嚆矢 008

禁転載

その動作が何を意味しているのか確信は持てない。
ただアージェは直感的に左手を沼へと叩き付けた。
彼の手によって沼の水までもが消失するというなら、この水とあの人型は突き詰めれば同じではないかと考えたのだ。
そして沼が干上がれば今よりもずっと戦いやすくなる。
彼はこうして今もどこかに潜んでいるのだろう人型の残りをあぶりだしてやろうと思っていた。

跳ね上がる飛沫。だがそれとは別に水は少年の周囲から掻き消える。
―――― 推測は、誤りではなかった。
沼の中を一歩ずつ進みながら泥を手で払うアージェは、もはや自らの手が黒い汚泥を食らっているのだと身をもって理解していた。
指先から走る冷ややかな感覚が全身の体温までもを奪っていく気さえする。
三年前母たちの腸を食い破ったもの、そして今夜子供の体を溶かし込んだものが、間接的に自分の中に流れ込んでいるという想像は、ともすれば気が狂いそうなほどの不快感をアージェにもたらしたが、途中でそれを放棄するという選択肢は彼にはなかった。絶えず聞こえる少女の泣き声が彼の精神を兄として保ち、奮い立たせる。
「アージェ……痛い……こわいよ」
「もう少しだ。ちゃんと二人で家に帰れる」
本当ならば一刻も早く彼女のところへ駆けつけ、この場から遠ざけたい。
だが肌身に感じる危機感がアージェに性急な行動を選ばせなかった。
今、敵が意識しているのは黒い手を持つ彼だけである。その彼がクラリベルに飛びつくような真似をしてはかえって彼女の身が危うくなるだろう。
せめて相手の姿を顕にしてからでなければ安心して逃がすことも出来ない。
彼はただ沼の水を減じていくことに集中した。背後で風に似た囁きが聞こえる。
(あーじぇ、はじめるのね)
(もう、そんな時間? 大きくなったのかしら)
(やがては誰しも大人になる)
(かわいそうな)
(死んでしまうね)
無責任に交わされる会話にアージェは舌打ちしたくなった。誰が死ぬか、と振り返り啖呵を切ってやりたい。
だが実際そんな余裕はないのだし、彼らをいちいち相手にしては腹が立つだけである。
彼は身を屈めて脹脛ほどまでになった沼の水を減らしながら、緊張に詰まる息を吐き出した。もっとも近くから女の声が笑う。
(大丈夫よ、アージェ。あなたは、負けない)
「言われなくても」
沼底を探る右足が何か固いものを蹴った。それが先程落とした長剣であると気付いたアージェは、しかしすぐに剣を拾いなおすことを諦める。
右手に武器を持てば、きっと左手を動かす意識がおろそかになってしまうだろう。それは今この状況では命取りだ。
剣は効かない。それは既に分かっている。彼は失った武器に拘泥せず沼を探った。
膝上まであった水位はいつの間にか広い水溜りと言えるほどになりつつある。
クラリベルの姿を覆い隠す卵はまだ変わりないままだったが、あれも同じものから出来ているのなら、彼女を助け出すことも容易だろう。
アージェは一旦屈んでいた体を起こす。その時、何かが彼の踵を掴んだ。
「……っ」
先程のように足を引かれることを恐れて、少年は掴まれた右足を蹴りあげる。
だがその動作は気配を振り切るより先に、焼けるような激痛によって阻まれた。
「っあああああ!」
(アージェ!)
それは、左手に感じる冷たさとは対極の温度だ。体勢を崩し膝をつく彼に、灼熱は容赦なく入り込んでくる。
靴の隙間から入り込み彼の皮膚を侵す熱は、まるでその肉を貪り食らうかのように痛みを与え暴れ狂った。
思わず足を抱え横倒しになる少年に、声だけの女は叱咤する。
(だめよ、アージェ。ゆずらないで)
「く、そ……っ、譲って……な」
そのようなことを言われても、ただ痛いだけでどうにも出来ない。
アージェは何とか手を伸ばし右足の靴を引き剥がした。その下の踵が黒くぶよぶよと膨らんでいるのに気付いて歯軋りする。
―――― 入り込まれた。
けれどそれは何の痛みもない左手と違い、敵に主導権があることは間違いない。
尾に食いつかれた蛇が逆に敵を飲み干そうとするように、黒い人型は先にアージェを内から食らおうと反撃に出たのだ。

考えている時間はない。
アージェは決断すると黒い水中に手を伸ばした。手探りで落とした剣を拾い上げる。
そして鈍い刃の半ばを掴むと、彼はその切っ先を変色した己の踵に向けた。奇怪に盛り上がった黒い瘤を睨む。
(まって)
女は驚きの声を上げたが、その制止も聞かない。
アージェは奥歯を噛み締めると、一息で黒い膨らみを貫いた。
焼けるような激痛の中、その痛みはまるでささいなことのように感じ取れない。切り裂かれた皮膚と肉の隙間から赤黒い血が流れ出す。
だが少年は、汚泥へと滴っていく血にも構わず剣を投げ捨てると、自らが作った傷口に左手を差し込んだ。無言で中を広げ自らの肉を探る。
ぞっとするような感触。しかしそれでも彼は指を動かすことをやめなかった。苦痛に歪む声で呟く。
「出て、行け」
思い切った行動ではあるが、冷たい指によって入り込んだものが吸い取られたのか、瘤はみるみるうちに萎んでいった。
灼けつく痛みが薄らぎ、代わりに自傷による苦痛がアージェを襲う。
けれどこのせめぎ合いは、アージェの体内からふっと熱の気配がなくなったことによりとりあえずの決着を見た。
傷口から指を抜き去る彼に女は苦い声をかける。
(むちゃするのね、アージェ)
「……まだあいつは何処かにいるか?」
(少しは)
アージェは頷いて袖を破り取るとその布で足の止血をした。
切り裂いた皮膚を含め膨らんでいた箇所をきつく縛るが、じくじくとした痛みは容赦なく彼を責め立てる。
これは歩くことは出来ても走ることは当分出来ないかもしれない。右足を手で押さえながら彼は呼吸を整えた。
痛みを頭の隅に押しやろうと試みる最中、淡々とした声音で女が語りかけてくる。
(いそぎましょう。あなたの血が、力を、あたえてしまう)
「血?」
アージェは驚いて血に濡れた両手を見下ろした。
勿論流れ出た血はそれで全てではなく、既に幾筋もの赤い跡が汚泥へと滴ってしまっている。
そしてそれら赤い滴は既に闇の中に没してしまい、何処にどれだけ混ざりこんでしまったのか既に分からなくなっていた。
―――― もしかして何か不味いことをしてしまったのかもしれない。
彼は予想の出来ない事態に呆然としかけたが、その思考をすぐに左手が遮る。
今までに二度、独りでに動いて彼の命を救った黒手が、薄く残る汚泥の上へと掌をついた。



手首を少し越えた箇所まで変色した手は、確かに感覚の宿る自分の手でありながら、まるで悪夢の中から現れ出でた異物のようにアージェには見えた。
そしてその直感は半分以上当たっているのだろう。
この左手は、彼のものでありながら「彼女」の潜む手でもある。あの夜から彼は、母を屠った闇を己の身に宿し続けてきたのだ。
彼は整理しがたい忌々しさを持って沼底についた左手を見やる。
半分は人ならざる漆黒の手は、黒い水に向けて人差し指を上げると、まるでそれを招くように動いた。氷に触れたが如く指先が痺れる。
(さぁ、アージェ、もう終わりにしましょう)
闇の中をさす指。
彼が女の言葉を訝んだ次の瞬間、空気が変わった。背後のざわめきがやむ。
困惑と慄き。人ならざる存在の原始的な警戒が夜の中に満ち、それらは全て一人の少年へと向けられた。
アージェは思わず気圧されそうになり体を引く。
しかし重心を移動させたことで右足に負荷がかかり、彼は危うく悲鳴を上げそうになった。何とかそれを堪えると意識を左手に引き戻す。
今は剥き出しになっている地面についた手は、中央に残る汚泥を無形の力によって引き寄せようとしているように見えた。
闇が、音もなく動き出す。
夜に慣れきった少年の目は、生い茂る葉の隙間から零れる僅かな光を頼りにその異様な光景を捉えた。
沼に残る黒い泥だけではない。先程まで背後で囀りあっていた「彼ら」までもが、少しずつ彼の左手に吸い寄せられている。
まるで世界がいびつに傾き、滑り落ちていく螺旋の下に彼が待っているかのようだ。
異形が異形を食らう―――― それが彼の意志によるものではなく、「彼女」の介入によって為されていることは明らかだ。
何の為この夜に行き当たったのか、この先に何が待っているのか、少年は愕然とした思いで夜を見渡す。



張り詰めた空気の不気味さに気付いたのか、クラリベルの泣き声が高まる。
怪我でもしているのか恐怖を訴える中に「痛い」という悲鳴がしきりに混ざり、アージェは焦燥に駆られた。
だがまだ動くことは出来ない。
『全て食らう』
その宣言を「彼女」は実行しようとしているのであり、実際辺りの闇はアージェに向かい打ち寄せつつあるのだ。
ここで妹の傍に走り寄れば彼女もまた巻き添えになってしまうだろう。少年は覚悟を決めると近づきつつある泥を睨む。
「来い」
(支配、するのよ)
―――― 全て消えてしまえばいい。
森に巣食い続けるものも、人を害するものも。
嘲笑う声も惑わす影も、みな食らわれ失せればいいのだ。
アージェは意思を持つかのように波打つ闇を見据える。その中にあの人型も混ざっていることは肌に突き刺さる気配から分かっていた。
灰がかった緑の瞳が闇を映して沈む。
呼吸の音さえも耳障りなひととき。
間近に迫る泥が突如、生きているかのように跳ね上がった。黒い飛沫が彼の目に向かう。
「っ……!」
地についていた左手が上がった。
アージェが動かしたのか彼女が動かしたのか分からないほど機敏に、その手は黒滴を払う。
そしてそのまま黒い指は空中へと突き出された。一気に勢いを増し、残りの闇が掌中に引き込まれていく。
踏み止まらねば押しつぶされてしまいそうな圧迫感。
手のひらの感覚がなくなり、自分のものではないかのように凍りついた。
軽い眩暈。天地がゆらゆらと傾ぐ。
体の内側から腐食していくような錯覚に、吐き気が喉元までせり上がった。
それら全てを振り払うようにアージェは地を踏みしめるとその場に立ち上がる。
少年は束の間足の痛みも忘れ、流れ込んでくる冷たい力へ叫んだ。
「消えろ……全部消えてしまえ!」
(あなたの、力に)
少しずつ変色していく腕。アージェはそれを見て喚き散らしたい衝動に駆られる。
切り離したくとも切り離せない異質の力。彼は憎悪さえ込めて声だけの女に返した。
「お前も、消えればいい」
―――― 本当に消してしまいたいのは、彼女だ。彼を欺き母を食らった女。
だが今はそれが叶わない。どうすればいいのか分からない。
アージェは冷えていく腕と変わっていく森の空気に瞬間目を閉じる。
そうして狂いそうな感情を見て見ぬ振りする時間、「彼女」は不思議と沈黙を思わせる静寂に佇むとやがて
(そばに、いるわ)
と呟いた。