嚆矢 009

禁転載

広がる世界に光はない。そして闇もない。どちらも彼女には不要であるからだ。
本当は空間の広がりさえ必要ない。彼女が認識すべきはただ時間のみで、それも形骸のように思えることさえあった。
『思考はいつも自由だ』
そう言ったのはどの男だったか、彼女は自由にならない思考を手繰る。
こんな風に過ぎ去った記憶を思い出しては時折物思いに耽ることは、それでも彼女のささやかな「自由」であった。

微かに波打つ気配。
それに気がついたのは彼女がじっと思考の余白に佇んでいた時のことである。
懐かしい、よく知っている力。
とうに自分が失ってしまったはずの「それ」に彼女は小さくない驚きを覚えた。
そう認識すると同時に精神の片隅で声が響く。
「お前の騎士が起きたようだ」
「まさかそんな」
それは、とっくの昔に失われてしまった存在だ。そして代わりがいるはずもない。彼の力を継いだ男は代々一人しかいなかった。
一人だけにもかかわらず、その男は既に彼女のもとを離れ、遥か遠くへ行ってしまったのだ。
だから彼女は片翼を持たないまま、長い間一人で座するしかなかった。
なのに今、何故またあの力の波動が感じられるのだろう。
とうに喪失を受け入れていた彼女は激しく困惑する。揺らぎ始める空間に沈着な声が響いた。
「早く迎えに行かせればいい。あの力は傍に置いておくべきものだ」
「でも」
迎えに行って、傍に置いて、そうしてどうなるのか。
あの時と同じ決別を繰り返すだけではないのか。再び一人に戻るのではないか。そうして長い歴史の上、無数の別れが積み重なってきたように。

彼女の精神はさざなみ立ち、やがて作られた空間が砕け散る。
そして再び冷たい椅子の上に戻った女は、深く溜息をつくとそのまま赤紫に変じた瞳を閉ざしたのである。






左腕が軋む。
ぎしりと音を上げそうに凍りついたそれを、アージェは大きく息を吐きながら回してみた。肩に鈍い痛みが走る。
だがそれは単に、闇の奔流を受けきったゆえの軋みだったのだろう。違和感は拭えないものの左腕は元通り彼の支配下に戻ってきた。
ただその代償としてアージェの左手は、手首よりも少し上まで漆黒に染まってしまったのではあるが。
少年は険しい目を己の手に注いでいたが、すぐに視線を逸らすと枯れた沼を歩き出した。右足を庇いながらいまだ残る卵の前へたどり着く。
「クラリベル」
しゃくりあげる泣き声が応えた。アージェは左手を卵につき、溶けた側へ回り込もうとする。
だがそれをするまでもなくぶよぶよとした外殻は次々消え落ちて、捕らわれた少女の姿が顕になった。
リボンは何処かでなくしてしまったのか、解けた金髪はすっかり汚れて艶がない。涙に濡れた大きな瞳が彼を見上げる。
「お兄ちゃん」
「お前……」
そこから先の言葉をアージェは飲み込んだ。妹の両脚を見下ろして絶句する。
しなやかで健康的だった細い脚はいまや見る影もない。
黒い汚泥に侵されたのだろう、拳大のどす黒い瘤がいくつも出来ており、中で何かが蠢いているかのように蠕動していた。
それだけではなく肌自体も黒く変色して爛れており、すっかり膨らんだ少女の脚は元の三倍ほどの太さになってしまっている。
「これは、」
アージェはその場に屈みこむとそっと左手を伸ばした。だがクラリベルはびくりと体を震わせると動けない体で後ずさろうとする。
同様に彼女の脚に潜む「それら」も黒い手を恐れたのか、肌の下がごぼごぼと波打った。
「いっ、いたい! 痛いよう!」
苦痛を訴える悲鳴が上がる。アージェは慌てて左手を引っ込めると、愕然とした面持ちで妹を見上げた。
―――― このままにしておくことは出来ない。だが、どうすればいいのか。
足を侵された妹を家に連れ帰ればいいのか、それともここで無理にでも入り込んだものを取り除けばいいのか。
アージェは自身の痛む右足を見下ろす。
先ほどあのように乱暴なことが出来たのは妹を助けたいが為のことであり、何よりも自分の体であったからだ。
同じことをクラリベルにするのはさすがに躊躇われる。
第一既に太股近くにまで上がってきている侵食は、かなりの広範囲に切れ目を入れなければ拭い去れないだろう。
それはとても危険なことに思えた。

アージェは唇を噛み締める。
どうするべきか定められぬまま息をつくと、頭の上からかぼそい声が降ってきた。
「お、お兄ちゃん……ごめん、ごめんね」
「クラリベル」
彼は我に返ると顔を上げた。
今ここで、迷っている姿を見せる訳にはいかない。
誰よりも不安なのは彼女自身なのだ。助けに来た自分が、兄が、その不安を煽ってはならない。
アージェは立ち上がると未だ残る卵の殻に手を伸ばす。そうして慎重に彼女を束縛する黒い残骸を消してしまうと、よろめく少女を抱き取った。乾いた土の上に座らせる。
「もう大丈夫だからな。一緒に帰るぞ」
「お兄ちゃん、で、でも私、あしが」
「何とかなる。俺が何とかする」
肌を広く切り裂いて指を入れて―――― そんなことは相応の準備を整えてからでなければ出来ない。
最低限清潔な寝台と消毒した刃物を用意し、出来るなら治癒を施せる魔法士を立ち会わせた方がいいだろう。
だがそれには一度村に帰って父に相談せねばならない。アージェは上着を脱いでそれを破ると、右手だけを使い妹の足に巻きつけ始めた。
この足が人目に触れれば彼女もまた人々の猜疑の視線を受けかねない。彼はそれを厭って丁寧にクラリベルの足を覆った。
恐怖に震える少女の目が、自分に触れようとしない兄の左手にとまる。
「それ、いたくない、の……?」
「平気だ」
「アージェは」
クラリベルは何かを言いかけ、しかしその続きを口にはしなかった。涙が滲む顔を汚れた手で拭うともう一度「ごめんなさい」と呟く。
まるで幼い子供に戻ってしまったかのような頼りない謝罪。少年は苦笑すると妹に背を向け屈みこんだ。
「だからちゃんと帰って来いって言っただろ。おかげでスープが冷めた」
「ご、ごめん……」
「ほら、おぶされ」
自分で立てるだろうかとアージェは妹を心配したが、彼女は何も言わなかった。
ただ背後でにじり寄る気配がして、背中に軽い体が圧し掛かる。
「ちゃんと掴まれよ」
「アージェ」
(アージェ)
二つの声が重なる。

その時、ぞっとするような違和感が少年を襲った。彼は首だけで振り返る。
見えたのは妹の足。彼の上着でくるまれた―――― だがその布は既に腐食してあちこちに穴が空いていた。黒くうねる何かがその穴から這い出す。
まるでおぞましい幼虫のような物体。いくつも現れたそれは、ゆっくりと妹の足の上を移動し彼の方へと近づきつつあった。
生理的嫌悪が喉元までこみあげてくる。だがそれでもクラリベルを突き放せないアージェに、少女の泣き声が届いた。
「ごめん、アージェ、もう私、だめなの」
「何を言って」
「だから、私も、連れて行って」
幼い声が罅割れた。ごぼごぼと何かが詰まっているような声。唖然とするアージェの背後で、小さな手が彼の肩を掴む。
「一緒に、中に」
黒い虫が彼の腕にたどりつく。そのまま剥き出しの肌に頭をこすりつけ入ってこようとするそれを、少年はどうすることも出来ず注視した。
やがて二匹目、そして三匹目がそこに追いついてくる。
「おにい、ちゃん」
(アージェ、振り払いなさい)
「駄目だ。クラリベルが……」
妹を捨てることは出来ない。だが、どうすればいいのか分からなかった。
まだ彼は信じられていないのかもしれない。またもや自分が間に合わなかったなどということを――
(アージェ)
左手が動く。それはクラリベルの体を突き飛ばすと、右腕にもぐりこもうとする虫を掴んだ。
たちまち幼虫は爆ぜて消える。地に伏せた少女の嗚咽が濁って聞こえた。
「アージェ、いたい」
(剣を。はやく)
俯くクラリベルの顔は見えない。ただ彼女の脚の上には大小無数の虫が這い回っており、それはなおも彼女の体の中から新たに湧き出しつつあった。
泣きじゃくる声がまるで沼に沸く泡音に似て、アージェは呆然と立ち尽くす。
(アージェ、剣を)
「助けられるのか」
(母体になる、前に、はやく)
何が正しいのか判断がつかない。
少年は捨てたままの剣に駆け寄ると右手でそれを掴んだ。踵を返し、そしてまたそこで動きを止める。

枯れた沼のほとり、曲がりくねった枝の向こうにいつのまにか黒い影が立っている。
曖昧な、けれど見覚えのある姿。それは森の中で彼に道を教えてくれたあの影だった。
思わず息を飲む彼の前で、影は枝をすり抜けゆっくりと近づいてくる。
そうしてそれはクラリベルの前に膝をつくとぼやけた両腕で少女を抱いた。クラリベルがおそるおそる顔を上げる。
「お、おかあ、さん?」
顔のない影は応えなかった。ただ労わるように小さな体を包み込む。
薄ぼやけた手が爛れた少女の足に触れ、痛々しく波打つ肌をゆっくりさすっていった。
少女の体を這い回る虫が、何かに気付いたようにその影に向かって動き始める。
そうして一匹、また一匹と黒い輪郭の中に吸い込まれ溶けていく様を、アージェは何も出来ずただ見つめていた。
影の手が少女の足を撫でる度、変色した皮膚は徐々に元の色合いを取り戻していく。
たとえようもなく醜悪で、だが不思議と胸が痛む光景。
アージェはその意味も分からず、無言で癒されていく妹を見守った。
「あれは、本当に母さんなのか?」
答が知りたくて、だが知りたくない問い。
少年の耳元で女がふっと笑う。
(大事な、こと、教えてあげる、アージェ)
女の声には感情がない。それはむしろ意図的に消されているようにも思えた。穏やかに繕われた響きが彼の耳の奥に届く。
(人は、しねば、何も残らない。何もないのよ)
虫を抜かれたクラリベルが、影の手によって土の上に横たえられる。
どうやら気を失っているようで、小さな体が呼吸と共に揺れるのが見えた。
「何も残らない?」
(そう。残るものは、ただの、絞りかすだわ)
それきり女は沈黙した。
困惑するアージェの前に、影が音もなく進みでる。
無言で差し伸べられる影の両手。それは明らかに彼の左手を請うていた。アージェは顔のない影を見上げる。
人は死ねば何も残らないという事実。だがそうと聞いても彼は何かを感じて仕方なかった。自然にその言葉を口にする。
「ごめん、母さん……」
あの時言えなかった言葉に影は何も返さない。ただ彼の手を待って佇んでいる。
そうしてアージェは黒く染まった己の掌に目を落とすと、長い悪夢の夜に幕を引くべく最後の闇に手を伸ばした。






早朝の荷馬車には御者の他に誰の姿もない。ただ雑然と荷が積まれているだけである。
その片隅に長剣を抱えて座り込んだアージェは、見送りである父に向かって笑って見せた。
「じゃあ、行ってくる。父さん」
「気をつけるんだぞ」
グラフの隣では杖をついたクラリベルが、ぎゅっと唇を結んで兄を見上げている。今にも泣き出しそうな彼女の顔にアージェは苦笑した。

あの夜の惨劇の犠牲者は結局二名、ミミルともう一人の少年である。
けれど三年前よりも少ないその犠牲は、村人たちにとって何の慰めにもならなかった。
前回とは違い、まだ幼い子供たちがその命を絶たれたのだ。
凄惨な死に方をした二人を前に村人たちの不安と苛立ちは深く、そしてその憎悪のいくらかはアージェに向けられた。
元より彼は素性が知れない人間である。
ましてや二度の事件とも森の奥から生還しただけでなく、クラリベルを連れ帰った彼はその時、黒く染まった手を幾人かに見られてしまったのだ。
まるで呪われたような黒い手の噂話は密やかに村中に広がり、中にはミミルの祖母のようにアージェを庇う人間もいたが、同時にグラフの元へは息子を村から追放するよう要求しにくる者まで現れるようになった。
―――― その中にミミルの母親がいると知ったアージェは一晩考えると、村を出て行く決心をつけたのである。

「いいか? その魔法士が治せなかったら一度帰って来い」
父の言葉にアージェは返事をせずに笑った。
難しい病でも治すことが出来るという西方の魔法士の話は、クラリベルの治療に呼ばれた隣村の魔法士が、アージェの手を見て教えてくれたことである。
「自分にはどうすることもできないが、あるいはその魔法士であればこの手を治せるかもしれない」という彼の話に、はじめグラフは難色を示したが、結局はアージェの強い要望によって出立を許したのだ。職人の伝手を使って荷馬車に村へ立ち寄ってくれるよう頼んだのもグラフである。
その魔法士がいるという西の街は遠い。これからいくつもの町に立ち寄り、馬車を乗り継いで行くことになるだろう。
先の見えない旅立ちに、しかしアージェは暗い顔を見せなかった。肘までの手袋に覆われた左手を一瞥する。
御者台に座る男が別れ行く父子を振り返った。
「そろそろ出発させるよ。いいかい」
「お願いします」
アージェは改めて荷台に座りなおすと父を見た。いつでも憧れた大人の目。そうなりたかった父の目が、彼を見つめる。
「アージェ。何処に行っても何があっても、お前は俺の息子だ。困ったらいつでも帰って来い」
「……うん」
少年は最後に妹を見やったが、彼女は何も言わなかった。大きな瞳に亡き母の姿が重なって見える。
「じゃあな、クラリベル」
ゆっくりと動き出す馬車。アージェは深く息を吐き出すと、積荷の箱に寄りかかった。見慣れた青空を仰ぐ。
もうきっとこの空を見ることはないだろう―――― そんな感慨が彼の胸を満たした。
遠ざかる景色。耳の奥で女が呟く。
(クラリベルが、泣いているわ)
あの夜以来一言も喋らなかった女の声に、アージェは驚いて顔を上げた。遠く父と妹を見つめる。
何を言っているのか、もう彼には届かない。だが確かにクラリベルは去って行く彼に向かい、泣きじゃくって何かを叫んでいるようだった。走り出そうとし転んでしまった彼女をグラフが抱き起こす。
もはや届かない家族。その最後の姿を少年は食い入るように目で追った。無数に重ねた食卓が記憶の中をよぎっていく。
(もう、帰らないのね、アージェ)
「お前がいる限り」
もし彼が帰れる日が来るとしたら、それは「彼女」を消し去った後のことだろう。
西の魔法士に会えばそれが叶うのか、もっと長い時間が必要なのか。今は少しも分からない。
(アージェ)
「黙れ」
明らかな拒絶に女は笑う。
けれどその笑い声は少しだけ悲しげに聞こえて、アージェは青い空に視線を戻すと黙ってその目を閉じたのだった。