曇った刃 014

禁転載

街全体が寝静まった夜と、その中で一つだけ明るく浮き立つ屋敷。
それは彼女にとって至極見慣れた光景の一つでしかない。
高い木の枝に座り、夜空を退けるかがり火を眺めていた少女は、乱暴に足を組むとその上に頬杖をついた。
「なーんか、うっとうしい感じになってるなー」
視界に入るものは赤い灯りだけではない。彼女の目にはもっと多くが見えている。
だからこそ、気になって来てはみたものの、ここでいつまでも動かずにいるのだ。少女はぽりぽりとこめかみを掻いた。
「どうしようかな。ここで待ってるか、行ってみるか」
どちらを選ぶにせよ長所と短所がある。
彼女はしばらく無言で座していたが、やがて一つ大きな欠伸をすると―――― おもむろに反動をつけ木の上から飛び降りたのである。






マクランはアージェの報告に驚いたものの、すぐに部下を集めると問題の部屋へ向かってくれた。
同行するアージェは回廊から最初の扉まで戻ると、怪訝な顔で辺りを見回す。
―――― 先ほどあった黒い霧が、若干その範囲を広げている。
その代わりそれらは大分薄らいで、もうしばらくすれば掻き消えてしまうのではないかと思えた。
本物の霧が晴れていくに似た様に、彼は手袋を取ってそれらの正体を確かめたくなったが、他の人間と一緒である手前我慢する。
マクランは扉の鍵が開いていることに不審そうな表情をしたが、それどころではないと考えたのだろう、すぐに暗い廊下へと進んでいった。
窓のない廊下は、先ほどより濃く血の匂いが感じ取れる。アージェたちが扉を開いた為、中の空気が流れ出したのだろう。
マクランたちもすぐその匂いに気付いたらしく、小声で何事か囁きあった。
やがて廊下の先に問題の扉が見えてくる。
その前に立っていたケグスは、一行の姿を見とめると軽く頭を下げた。
「この部屋です」
無音の緊張が走る。
一歩横にどいたケグスに代わって、マクランの護衛の一人が扉に手をかけた。それを押し開いてすぐ、男は「うっ」と呟いて固まる。
「どうしたんだ。中はどうなっている?」
「それが……」
主人の問いに意を決したのか、男は室内に入ると己の体で扉を開いた状態に留めた。他の護衛たちも続いて中に踏み込む。
しかし彼らは皆広がる惨状に軽く呻いただけで、それ以上意味のある言葉を発しなかった。
最後に部屋の中に入ったマクランは、愕然と変わり果てた使用人たちの姿を見回す。その視線が麻袋を捉え、次に奥の扉の上で止まった。
ケグスは雇い主の背後に立つと、報告を付け加える。
「奥の扉は施錠されていませんが、向こう側で何かがつかえていて開きません。
 また死体を発見してすぐ右の廊下も見てきましたが、物入れがあるだけで誰の姿もありませんでした」
「……回廊に面した扉は開いていたようだが」
苦々しい声音で確認するマクランに、アージェは慌てて手を上げた。言い忘れていたことを補足する。
「あ、あれは、俺が斬ったんです。元々鍵はかかってました」
「なるほど」
「ですから、おそらく賊は奥の扉から逃げた後、向こうから何かで扉を塞いだんじゃないかと思いますよ。
 奥の部屋はどうやって行くんですか。中に他の扉がないですかね。そっちから出て行ったと思うんですが」
ケグスの言葉に、しかしマクランは答えなかった。淀んだ沈黙が立ち込める。
―――― 急がなくては賊に逃げられてしまうかもしれない。
アージェは募る焦りに雇い主の顔をそっと窺ったが、マクランはその視線に気付くと溜息をついた。大きく首を横に振る。
「向こうの部屋は、単なる倉庫だよ。他に扉はない」
「じゃあまだそこに犯人がいるかもしれない。俺たちが入ってきた回廊の扉から出入りした人間は、見ていた限り誰もいませんでしたよ」
ケグスの声は一段低くなっていた。それが何を意味するのか、アージェはまだ分かっていない。
不穏な空気は感じ取れたものの、では自分はどうすればいいのか、まったく見当もつかなかった。ただ少しだけケグスの方に近づいてみる。

マクランは目を細めてケグスを見た。先ほどまでとは違う冷ややかな目。それはまるで刺すように男へと突き刺さる。
「奥は本当にただの倉庫だ。むしろ、怪しいのは君たちではないか? 鍵がかかっていたと言っているのは君たちだけだ。
 それが事実かどうかは分からないだろう」
「あれは……!」
アージェは反射的に反論しかけた。
剣でではなく左手で断ち切った錠。それを見られて、怪しまれたのではないかと彼は思ったのだ。
ならば何とかして説明しなければならない―――― そう身を乗り出しかけた彼は、だがケグスに手で留められた。
男はアージェを抑え一歩前に出ると、皮肉な目でマクランを見やる。
「鍵は本当にかかっていた。で、賊がそっちの扉から出て行ったのも間違いないんだ。
 ここで揉めてる場合じゃないでしょう。それともこの結果も、あんたの計算のうちですか?」
「計算? って……」
「何のことだ?」
いつの間にか五人いるマクランの護衛全員が、自分たちを取り囲むように立っていることにアージェは気付いた。
嫌な予感を通り過ぎ明らかに不味い事態。彼はケグスの背中を見る。剣を抜いていない男は、それでも真っ直ぐにマクランを見据えていた。
「悪いとは思いましたが、一応確認したんですよね。その麻袋」
「…………」
「俺は清廉潔白な人間じゃあない。どんな仕事でも納得して引き受けたならやりますし、報酬を貰えりゃそれで満足です。
 ただ、自分が関わった仕事で、派手に暴れた賊を逃がすってのは気分悪いんですよ」
だから向こうを調べろと、言外に繰り返す男に、しかしマクランは動こうとはしなかった。
代わりに彼の指が気だるげに上がり、ケグスを指差す。
「この二人を捕らえろ。使用人たちを殺害した犯人かもしれん」
「え?」
間の抜けた声を上げてしまったのはアージェだけだ。マクランを除く他の男たちは全員が素早く動き出す。
そのうちの一人、護衛の男がまずケグスを捕らえようと飛び掛った。
しかし彼はその動きを読んでいたのか、右に避けると男の腹へ蹴りを叩き込む。
「アージェ! 廊下出てろ!」
「で、出てろって」
何がどうなっているのか全ては分からないが、自分たちに濡れ衣が着せられそうなことはさすがに分かる。
しかしだからと言って、殴り合いに参加するのがいいのか、それとも逃走がいいのか、アージェにはそこが更に分からない。
彼は困惑に立ち尽くしかけ、だが護衛の一人が剣を抜きかけているのを見ると、咄嗟に走り出した。そのままの勢いで男に体当たりする。
もんどりうって転がった少年は、床の上で一回転すると自分でも上出来と思えるほど機敏に立ち上がった。
一緒に転がった男は足を捻ったのか、呻いて起き上がれないでいる。辺りを見回すとケグスがもう一人を殴り飛ばしていた。
残る二人は既に剣を抜いており、新たな血が流れるのは時間の問題に見える。
アージェは自分も剣の柄に手をかけながら駆け出した。
頭の中はからっぽに近い。ただ戦わなければという焦燥だけが体を支配している。
だが衝動に突き動かされて床を蹴った彼の足は―――― 次の瞬間宙に浮いた。
何もない空中を足だけが掻く。それに遅れてアージェは真上を見上げた。
「待て待て、みんな落ち着け」
頭上で響いた声は、場にそぐわないのんびりとしたものだ。
いつの間に室内に入ってきたのか、片手で少年の襟首を掴んで吊り上げている闖入者―― 四十代ほどに見える筋肉質の男は、ケグスを見てにやりと笑う。
「よ、遅れてすまんな」
「おやっさん……」
殺気立っていた部屋の空気が、驚愕と緊張へと代わる。
それを確認して頷いた男は、ようやくアージェを床に下ろすと「まずは話し合いからだろ」と暢気な提案を口にしたのである。



通称『迅雷』―――― 本名をダルトンという彼は、アージェが知らないだけで本当に有名な傭兵らしい。
彼が現れただけで護衛たちは萎縮し、マクランもまた分が悪いと悟ったのか何も言わなくなってしまった。
そんな中、一人だけ変わらないケグスは遅れてきた彼へ、簡単に事態のあらましを説明する。
アージェは偽りの立場に居心地の悪さを覚えながらも、ちゃんとした事情が知りたいと思ってその説明に聞き入っていたのだが、ダルトンは「開かない扉以外に逃走経路はない」とのくだりにさしかかると「ああ、分かった」と話を遮ってしまった。
「つまりあれか、盗賊が来るって話は嘘か」
「ええ?」
再び場違いな声を上げるアージェに、ダルトンは振り返ると満面の笑顔を見せる。
しかしそれはもともとのいかつい顔立ちのせいか、幼子が見たなら泣いてしまいそうな笑顔だった。
泣きはしないものの引いてしまったアージェに、だがダルトンは親切にも説明を付け足してくれる。
「あのな、実は今噂になってる賊って、義賊なんだよ」
「義賊?」
「そう。盗られた奴らはみんな評判悪い奴らだし、外聞が悪いから口止めしようとしてるけどな。まず平民から集めた貢納を盗るような賊じゃあない。
 だからこの仕事の話を聞いた時、ちょっとおかしいとは思ったんだがな」
「っていうことは、貢納は……」
「盗賊の仕業に見せかけて、このおっさんが自分の懐に入れようとしてたんだろ」
そっけなく言い捨てたのはケグスである。彼は壁際に歩み寄ると、転がっている麻袋の一つを蹴った。
「これが、その貢納だ。おそらく本来の部屋から移してここに隠そうとしたんだろ。が、それを知った誰かがやって来て……この有様だ」
アージェが見回す部屋には、まだ斬られた時のままの姿勢で五人の死体が転がっている。
胸の悪くなる光景に、だが少年は何も出来ず顔を歪めただけだった。
ダルトンは、黙り込んだままのマクランを見やると、やれやれと言った顔で溜息をつく。
「その様子じゃあ、あんたもこの殺人に心当たりはないんだろう? ならこいつらと争ってる場合じゃないだろ。
 早くやった奴を追いかけんと。……ああ、それとも金が残ってりゃそれでいいのか?」
図星をさされたのか、答えないマクランの前を『迅雷』は通り過ぎた。彼は奥の扉の前に立つと開かない扉を押してみる。
「本当に何かあるな。棚か?」
「だろ? 向こう側に回ってみたいんだけど」
「ここ通りゃいいだろ」
言うが早いかダルトンは拳を振りかぶった。
浮き上がる腕の筋肉。その太さにアージェが唖然とした時、凄まじい速度で拳が戸へ叩きつけられる。
何かが崩れる大きな音。それが扉の向こうでやんだ後、ダルトンは「よいしょっと」と跳ね返ってきた扉を再度捻じ開けた。多少歪んでしまった戸をくぐって奥の部屋へと消えてしまう。
「おーい、早く来いよ、お前ら! ここ、貢納庫みたいだぞ!」
「…………」
何だか、彼の手にかかっては黒い霧も消し飛びそうである。
あまりのことに呆然としていたアージェは、ケグスに肩を叩かれてようやく我に返ると「すげ……」と呟いた。