曇った刃 013

禁転載

閉ざされた扉の隙間から、黒い霧が回廊へと染み出している。
それはけれど、廊下へ更に広がっていくということもなく、ただ扉の周りに纏わりついているようだった。
アージェは立ち上がると腰の長剣に手をかける。
そのまま扉に向かって近づこうとする少年を、しかしケグスが背後から留めた。
「待て。俺には何も見えない」
「見えない?」
男の言葉に大きな衝撃を受けてアージェは扉を見直す。
だがそこには、あいかわらず黒いもやもやとしたものが漂っているままだ。
まるで池の底に溜まる泥のようなそれらは、アージェを嘲笑うかのようにその場でゆらゆらと揺れている。
少年は不審な靄を前に、無意識のうちに左手の指を握りこんだ。

黒い
泥のような

そして夜の森。

短い間に少年は事態を把握すると、唇をきつく噛む。
ケグスにはあれが見えていない。あんなにも色濃く扉の前に立ち込めているものが。
それはつまり、あれは「彼らの声」と同じようなものだということなのだろう。アージェにしか見えない、聞こえない類のものだ。
果たしてそれらは何であるのか。幻覚なのか幻聴なのか。
懊悩には既に三年も費やした。そしてその結末として―――― あれは人を食らったのである。



少年は意を決したかのように長剣を抜く。
そうして扉の方へ歩き出したアージェを、ケグスは少なくない驚きをもって見下ろした。
昼間出会った時から今に至るまで、この少年は何処にでもいる年相応の、単なる田舎育ちの子供であったのだ。
だが今の彼が纏う空気は子供のものにしては鋭すぎる。
それはケグスもよく知るもの、すなわち悪意や死と直面したことのある人間が持つ戦意だ。
男はつい先ほど覚えた違和感を思い起こすと少年の背に問いかける。
「何か見えるのか?」
「見える」
「見間違いじゃなくて?」
「間違いじゃない」
即座に返って来る声には微塵の迷いもない。ケグスはほんの数秒の間に決断を下した。自分も剣を抜き、少年の後を追う。
―――― 未だ屋敷に侵入している者はいない。
それは、彼の中ではほぼ確信と言っていい認識だ。誰も外から建物の中には入っていない。
だが、件の賊は今まで一度も目撃されることがなかったのだ。もしかしたら、誰も思ってもみない方法で侵入してきたのかもしれない。
仮に黒い霧とやらがアージェの勘違いであっても、扉まで様子を見に行って戻ってくるくらいの余裕はあるだろう。
ケグスはそう結論づけると扉に向かう。
既に数歩先を行くアージェは扉の前で足を止めており、左手を取っ手に向かって伸ばしているところであった。
鍵がかかっているのではないかと思った戸は、けれど彼の手が触れると、何かが割れるような金属音と共に内側へと開く。
その先には更に奥へと伸びる廊下があった。
外とは違って明かりの見えない屋敷の中へ、少年は僅かな逡巡を見せたが足を踏み出す。そのすぐ後ろにケグスは追いついた。
「まだ見えるのか?」
「この先に続いてる」
「さっきから見えてたのか?」
その質問にアージェは困惑を見せた。記憶を探るよう二、三度かぶりを振ると「分からない。気付かなかった」と洩らす。
ケグスから見て、その反応は嘘をついているようには見えなかった。彼は背後の担当区域を振り返る。
「参ったな。持ち場を長くは離れられないぞ」
「俺が一人で行って来るよ」
「待て待て待て」
急に何を言い出すのか。つい先ほどまで雇われ仕事に緊張を見せていた人間とはまるで別人である。
第一この少年は身体こそ同年代の子供たちより鍛えてあるが、剣の扱いにはまったく慣れていないようなのだ。
ケグスはどんどんと先へ進んでいってしまうアージェを捕まえようと、少年の肩に手を伸ばした。
けれどその時、微かな異臭が廊下の奥より漂う。
「……血の匂いだ」
「え?」
嗅ぎ慣れたそれにいち早く気付いたケグスと違い、アージェの方は怪訝そうに眉を顰めた。自分も嗅ぎ取ろうとして分からなかったらしく彼は首を傾げる。
「匂いなんてする?」
「するよ。この先だ」
―――― 何かが起きている。
それはケグスの中で確信に近い予感として頭をもたげつつあった。彼はもう一度背後を確認すると、アージェを追い越して先に立つ。
だが彼の行動に少年はいささか驚いたらしく、気の抜けた声を上げた。
「危ないよ」
「なーに言ってんだお前、どっちの方が場慣れしてると思ってるんだ」
「そりゃそうかもしれないけど。でも」
ここでアージェが自分の左手に複雑な視線を落としたことをケグスは知らない。彼は周囲に注意を払いながら暗い廊下を進んでいく。
奥に行くにつれ次第に強くなっていく血臭に、少年もまた気付いたようだった。緊張の気配が伝わってくる。
「ねえ」
「何だ?」
「これって盗賊と関係ある、のかな」
おかしな聞き方をする―――― とケグスは一瞬思ったが、その疑問は形になる前にすぐに消え去った。自分の知っていることを教えてやる。
「誰にも姿を見られてないって言っただろ。今まで怪我人も死人も出たことはないさ」
「じゃあ違うのか」
「そうとは限らない」
闇に慣れた目に、廊下の先が右へ折れているのが見て取れる。
そこを前に、ケグスは角の向こうにまず注意を払ったが、アージェの方は迷いなく扉の前に立った。手袋に覆われた手が扉にかけられる。
血の匂いが濃いのは、扉の方だ。
僅かに開かれるその隙間から暖色の光が廊下に差し込むのを見て、ケグスはアージェを横に押しやった。いつでも剣を上げられるよう意識しながら扉をさらに蹴り開ける。
「……っ」
息を飲む気配は隣の少年のものだ。
ケグスはそこまで動揺はしなかったものの、目の前に広がる光景に驚きを隠せなかった。
むっと鼻につく血の匂い。その原因たる五つの死体を彼は眺める。
「何なんだ……?」
さして広い部屋ではない。そこには家具はなく、ただ口を縛った麻袋が数十あちこちに積まれていた。
扉は彼らが入ってきた向かいにもう一つ小さなものがあるだけで、窓は一つもない。
当然人が隠れられるような場所もなく、だから五人を殺害した人間が既にこの部屋にいないことは明らかだった。
五人は全て大人の男であり、服装からいってこの屋敷の使用人だろう。全員が剣の一撃で命を断たれている。
その鮮やかな手口をケグスは厳しい表情で確認した。
犠牲者のうちの三人は背中から斬られており、運んでいる途中だったのだろう麻袋が血溜まりに転がり落ちている。
「かなり時間が経ってる、ってほどでもなさそうだな」
血や傷口の様子を見ながらケグスが口にすると、アージェは力なく首を振った。
恐怖に駆られて叫び出す、などということをしないのは見上げたものだが、さすがに少年の顔色は幾分悪く見える。
まだ何か得体の知れないものが見えているのか、彼は眉を顰めたまま室内をぐるりと見回すと、最後に奥の扉を指した。
「あっち……が怪しい」
「分かった」
アージェが何を見ているのか、それが何を意味しているのかは分からないが、殺人者がまだ近くにいるのなら捕捉しなければならない。
彼らが入ってきた回廊において扉が開いた気配はなかったのだ。
ならばこれを為した人間は廊下を右へ逃げたか、この奥にいるかのどちらかであろう。
ケグスは奥の扉に手を伸ばした。それを押し開こうとして―――― だが動きを止める。
「うん?」
「どうしたの」
「開かない」
「鍵? 開けようか?」
「いや、鍵なら俺だって開けられる……じゃなくて、鍵はかかってないんだ。何か向こうでつかえてる」
「え?」
アージェが手を出してきたので、ケグスは横に避けてやる。
だが人が変わっても結果は同じだ。扉は指が一本入るか入らないかのところで止まり、アージェはそれ以上向こうにいかない戸に不思議そうな顔になった。
「何だろう。向こうに戸棚とかあるのかな」
「かもしれん。この位置だとどの辺の部屋だろうな」
アージェは開かない扉が気になって仕方ないようだが、ケグスは早々に見切りをつけると踵を返した。
入ってきた扉に向かいながら、連れの少年に指示する。
「おいアージェ、お前ちょっと外行って、誰かに報告して来い。俺は右の廊下を見てくる」
「分かった」
もっとまごつくかと思った少年は、意外に素直に元来た道を駆け出す。
その背を見送ったケグスは改めて惨たらしい室内を振り返ると、不快げに一つ舌打ちをしたのである。



一旦外に戻ったアージェは別の扉から屋敷の中に入る為、かがり火に照らされた回廊を走り出した。
板張りの廊下を駆けながら、突然の出来事で混乱する精神を何とか宥めようとする。
突然黒い霧が目に入った時は驚いたものの、それは夜の森で出会った「あれら」とは、少し違うようだった。
何処が異なるのかと聞かれても明確には説明出来ないが、「あれら」より遥かに弱い、ただ漂っているだけのものに見えたのだ。
ケグスには見えないそれが何であるのか、アージェは未だに答を持てていない。声もせず、痛むこともない左手に目をやる。
「あれは何だ」
答える声はない。彼女は関わる気がないのかもしれない。
ただ鍵のかかった扉に触れた時、その鍵を「斬った」のは彼女ではないかとアージェは考えていた。
あの時確かに一瞬だけ、左手に違和感が走った。それが彼自身の意思ではない以上、彼女が関係している可能性は高い。
そんなことを振り返りながら、アージェは少しだけ、手袋を取ってあの霧に触れてみればよかったと思う。
そうすれば少なくともあの霧が森にいた「あれら」と同種のものかどうか分かっただろう。それが何かの糸口になったかもしれない。
黒い霧は、扉の前から血に染まった部屋の中へ、そして開かない扉の向こうへと続いていた。
―――― それは一体何の意味があるのか。
アージェは堂々巡りになりそうな思考を回転させながら、しかしその時、窓の内に見覚えのある人影を見出して足を止めた。慌てて硝子窓を手で叩く。
幸い中にいた人間は音で気付いてくれたらしい。内の廊下を歩いていたマクランは、護衛に窓を開けさせると目を丸くしてアージェを見た。
「どうしたのかい。何かあったのかい?」
「人が殺されてます!」
「え?」
「俺たちの見ていた場所の、近くから入ったところの部屋です。麻袋が沢山ある部屋。そこで五人殺されていました」
絡まりそうになる舌を何とか抑さえてアージェは報告する。その上で「早く来て下さい」と彼らを急かした。
しかし、もう一度マクランを見た彼は、男の目の中に不可解な驚愕を見て取り息を飲む。
まるで起こるはずのないことを聞いたかのような目。
男はその表情のまま固まると、喘ぐように「そんなはずはない」と呟いたのだ。