曇った刃 010

禁転載

深夜―――― 時刻は既に日をまたいでおり、小さな町のほとんどは静寂と眠りの中に包まれている。
白い月の光がぼんやりと無防備な家々を照らし出し、薄布のような安寧が穏やかに降り積もっていた。
この大陸にあっては珍しく、戦乱からも百年来遠ざかっている田舎町。
だがその中にあって一箇所だけ、まるで昼のように多くのかがり火で照らされている場所があった。
いつもならば他の家と同様、闇の中に沈んでいるはずの広い屋敷。
しかしその庭も回廊も、この夜だけはあちこち明かりを掲げ持った男たちが行き来し、物々しい空気が立ち込めている。
「おい、本当に来るんだろうか」
片手に短槍を、片手に明かりを提げた男が、隣り合う体格のよい男に問う。欠伸を噛み殺していた相手は鼻を鳴らして笑った。
「来ないんなら楽でいい。それでも金は貰えるってんだからな」
「それはそうだが。どう考えても不可能だろう。こんな状態の屋敷に盗みに入るなんて」
この日の為に雇われた彼らは、わざわざ他の街で要請を受けてやって来た傭兵たちである。
普段揉め事も少なく、また街道からも外れたこの町には、あまり金で仕事を請け負う流れの人間は出入りしない。
その為屋敷の主人である貴族は、伝手をたどって周辺からありったけの人手をかき集めたのであるが、肝心の傭兵たちはあまりの警戒態勢に、これでは予告した賊どころか鼠一匹さえ屋敷に侵入することは出来ないだろうと拍子抜けしていた。
「大体何と言ったっけ、その賊」
「さあ。忘れた」
「あちこちの街で金持ちの家から宝物を盗み出しているらしいが、それも胡散臭い話だ。本当に本当か?」
「知らんな。おれたちの仕事は今夜ここを守りきることだけだ」
退屈なのか先ほどからしきりに話しかけてくる男を、彼はそっけない言葉で一蹴する。
大陸のあちこちを放浪しながら剣の腕で暮らしている彼にとって、そういったことの真偽は瑣末なことでしかない。
ただ注意を向けるべきは、割り当てられた場所に何か異変が起きていないかということだけであり、意識にあるのは報酬の金でしばらく骨を休めようかという考えだけである。彼は腰に帯びた剣の鞘を軽く叩くと、また一つ欠伸をした。
「おい」
急に潜められた声。彼は欠伸を半ばで飲み込むと眉を寄せる。
「どうした」
「今、女の声が聞こえなかったか?」
囁くような訴えに、だが彼は首を振って返した。念の為、剣の柄に手をかける。
「下働きの女じゃないのか? おれには何も聞こえなかった」
「女たちはもう寝ていると思ったんだが。気のせいか……」
それきり二人は何とはなしに沈黙した。かがり火に照らされた庭に視線を走らせる。
だがいくら警戒を強めても夜の庭には女の吐息一つ聞こえず―――― その数分後、彼らは「宝物庫が荒らされている」という叫びに驚愕の顔を見合わせることになったのだ。






よく晴れた青空の下、白い砂岩の建物が通りの両脇に立ち並んでいる。
一見して全て繋がっているようにも見えるそれら建物は、しかしよくよく注意して見るだに一軒一軒別の家であるらしい。
その証拠に高さが揃っていない屋上部分は、いずれも切り出されたままの荒い様相を呈しており、中には縁に敷物をかけて干している家もある。
村では木の建物しか見たことのなかったアージェは、壮観とも言える白い街並みに圧倒され、しばし街の入り口に無言で立ち尽くした。
物珍しさを前面に出す少年に、荷馬車を預けてきた御者の男は苦笑するとその肩を叩く。
「あまり色々珍しがらない方がいい。この街には悪い奴らも多いからな。油断してるとすぐいい獲物に見られるぞ」
「それは……気をつけます」
これから長い道のりを一人で旅していくのだ。その最初で躓くようなことはしていられない。
街並みを見上げていた視線を戻す少年に、御者の男は通りの先を指差した。
「西へ行く乗合馬車は、大体朝と昼に一本ずつ門前の広場から出ている。
 何処まで行くかは馬車によって違うが、大体はカウロの町まで行くな。
 そこでまた新たな馬車を探して国境を越えてもいいし、川を上ってもいい。
 ただたまにたちの悪い馬車も混じっているからな。騙されないよう気をつけろ。そういった馬車には傭兵は乗り込まない」
「分かりました。ありがとうございます」
十五歳は子供を脱しかけた年齢ではあるが、決して大人でもない。
この曖昧な状態で旅をするには、よくない奴らに付け込まれないようにするのが一番だろう。
アージェはもう一度お礼を言って御者と別れると、賑わう通りを歩き始める。
温かな陽気は、森に隣接しており比較的涼しかった村とは違い、上着が必要ないくらいだ。
アージェは汗ばみそうな気配に右手の袖を捲くったが、左手の長い手袋に気付くと嫌な顔になった。
「目立つか、これは」
この陽気に皮の手袋を片方だけ、それも利き手ではない方にしているというのはやはり奇異に見えるかもしれない。
しかし外していたらそれはそれで余計目立ってしまうだろう。アージェは無性に毒づきたくなったが、言葉以前の苛立ちを飲み込んで先に進んだ。走ってくる子供たちを避け、街の中心へと踏み入っていく。
行きかう人々は皆何処か他人に無関心で、したたかな顔をしている――そんな風に見えてしまうのは大きな街に住む人々への先入観の為だろうか。
アージェは、砂岩の建物からはみ出して軒下に並べられている金物の山に気を取られ、歩を緩めた。

と、その時、横合いから急に飛び出してきた子供が彼の胸にぶつかる。
まだ十歳にもなっていないであろうその少年は、転びかけながらも何とか踏み止まるとアージェに向かって小さく舌打ちした。
「どこ見てんだよ」
「あ、ごめ……」
謝罪を述べ終わるより早く、子供は彼から離れると走り出す。すぐ傍の路地にその姿が消えた。
しかし小さな背が見えなくなったのはほんの一瞬で、すぐに少年はアージェの前へと戻ってくる。―――― 若い男にその腕を捻り上げられて。
「くそっ! 何すんだよ、お前! 放せよ!」
「何すんだよって、それ自分に言ってんの? じゃないなら、すんげえ面の皮厚いな」
剣を佩いた軽装の青年は、どちらかと言えばすらりとした体つきではあるが、肩まで袖が捲くられた腕などを見るだにかなり鍛えてあるらしい。
呆気に取られるアージェの前で彼は子供の懐に手を突っ込むと、見覚えのある財布を抜き出した。それをアージェに向かって放る。
「お前も紐かなんかつけとけよ。この街、こういうガキ結構いるぞ」
「あ、ありがとう。気付かなかった」
一体いつすり盗られたのか、まったく分からなかった。用心しようと思った矢先の出来事にアージェは頭の痛くなる思いを味わう。
こんな調子で本当に西の魔法士のところにまで辿りつけるのだろうか。
もっとも、最初にこのような機会に出くわしたのはある意味幸運だったのかもしれない。
彼は改めて男に礼を言おうとしたが、青年は「じゃあな」と手を上げるとあっという間に雑踏の中に消えてしまった。ようやく腕を放された子供もさっさとその場を逃げ出す。
ほんの数十秒のことにアージェは思わず呆気に取られたが、通りに立ち尽くしている自分が人々の邪魔になっていると気付くと、慌てて歩き出した。取り戻してもらった財布を懐の奥の方にねじ込みながら嘆息する。
「すごいな……」
いずれは自分もこの慌しい速度に慣れるのだろうか。
「大人になる」ということとはまた違った意味で想像が出来ない可能性に彼は大きく息を吐き出すと、西門前の広場へと向かった。

アージェがこの街に着いた時にはもう時刻は昼過ぎになっていた。
それが意味することはつまり、今日発つ乗合馬車は既になくなっているということだ。
だから彼が広場に来たのは単に、明朝発つ馬車の時間を大体でいいから確かめたいというだけの理由である。
出立時刻の見当をつけて、その後紹介された宿に向かおうと思っていた彼は、けれどそこで先ほどの青年と再会することになった。
「っだから! それじゃ間に合わねーの!」
「そんなことを言われてもこっちだって困ってるんだ」
言い争っている二人の男のうち「間に合わない」と連呼しているのは、ついさっきアージェの財布を取り返してくれた男である。
その男に食って掛かられている中年の男は、乗合馬車の関係者なのかもしれない。若い男からの苦情を迷惑そうな顔で受け流していた。
アージェは目を丸くしてその言い争いを眺めていたが、我に返ると近くにいた別の男に尋ねる。
「何があったんですか」
「ああ。それが街道の先、西の方で部族間の戦闘が起こってるらしい。こっちに来るはずの馬車が止まってる」
「え? それって、ここから向かう馬車は……」
「明日もこのままなら出発を見合わせざるを得ないだろうな。今のところ魔法士からの連絡待ちだ」
答えてくれた男は大げさに肩を竦めて見せた。服装からして彼も旅人なのかもしれない。
事情を把握したアージェの視線の先で、なおも青年は「困る」を連呼している。
「あと少しで行かなきゃ契約がふいになっちまう! 何とかならないのかよ!」
「無理だって言ってるじゃないか。魔法士も連絡専門で転移が使えるような腕じゃない。諦めてくれ」
まったく進展の見られない不毛な言い争いをアージェが断片から推察したところ、彼はどうやらこの街で仕事仲間と合流し、そのまま契約先に向かう予定だったらしい。
だが乗合馬車が止まっている為、その相手が来られず、このままでは契約自体が危うくなるのだろう。非常に焦っている、ところのようだった。
気の毒と言えば気の毒だが、アージェに何とか出来ることでもない。第一馬車が止まって困るのは彼自身もそうなのだ。
とりあえず早めに戦闘が収拾することを願ってその場を離れようとした時、急に青年がアージェの方を振り返った。思わず目が合う。
男はアージェを見てすぐにさっきの少年だと気付いたらしい。軽く瞠目した。そのまま数秒の間を置くと、唐突に歩み寄ってくる。
何だか知らないが大股で近づいてくる男に、アージェは先ほどの恩も忘れ、つい後ずさりたくなってしまったのだが、元々大してなかった距離があっという間に詰められたのは仕方のないことであろう。男は笑顔でアージェの肩に手を置く。
「また会ったな、お前」
「……先ほどはありがとう、ございます」
「この街の人間じゃないんだろ? 連れは?」
「いません」
「剣持ってるけど修行中か何か?」
「そういうわけでは」
この長剣は単に護身用と万が一の場合を考えて父が持たせてくれたものなのだ。
彼自身はまったく扱える自信がないし、剣を習ったこともない。
そしてそれは、相手の男にも分かったのだろう。彼はアージェを眺め回して「ふぅん」と頷いた。顎に手をかけ何やら思案顔になる。
「まぁ……ぎりぎり通用しなくもないか? どうせおやっさんの顔までは知られていないわけだし」
「あ、あの?」
何だか面倒事の予感がする。アージェはさっさと立ち去らなかったことを後悔したが、男の方は胡散臭い笑顔になった。
彼の肩を軽く叩くと通りの向こうを顎で示す。
「どうせお前も馬車が止まって困ってるくちだろ? ちょっと来いよ。相談がある」
「え?」
普通に考えるのならば怪しい誘いだ。
用心を心がけたばかりのなのだからアージェはここで突っぱねるべきだったろう。
だが少し前に助けてもらったという恩が少年に迷いを抱かせた。アージェは困惑しながらも強引な男に引きずられていく。
そして手近な食堂に案内された彼は、名前も知らぬ男から、近頃あちこちを騒がせている盗賊について、話を聞くことになったのである。