曇った刃 015

禁転載

ダルトンがぶち破った扉の先には、確かに何かの保管庫らしき部屋が広がっていた。
窓のない殺風景な部屋で、壁際には棚や箱が並んでおり―――― しかしその中には何もなかった。
アージェがきょろきょろと辺りを見回す間に、ダルトンは棚の裏に隠されていた扉とは違う、おそらくこちらが正式の出入り口なのだろう両開きの扉に歩み寄った。何の躊躇いもなく中からそれを開けると、外にいた見張りたちがぎょっと飛び上がる。
「ぞ、賊か!」
「大人しくしろ!」
「待て待て。違うって」
ダルトンが制止にしては暢気な声を上げている間に、見張りの男が持っていた鉄棒を振り下ろす。
しかし彼は、それが振り切られるより先に難なく左手で受け止めた。ぎょっとする男に「ほら、ご主人も一緒だろ。賊じゃない」と後ろを指し示す。
その時ちょうどマクランは顔色を失くして保管庫に入ってきたところであった。
外に立っていた二人の見張りたちは、そもそもそんなところに隠し扉があることを知らなかったのであろう。唖然として部屋の中を見回す。
「こ、貢納がない……?」
「ある。あるから平気だ。ただ人が殺されてる。お前ら、ちょっと前にこっから逃げてく人間を見なかったか?」
「ひ、人が?」
次々と新たな事実を突きつけられ、二人は顔を見合わせた。
だがともかく人が死んでいるという重大事を前に、その問題を優先すべきと考えたのだろう。彼らは自分たちの記憶を探るように視線を彷徨わせる。マクランを意識しながら、見張りの一人が口を開いた。
「先ほど交代したばかりですが、交代後は誰もこの扉から出てきてはいません」
「交代前はどうだったんだ?」
「それは前いた人間たちに聞きませんと」
「……ただそう言えば、入ってすぐに出てきた人間ならおります」
「誰だ?」
「下働きの女が、掃除をした際に道具を中に忘れてきたというので入れてやりました」
「な、何でそのように怪しい女を入れたのだ!」
声を荒げたのはマクランである。
見張りの二人は主人の怒声に体を強張らせたが、主人の方はダルトンの一瞥でまた大人しくなってしまった。
その間に部屋を調べていたケグスが問う。
「どんな女だった? どれくらいの時間で出てきた?」
「どんな女と言われても……頭に布を被ってて……顔は覚えてませんが普通の女でしたよ。一分も立たないうちに出てきましたが」
「そりゃかなりの手際だな。もう屋敷内にはいないんじゃねーか?」
無責任な相槌を打ちながらも、ケグスは振り返ってマクランに顎で動くよう示す。
屋敷の主人である男は色々と諦めたのか、項垂れながらも護衛たちに「女を捜して捕らえろ」と命じた。
彼らが慌てて駆け出していくと、ダルトンは大きく伸びをする。
「折角急いで来たのに変なことになっちまったな。まったく、あんたも悪いことすんなとは言わないが、ほどほどにしとけよ。
 こんな風に変な割り込みがないとも限らんし、度が過ぎると領主からお咎めがくることになるぞ」
「そ、それは困る」
慌てた男は最初からダルトンには敵わないと思っているのか、必死に口止めを頼み込んできた。
その態度にケグスが呆れて溜息をつき―――― こうしてアージェの「初仕事」は終了したのである。






終わってみると、「何だかよく分からなかった」というのがその感想である。
あの後ダルトンとケグスはそれぞれ逃げた女を捜しに行き、一人取り残されたアージェは所在無く屋敷内で待つことになった。
本当はもう用事が済んでしまっているのだから帰ってもいいのだろうが、生憎この街に来てすぐケグスに連れられてきたアージェは宿を取っていない。その為「ちょっと待ってればどっか連れて行ってやるから」という非常に不確かなケグスの言葉を頼りに待っているしかないという状況である。
することもないので仕方なく、少年は先ほどまでと空気が変わった屋敷の中をうろうろと歩き回っていた。
数が増えたかがり火。遠くで何人かが走っているらしい足音が聞こえる。
殺人があったということは、屋敷内の全ての人間にはまだ伝えられていないらしい。
ただ雇われていた傭兵たちや元々の護衛たちには話が伝わっており、今は屋敷中が抑えられた騒然に包まれていた。
アージェはそんな状況の中、屋敷の廊下を一人歩いていく。
沈んだ赤の絨毯が敷かれた廊下はすぐに突き当たりになり、彼は左右に分かれる通路を見回した。
「ないな……」
保管庫を出てからアージェは、薄らいでいく黒い霧を追ってはきたのだが、すぐにそれは途切れ途切れになり、しまいには何処にも見えなくなってしまった。それでも何となく霧の残滓に見えるような影をところどころで見出し、彼はそれらを辿ってきたのだが、いよいよお手上げのようである。
アージェは見渡す限り左右どちらにも何もない廊下を眺めた。いい加減引き返すべきだろうかと迷う。
だがそれには今までの道を覚えているかどうか、いささか自信がないのだ。
彼は迷いを吹っ切ると、勘で右の道を選んだ。少し細く、そして薄暗くなった廊下を歩き出す。
「あれは何だったんだろうな」
彼にしか見えない黒い霧。それが森で出会った泥と同じ系統のものであるのか、未だ彼には分からない。
ただ「霧」というと何かを思い出しそうな気がするだけだ。アージェは首を捻りながら廊下を歩いていく。

突然横合いから出てきた男に衝突しそうになってしまったのは、だから彼が考え事に気を取られていたという理由が大きいだろう。
アージェは慌てて体を捻ってよけると「すみません」と謝った。相手の青年は「こちらこそ」と頭を下げる。
「あれ」
男の声には聞き覚えがある。アージェは青年の顔をよく見てみた。
昼間ケグスが屋敷内を見に行っていた間、仕事について教えてくれた男―――― 出納係の彼もまたアージェに気付いて目を瞠る。
「あなたは。どうしてこんなところに」
「ええと…………迷子?」
まさか「自分にしか見えない霧を探していました」などと正直には言えない。よくて頭を憐れまれ、悪くて狂人扱いだ。
しどろもどろに誤魔化すアージェは青年の抱えている本に目を留め、そして黙り込んだ。
男からは穏やかな労わりの声がかけられる。
「それは大変ですね。大丈夫です。この先の角を左に曲がれば戻れますから」
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ。どういたしまして」
青年はもう一度お辞儀をすると、アージェに教えた方向とは逆側へ歩き出した。その背に少年は声をかける。
「あの」
「はい。何ですか?」
「その本、何の本ですか。見せてもらってもいいですか」
彼が携えている本。それは数時間前部屋で二人きりになった時、机に積んであったものと同じなのだろう。
装丁はしっかりしており古いようにも見えないのだが、妙に黒ずんでいる。
いや、先程より「黒くなっている」と言った方がいいのかもしれない。
薄暗い廊下のせいだけではなく―――― 本はその輪郭がぼやけてさえ見えた。
アージェはそれらの本にじっと目を凝らす。
これもまた黒い霧と何か関係があるのではないかと思った時、男は振り返った。笑顔でアージェを見下ろす。
「これがどうかしましたか?」
「いや、何となく気になって……」
「そうですか。勘のよい子供ですね」
まったく変わらない声音での感想。
それの意味することが「危険」であるとアージェが気付いたのは、最善よりも数瞬遅かった。
男は何冊か持っている本のうち、一冊だけを残し床へ投げ捨てる。
そしてもっとも大きなその一冊を開いて中から取り出したのは、大振りの短剣であった。
血臭がこびりついていそうな使い込まれた厚刃。僅かに湾曲したそれを、アージェは呆然と見やる。
男はそれ以上、何を話すわけでもない。
無言のままアージェに向かって刃を揮った。少年は男の、変装すれば女に見えなくもない痩身に、内心で納得する。
そしてその得心はあまりに突然のことのせいか、彼の体を動かすには至らなかった。
ただ切り裂かれるだけの結果を前に、アージェは立ち尽くす。

(アージェ)
少年の体を動かしたのは、彼自身ではなかった。
勝手に上がった左手。その手が喉に向かう短剣の柄を外側へと叩く。
鈍い痛みと衝撃。
その感触に我に返ったアージェは、身を屈めながら後ろに跳んだ。
すんでのところで軌道を取り戻した剣の刃が、顔の前を横切っていく。
―――― 人間に、殺されかけた。
それは少年の心に大きな動揺を与えたが、彼はそこで凍りついてしまったりはしなかった。
距離を取り剣を抜きながら、笑顔のままの青年を見やる。
「あの五人を殺した?」
「殺しましたね」
「どうして」
「皆が驚くと思ったので。驚いたでしょう?」

『驚くと思った』と。何よりもその言葉自体にアージェは驚いた。自分が言葉の意味を取り損ねたのかと惑う。
そしてその困惑はそのまま別の問いへと繋がった。少年は男に向かって疑問を重ねる。
「それだけ? 他には? 金が欲しかったとか」
「別に要りません。ただ、この茶番劇が狂言で、それに関わった者がいつの間にか殺されているとなったら大いに驚かれるでしょう。
 その反応が見たくてやりました」
男は、嘘を言っているように見えない。
本当のことを本当のまま告げている。その異様さがアージェには不気味に感じられた。
少年は男が握る短剣を、そしてその刃に纏わりつく黒い霧を注視する。
「黒いものが……見えてる?」
「何のことですか」
やはりこの男にも見えていないらしい。
アージェはその意味をよく考えたくなったが、男が踏み込んできたことで意識を切り替えた。緊張に焦り出しそうになりながら同じだけ後退する。
―――― この廊下の狭さでは、長剣の方が不利だ。
そうでなくとも腕が立つのであろう男を、何の訓練もしたことのない子供が上回れるとは思わない。
アージェは見えない背後を気配だけで窺った。果たして走って逃げて、逃げ切れるのか計算する。
(アージェ)
「黙ってろ」
(背を、向けては、駄目よ)
「……殺されるだろ」
(戦うの。アージェ、あなたには、それが出来る)
感情の分からぬ女の声。だがその時そこには、紛れもない自信があった。
少年の中を怒りと苛立ち、そして忌々しさが通り過ぎていく。
―――― 「彼女」の力など借りたくない。その言葉に耳を貸したくない。
だが、今この場にあってそう拒絶出来ない自分の無力さが嫌だった。
アージェは近づいてくる青年に注意を払いながら左手の手袋を取る。
そうして「彼女」の指示を受けて更に距離を取った。黒い左手を男に向ける。
「何ですか、その手。面白いですね。少し驚きました」
相手の揶揄に答えない。動揺してはいけない。
アージェはただ意識を集中して黒い指を伸ばすと、確かに見える「それ」へと無形の糸を投げかけたのだ。