に。
だからこそアージェは、ともすれば恐れだけではなく復讐を考えてしまいそうな自身を、今この場にあって律さずにはいられなかった。
―――― 目的はクラリベルを助け出すこと。それより優先することなどない。
彼は自分と卵の間に立つ人型を鋭い視線で注視した。その一挙一動に集中する。

しかし人型は彼の誰何に答えるどころか、その存在も眼中にないかのように鈍重な挙動で踵を返した。沼の中央に向かって歩き始める。
張り詰めかけた空気の不発。アージェは無視されたことに一瞬肩透かしを覚えたが、安堵も混じるその感情は長くは続かなかった。
何を考えているのか分からぬ異形の、重い歩みに応じて泥から現れたものは指のない手である。
蛇に似た長い腕の先が泥から上がり、まっすぐ卵へと伸びるのを見て、少年は息を飲むと顔色を変えた。慌てて一度は下がった距離を詰めなおすべく沼の中へと駆け出す。
「やめろ! クラリベルに触るな!」
長い腕は離れた場所から容易く卵の表面を捉えた。そのままそっと撫でているつもりなのか黒い手が卵の上を這い回る。
それだけのことで、卵の外殻はまるで熟れ過ぎた果実の皮が剥けていくかのようにとろけ落ちた。遮るものがなくなったせいか、中から少女の高い悲鳴が聞こえ、森の中にこだまする。
「ひいいっ! や……っ! 来ないで!」
「クラリベル!」
人型の背に肉薄したアージェは、泥を蹴り剣を振り上げる。
「……っ!」
声にならない叫び。
それはそのまま衝撃へと繋がった。人型の腕に弾き飛ばされ、背中から激しく木の幹へと叩きつけられたアージェは激痛の中、地面へとずり落ち大きく咳き込む。途中で捻じ曲がった枝にぶつかったのだろう。見ると体のあちこちには裂傷が出来ていた。滲み出す血が彼に改めてこれが夢ではないことを示唆する。
「くそ」
左手を地面についてアージェは起き上がる。
全身に痛まないところなど一箇所もない。だが、妹の窮地に伏していることは出来なかった。喉元までせり上がる苦痛の声を堪え、彼は剣を拾いなおす。
──── 早くしなければクラリベルも溶かされてしまう。人型に遮られ卵の中は見えないが、彼女はまだきっと無事でいるのだ。



だが少年のその戦意も卵に向かう人型を見た時、僅かに懸念へと変わる。
人で言う肩口に出来た亀裂。アージェの剣がかすったことによって生まれた断裂が、まるで泥が盛り上がるようにしてみるみるうちに塞がっていくのだ。そして人型はその傷によってなんら痛みを感じていたようにも見えない。長い両腕で少しずつ卵の中身を顕にしていく。
瞬間脳裏によぎった絶望を、しかしアージェは振り払うと再び駆け出した。今度は剣を両手で突きこむように構え、黒い背中に向かって突進する。
「やだっ! 来ないで! お兄ちゃんっ! お兄ちゃああん! 助けてえ!」
「待ってろ!」
交差する二人の声。剣が、ずぶりと黒い人型に沈み込んだ。それは泥の中を行くが如く容易に異形の背を貫く。
だが人型は苦痛の声を上げるわけでもない。ただ今までと変わらぬ鈍重さでアージェの方を振り向こうとするだけだ。
彼が握ったままの剣の刃がその動きによって、汚泥の体をゆっくりと薙いでく。少しだけ人型の上半身が支えを失い傾いた。
しかしそれは相手に痛手を与えたということではないだろう。人型の目のない顔がアージェを見下ろした時、彼はそのことを悟る。

長すぎる腕が再び少年を鞭打つ為に上げられた。
それを見てアージェは咄嗟に長剣を手元へ引き抜く。今度は避けてやると身構えた時、けれどその腕は恐るべき速度で彼の首に巻きついた。
「ぐ……っ! こ、の……」
「アージェ!?」
未だ大人の身長には届かない彼の体は、黒い腕によって沼の上へと持ち上げられていく。
アージェは空の左手を泥の腕にかけると力を込め、必死で拘束を外そうと試みた。
だが先程あっさりと剣を通した胴とは違い、そこは臓物をたっぷり詰め込んだ皮袋のような質感を持っており、少年の足掻きをものともしない。
アージェは右手の剣で腕を切り落とそうと考えたが、呼吸のみならず血流をも遮る圧力にもはや剣を上げることもままならなくなっていた。

暗くなっていく視界。クラリベルの泣き叫ぶ声が妙に遠く聞こえる。
──── 結局あの夜と同じく、誰も助けることは出来ないのか。
そんな悔しさが彼の胸を焼いた。力を失った指から長剣がすり抜け沼の中へと没する。
「かあ、さん」

(アージェ)

声は、すぐ傍から聞こえた。
覚えのある、忘れようもない声。あの時、彼を呼んだ、

(つかえば、いいのに。アージェ)

―――― 何を。



聞くまでもない。何のことであるか、彼はとうに知っている。
だが聞かなければ分からない。それはあまりにも許容出来ない歪だ。



左手の指が痛む。意識が闇へと引き寄せられる。
全てが吸い込まれ、押しつぶされる一瞬。
彼の耳元で女の声が
(わたしを)
と愉しそうに囁いた。






何が起こっているのか、クラリベルからは少しも見えなかった。
彼女の体は半ば黒い臓物の中に捕らえられ身動きが取れないのだ。
しかしミミルたちを食らった人型が自分に背を向けていること、そして兄の呻き声が聞こえていることから、彼女はアージェがこの化け物に対峙しているのだということを悟った。恐怖がさざなみのように精神の表面を走り抜ける。
「ア、アージェ! お兄ちゃん! 逃げて!」
自分が食われるかもしれないという恐怖。それをけれど、兄を失う恐怖が上回った。
少女は精一杯身を捩りながら月の見えぬ空に向かって叫ぶ。
「お兄ちゃあん! もういいよ! 逃げて! 逃げてよう!」 
助けに来てくれた。でも死んでしまう。自分のせいで。
ぐちゃぐちゃになった感情が涙となって溢れかえった。既にあちこち泥で汚れたクラリベルの頬の上、生温かい滴がぼたぼたとしたたり落ちていく。
―――― どうせ死んでしまうなら、一番最初に死ねばよかったのだ。
そうすれば長く恐怖することもなく、兄を巻き込むこともなく終わることが出来ただろう。
ミミルはそうして死んだ。一番後ろからおどおどと三人を追いかけてきた彼女は、振り返る間もなくあれに背後から腹を貫かれ、そして食われた。
黒い人型は長い腕でミミルの両手を掴むと、腹に空けた穴に頭を突っ込み、中にある腸をすすったのだ。
臓物を失って投げ捨てられた友人の体がその後どうなったのか、クラリベルには分からない。
ただ悲鳴をあげ森の中を逃げ惑いながら、母もああやって殺されたのだろうかと恐怖することしか出来なかった。
そして今、兄もそうなってしまうのなら。自分もそうなるのしかないなら。
「ぁぁああああやあああああ!」
振り切れそうな正気。クラリベルは言葉にならぬ悲鳴を上げる。卵の内部に埋まった両肩を捻り、全身を震わせ狂乱した。
死ねばよかったという呪詛、死にたくないという渇望が、内部で渾然と弾ける。先のない夜に何も考えられなくなった。クラリベルは折れてしまいそうなほど背を逸らし、閉ざされた森に身を捧ぐ。



だがその時、森の中を地を這うような風が吹いた。
「クラリベル、待ってろ。必ず助ける」
冷たい声。兄の、アージェの、よく知っている声。クラリベルは息を飲み目を見開く。
苦いものを噛み砕き嚥下する声は、そうして夜の中にささやかな風を生み出すと―――― その場により深く、濃い闇を現出させたのである。