曇った刃 016

禁転載

(黒いものが、みえるでしょう?)

彼女の声はいつも忌まわしい。そして決して聞き逃せないほどよく響く。
耳の奥でこだまするようなそれに、アージェは苦い顔をした。指示通り手袋を取った少年に、彼女は次の言葉を与える。
(集中する。糸を作る。それをあれに繋げて)
「糸を作る? 何だそれは」
あまりにも突飛な指示にアージェはすっとんきょうな声をあげそうになった。
かろうじて口の中で呟くのみに留めると、すぐに返答が聞こえる。
(あなたが、食らったものを紡ぐのよ。外に、糸にして)
そこまで聞いて、アージェはようやく理解した。
あの夜、森の中で食らった黒い汚泥。今は彼の左手を染めているそれを「外に出せ」というのだ。
「無茶言うなよ……」
そう言われてもどうすればいいのか分からない。
アージェはとりあえず男に向かって左手を上げた。意識を集中し、指先から「黒い糸が出ている」ところを想像する。
確かに皮膚を侵食しているはずの「何か」。だがそれをどう動かせばいいのか微塵も見当がつかなかった。
ただ指先をぴんと伸ばし、更にその先へ力を込める。

―――― 何も起こらない。
そんなことを思いかけたのは一瞬だった。すぐに指先が熱くなる。
まるで火が灯ったかのようなちりちりとした痛み。
アージェが驚いて左手を見直すと、彼の五指はいつの間にか黒い靄をまとわりつかせていた。女の声が素早く飛ぶ。
(縒って)
「って言われても」
口では反射的に文句を言いながらも、アージェの脳裏には既に別の映像が浮かんでいた。
小さい頃の記憶。母が家で、羊の毛から糸を紡いでいたことがあった。
絡み合っていた白い毛。それを女の指がゆっくりと引き出し、少しずつねじっていく。
茫洋とした毛の塊が糸と化していく様は、まるで魔法のようであった。幼いアージェはその光景をじっと見ている。それだけの映像だ。
音のない記憶はただひたすらに優しい。アージェは母の指を思い出し、息を深く吸い込んだ。黒い靄を意識の中で細く研ぎ澄まさせていく。
そして実際、彼の記憶を反映して、黒い靄は数本の糸を生み出しつつあった。
(いいわ。それを、投げなさい)
相手の男には何も見えていないのだろう。ただアージェの黒い左手を物珍しそうに眺めている。
子供であるから、そして身のこなしから、大した相手ではないと甘く見られているに違いない。
そのことに腹立たしさを感じないわけではなかったが、今のアージェにはむしろありがたかった。吸い込んだ息を短く吐き出す。
「行け」
短い言葉は、半ば自分へと言い聞かせたものだ。
宙を漂う糸が音もなく跳ねる。それは廊下を走り、男の短剣へと向かった。アージェの意図した通り黒い靄の只中へ突き刺さる。
或いは少しだけ、糸はそのまま床に落ちてしまうのではないかと危惧していた。
だがどういう力が働いているのか、それは黒い靄に繋がったままのようである。彼はほっと息をついた。

男が床を蹴ったのはその時だ。
アージェが気を緩めた一瞬を見逃さなかったのだろう。開いた距離を恐ろしい速度で詰めてくる。
ぎょっとした少年は右手に持ったままの剣を上げようとしたが、それも間に合わない。
心臓を狙って突き出される短剣を前に、アージェは咄嗟に左手を「上げた」。
男の目が見開く。彼の持った短剣が上方へと跳ねた。アージェはその隙に後ろへ跳ぶ。零になりかけた距離が再び開いた。
「何だ?」
訝しげな声。アージェは破裂しそうな心臓を抱え、荒い息を重ねた。
―――― 死んだと思った。
殺された、と思ったのだ。左手の動きが一秒でも遅れていたら危なかった。少年は糸に繋がったままの指を一瞥する。
彼女は介入してこなかった。アージェ自身が半ば本能的に左手を動かしたのだ。そしてそれは結果として彼自身の命を救った。
アージェは再びゆるく伸びた糸を目で追う。
試しに左手を少しだけ外側へ動かしてみた。男の眉がぴくりと上がる。
「その左手……何ですかね?」
「俺にも、分からない」
分からないが、今のことで分かったこともある。
それはつまり、この糸は「本当に相手の靄へと繋がっている」ということだ。糸で人形を操るように、短剣の動きを左右出来る。
アージェはそれを理解すると呼吸を整えた。一歩、前に出てみる。
左手を前へ差し伸べると、黒い糸は少しだけ短くなった。弛むことなく空中を揺らいでいる。
どうやら長さは勝手に調整されるらしい。アージェは絡まる心配がないと分かると、更に一歩を踏み出し、相手の反応を窺った。
男は貼り付けたような笑顔でアージェを見やる。
―――― ひょっとして、男の手から短剣を取り上げられないだろうか。
糸が繋がっているのは短剣で、男自身ではない。ならばこの糸を引いてしまえばいいのではないか。
アージェは試しに、左手を糸を巻き取るような仕草で回してみた。
だが黒い糸はゆらゆらと動くばかりで一向に縮まらない。
「駄目か」
(何やってるの、アージェ)
独りでに長さが調整されるならはなから巻き取れるはずもない。アージェは女の声を無視して男を睨んだ。
男は少年の得体の知れなさを少し警戒しているようであったが、気のせいと思ったのか再び歩き出す。
アージェは咄嗟に身構えながらぼやいた。
「両利きだったらよかったんだけど……」
左手で相手の攻撃を逸らし、右手で反撃をする。
言ってしまえば易いがそれを為すのは大変だろう。特に男の動きは非常に早い。一歩間違えれば致命傷を食らってしまうことは明らかだ。
緊張に震える指先。アージェは後ずさりたい気持ちを堪えて床を蹴った。男に向かって走り出す。
相手は少年が自分から向かってきたことに驚いたらしい。少し笑って、だが一足でアージェの目前に踏み込んできた。
アージェは慌てて足を止める。
「―― っ!」
左手を強く引く。
あるいは糸がその分だけ伸びてしまうのではないかと、刹那アージェは不安に思ったのだが、繋がる糸に引き摺られ、短剣の切っ先は彼の脇を通り過ぎていった。
攻撃を逸らされ男の表情が変わる。
絶好の機会に、しかしアージェは右手の長剣を持て余していた。狭い廊下、近すぎる敵に、それを上手く振るうことが出来ない。
もたつく間に左手が引かれる。
相手の武器と繋がっているということはすなわち、引っ張られるということでもあるのだ。
態勢を崩して右によろめくアージェに女の呆れた声が聞こえた。
(長さを固定しないで)
「どういうことだよ」
転びかけた彼に、三度短剣が振り下ろされる。彼はそれを左手を振って払った。右手を床について体を支える。
後ろに下がろうとして、だがふとアージェは彼女の言うことに思い当たった。短剣を引こうとする男を見上げ、意識を変えてみる。
先程のままであったなら、彼の左手は短剣につられて引っ張られたはずだ。
しかし男はアージェの手に関係なく武器を手元に引いた。気味の悪いものを見る目でしゃがみこんでいるアージェを見下ろす。
「何ですか、君は」
その質問に答えている余裕は、アージェにはなかった。それよりも分かったことがあるのだ。
彼が意図して縒った糸。その長さを「固定」するか「可変」にするかは、彼の意識によって決まる。
すなわち、「引いてやろう」と思えば長さは固定され、「距離を変えよう」と思えばそれに応じて長さが変わるのだ。
ならば相手が引こうとしている時はその意識を切り替えれば態勢を崩されなくて済む。アージェは壁に背をこすりつけるようにして立ち上がった。
(アージェ、いい?)
「よくない! 今考えてる!」
「おかしな子供ですね」
内の声も外の声も無視して、彼は思考を回転させる。
どうすればこのおかしな力を活用して、状況を打破できるのか。窮地を逃れられるか。
使えるものは左手だ。そして黒い糸。彼の脳裏をいくつもの表象が行過ぎる。
糸、紡ぐ、縒る、それを引いて――――
「……そうか」
アージェは顔を上げた。男と自分を繋ぐ糸を注視する。
分かってみれば簡単なことだ。これはいわば、子供の遊びのようなものなのだから。
きっといける。そう信じれば出来るだろう。糸は、彼の意思に繋がっている。
アージェは決断すると左に跳んだ。更に下がって男との間に距離を取る。
糸はまだしっかり繋がっている。細くはあるがぼんやりとした靄よりもずっと黒いそれを、少年は一瞬嫌悪の目で見やった。
だがすぐに意識を切り替えると、男の動きに注目する。
「いける、はず」
少しだけ腰を落として、彼は機を見計らった。男の肩口が動く。
短剣を構えようとする動作。それを合図としてアージェは走り出した。



男は挙動不審な少年を前に、まるで驚かされるのを待っているかのように、その一挙一動を観察していた。
相手は動きも判断もまるで素人の子供である。本来、時間をかける必要もない。
だが、何の変哲もない子供に見えるにもかかわらず、確かに何かがおかしいのだ。たとえば彼の持っていた本を怪しんだことなども。
実際、攻撃をしかけてみると、何故か切っ先が逸らされる。
見えない力に引き寄せられたかの如く軌道を外れる短剣に、彼は警戒心を覚えながらも好奇心もまた抱き始めていた。
―――― 悪い癖だ。
古い知り合いからはよくそう言われる。「いつかその好奇心が命取りになる」とも。
だが「それがどうした」と彼はいつも思うのだ。全て先が見えている道など死んでいるにも等しい。
男は口元に笑みを刻むと、目の前の少年を見定める。
そして彼は、何も言わぬまま短剣を構えると、好奇心に駆られて床を蹴った。



一瞬にして距離が近づく。
アージェは縮んでいく糸を確認して、意識を切り替えた。男と接触する三歩手前で急停止すると、力いっぱい左手を引っ張る。
だが今度は相手もそれを予想していたらしい。軽く瞠目しながらも武器の制御を奪われまいと、右手を引いた。
二人の力が黒い糸を挟んで拮抗する。男は自分には見えない何かの力に逆らいながら、楽しそうな笑顔を見せた。
「君は何者ですか? 魔法士にしては変わっている」
「魔法は、使えない」
「ならこれは何です」
男は随分痩身に見えるが体は鍛えてあるらしい。アージェは力負けしないよう両足にかなりの力を込めねばならなかった。右手の剣を握りなおす。
まばたきもせぬように目を見開いて、彼は男の右腕だけを凝視した。左手をじりじりと引き、その時を窺う。
「これが何かなんて、俺が聞きたいよ」
アージェは言うなり、糸を切り替えた。
途端、彼が引いた力の分だけ黒い糸が伸びる。つりあっていた力が消失し、男は背後に仰け反った。
―――― こんなものは子供の遊びだ。同じ縄の両端を持って駆け引きするだけの遊び。
だがそれは糸が見える分アージェの方が有利だろう。
素早く駆け出した少年は男に向かって長剣を引くと、斬るのではなく真っ直ぐに突いた。
態勢を崩した男はかろうじて身を捻り、剣先を避ける。
しかしそれもアージェにとっては布石の一つでしかない。彼は剣をそのまま手放すと、身を屈めて男の足を払う。
元より不安定な姿勢になっていた男は、その攻撃を避け切れず転倒した。
アージェは生まれた隙に左手の意識を変えると、男の手から短剣を奪い去る。
黒い糸に釣り上げられたそれを手にし、自らの長剣を踏みつけて、少年は床に唖然と座る男を見下ろした。
「観念しろよ」
激しい動悸を抑えながらアージェは宣告する。耳の奥で女が小さく笑った気がした。