嚆矢 007

禁転載

「おかあさん」
小さな手が女の服の裾を引く。しゃがみこみ花を摘んでいた彼女は顔を上げると、子供の指す方を見やった。
昼なお暗く僅かに霧がかかる森の奥を、まだ幼い彼は注視している。
「どうしたの?」
「おかあさん、あそこ、くろいよ」
「暗い?」
このような田舎の村では子供たちの言葉は中々定まらない。母親は笑ってささいな間違いを言い直した。
だがそれを聞いた彼は困ったように首を振る。
「ちがうよ。くろいんだよ。きりがくろい。くろいものが座ってる」
「え?」

それはとうに忘れられた記憶だ。






『どうして自分にだけ「彼ら」の声が聞こえるのだろう』
その理由を、アージェはかつて幾度となく考えた。
自分の耳がおかしいのか。気が狂っているのか。全ては妄想の領域に属するものなのだろうか。
千にも届くほど自らに問うた疑いの答は未だ出ない。答が出る日が来るとも思えない。
だが、代わりに転機はやって来た。
それはまるで長い眠りから目覚め出でるように、彼の戸惑いと怒りを知って、そうして笑うのだ。
―――― 必要なことを、私があなたに教えましょうと。






沼の中に落下したアージェは一瞬自分が溺れるのではないかという恐れを抱き顎を上向けた。
だが彼の予想に反して水面は胸ほどの高さで止まり、アージェは右手を柔らかな底につくと急いでその場に立ち上がる。阻害されていた呼吸が戻ったことにより、くらりと軽い眩暈がした。僅かによろめいた彼は、大きな咳を一つして意識を引き戻す。
剣はない。落としてしまった。
だが、今彼にとって重要なのは右手よりもむしろ左手であろう。
アージェは腐食したかのように黒く穴のあいた手袋の指先を見やる。
剥き出しになった人差し指と中指の二本。だが第二関節まで露出したそれら指先は、そこだけが闇に染め上げられたかのように黒く変色していた。
彼はその指先を片腕を失った人型へと向ける。そうして相手の出方を窺いながら、彼は「彼女」へ問うた。
「どうすればいいんだ? 今、どうやったんだ」
(わからなかった、の? アージェ、おばかさんね)
「いいから教えろ!」
苛立ちをぶつけると彼女はくすくすと笑う。
それと呼応して何だか左手の指がむず痒くなったが、アージェはその指先を人型から外すようなことはしなかった。
先程彼の指を使って首を絞める腕を「落とした」彼女は、少年の問いに取り止めもない断片を返す。
(泥をかきわけるように、うごかす)
「泥? 遊びじゃないんだぞ。冗談言ってるのか」
(こどもは、泥あそびが、得意)
耳元で囁く声は真剣に答える気がないに違いない。
彼は「くそっ」と吐き捨てると既に意味のなくなった手袋を取り去った。その間に人型は緩慢な仕草で残る腕を上げる。
鞭がしなるような音。黒い腕は彼の体を薙ぎ払うように黒い水面すれすれを走った。
動きにくい沼の中では到底避けられそうもないそれに、アージェは反射的に左手を向ける。

想像した未来は、先程のように体ごと木に叩きつけられる、そんな手痛い結果だ。
だが、彼の予測は当たらなかった。
凄まじい速度で肉薄した腕は、アージェの指先に触れるなりそこが溶け落ち、途中からもげてしまったのだ。
揮われた勢いのまま根元から切り離され、離れた水面に着水する腕先をアージェは驚愕の目で振り返る。
「なん……今の……」
(まえ、むいて)
声だけの女。三年前、彼を森に誘った彼女は嬉しそうに謳う。
その声が何処から響いてくるのかもはや分かっている少年は、瞬間嫌悪に満ちた表情を己の左手に落とした。だがすぐに両腕を失った人型に向き直る。
顔も何もないそれは、僅かばかりアージェの存在に困惑しているようにも見えた。しきりと体を捻っていたが、やがて腰を落とし沼の中に沈み始める。
女の声が短く命じた。
(追って)
人型が逃げるつもりか違うのかは分からないが、このまま見失ってしまうのは怖い。
アージェは蹴れば沈みそうな沼底を駆け出すと没してゆく人型に向かった。何も分からないまま、ただ左手をその頭に向ける。
沼と同じ色の指先。それは呆気なく人型の頭へと食い込み、そのまま音もなく右半分を屠った。アージェはその異様さに瞠目する。
まるで空を切ったかのような手ごたえのなさ。
それが剣を突き刺した時と異なるのは、彼の触れたところから黒い体が「失くなった」ということだろう。
泥のような体は押されたことによって形を変えたのではない。彼と接した先から消失したのだ。
その異常さは頭部の半分を奪われた人型が、声もなく体を捩って悶えていることからも明らかだった。
思わず唖然としかけるアージェを女は楽しそうに煽る。
(食らいなさい、こんな、できそこない)
忌まわしい言葉。
だがアージェはそれに嫌悪と反感を覚えながらも再び左手を伸ばした。沼の中に没していく人型をその手で掴み取ろうとする。
左手の指はいつの間にか痛みを感じていない。その代わりそこにはまるで血の流れがなくなってしまったかのような冷たさが宿っていた。人型を捕らえようと触れた場所から凍りついたかのような違和感が徐々に腕へと上がっていく。
そしてアージェは、肌の下を走る感覚から今何が自分に起きているのか、おおよそを理解しつつあった。吐き気を堪えながら沼の中に腕をめり込ませる。
―――― それだけのことで黒い沼は、まるで巨石を落としたかのように水面をたわませ爆ぜた。

「……っ」
「いやあああっ」
黒い飛沫が少年の頬にかかり、少女の高い悲鳴が響き渡る。激しく波打つ黒い水がアージェの膝頭を濡らした。
逃げられたのか破裂したのか、人型の姿は既に沼の中に消えており判別がつかない。
彼は何の手ごたえも感じない左腕を舌打ちと共に一度引いた。状況を「彼女」に聞きかけ、だが口を開くと同時に体勢を崩す。
「この……っ!」
何かが彼の足を沼の中で強く引いた。アージェは黒い水中に引きずり込まれそうになり、咄嗟に沼底へ左手をつく。再び黒い水が弾け飛んだ。
汚泥が消失したことで剥き出しになった沼の底に、彼はしりもちをつく。
(アージェ、まえ)
女の声には容赦がない。間をおかず放たれた指示に彼は半ば本能的に飛びついた。
同年代の少年たちよりもよく鍛えられた足に力を込め、跳ねるように体を起こす。
そしてその動きは、沼に出来た空白を埋めるべく黒い泥が彼の足下へ流れ込んでくるよりも僅かに早かった。
アージェはそれらの泥に混じって意志のある「何か」が滑り込んでくる気配を察すると、左手を真っ直ぐ前へと向ける。
それとほぼ同時に泥の表面から一条の黒い刃が現れ、少年の喉元めがけて空中を走った。アージェはその刃を掌で阻もうとする。
(だめよ)
女の声に焦りが滲んだ。
彼の左手が独りでに動く。その指が、左手を避け側頭部に突き刺さろうとする刃にかかった。
黒い刃が指の触れた場所から音もなく消滅し―――― だが彼の額には鋭い痛みが走る。
無効化しきれなかった刃が針状となって自分の額を掠めていったのだと彼が気付いたのは、顔を伝う温かい滴の感触によってだ。
アージェは知らぬ間に命拾いしていたことにぞっと戦慄すると慌てて額から垂れていく血を拭った。再び足を浸し出す汚泥に注意しながら辺りを窺う。
「……何処に行った?」
(あなたの手を、おそれている)
「俺の手を」
油断せぬよう気を張り巡らしながら、彼は長らく手袋で隠してきた左手を見た。
人差し指と中指の先だけが黒く変色していた手は、いまや手首付近まで漆黒に変じてきている。
その変化は、彼が今この沼で得体の知れぬ敵と対峙していることと無関係ではないだろう。
「彼女」の言葉を信じるならば、左手による泥の消失はそれを「食らっている」ということなのだ。



「お前は、何だ」
低く抑えた声。
姿のない女は息だけで笑う。
(今、それをきくの? アージェ)
彼の名を呼ぶ響き。
三年前惨劇の切っ掛けとなった声は、あの時よりも流暢な発音で少年に応えると、それきり彼の問いについては何も返さない。
アージェはすすり泣きが聞こえる卵と、少し水嵩を減らした沼を見回した。
「何故、お前たちは人を食らう」
―――― 思い出すものは「あの時」の光景。
あの夜、無残な死屍を前に立ち尽くした彼は、そこで「彼女」に出会ったのだ。
全身あますところなく漆黒の人間。だが彼女は確かな質感と、見るからに女と分かる優美な体つきを兼ね備えていた。
緩やかに波打っているのだろう長い髪。けれどあるべきところに目鼻や口はなかった。
それでも何故か微笑んでいると分かったのは、風がざわめくに似た女の笑声のせいだ。
黒い女は、意味の分からぬ事態に愕然とするアージェの前に立つと、彼の左手を取ってそっと口付けた。
そしてそれきり……霧をかき消すようにその場からいなくなってしまったのである。

悪夢としか思えない一夜。
だがそれが夢ではないことは明らかだった。いつでも笑っていた母の声は二度と小さな家には響かなかった。
そして消えた女の代わりにアージェの指先は黒く染まり、彼はその黒を見る度あの夜の出来事に苛まれるようになったのだ。
どれほど擦っても落ちない漆黒は、少年の目には罪人を示す焼印のように見えた。
彼は母を森へと行かせた自分の迂闊さを、そして何も出来なかった無力を憎んだ。
ただひたすら恨んで、悔やんで、けれど今――――
彼は黒い左手を以って、そして忌まわしい「彼女」の声に助けられ、妹を守ろうと足掻いている。



(アージェ)
女の声は優しい。
それは不思議なほどに彼の心へと染み入り、正体の分からぬ感慨をもたらした。無言でいるアージェに彼女は囁く。
(すべて、食らいなさい、この森にとびちった、のこりかす、すべて)



月光も入り込まぬ森の奥。
沼面が波打ち始め、辺りにざわめきがたちこめる。
少年を追ってきたのか、いつの間にか集まった姿の見えない「彼ら」が彼の名を呟き、一方ではクラリベルが涙交じりに兄を呼んだ。
その只中でアージェは一人立ち尽くす。
「何故、お前たちは人を殺す」
返って来ない答。
少年は左手を上げた。自分に向かって来る黒い小波に漆黒の指を向ける。
そうして彼はきつく己の唇を噛むと、力の限りその手を闇色の水面へと叩きつけたのである。