曇った刃 017

禁転載

必要以上に緊張してはいけない。それを相手に気取られてはならない。
殺人者である男から武器を奪い、床に座り込む相手に短剣を突きつけたアージェは、そう思いながらもだが、緊張に強張る声を抑えきれなかった。
「動くな。動いたら刺すよ」
「面白い子供ですね。今のは何ですか?」
「答える義理はない」
出来るだけ冷然と言い放ちながら、アージェは内心で少し下がろうか迷う。
相手は既に武器を持っていないとはいえ、拘束しているわけではない。近すぎるこの状態は危険な気がするのだ。
だが、アージェが男に剣を突きつけて圧しているのもまた事実だ。彼は誰かがこの場に通りかかってくれることを願いつつ、そのままの姿勢を保った。少し考え、やはり人がいるところに移動すべきかと考える。
しかしその時、床に座ったままの男の足が無音で跳ね上がった。
短剣を持つ手を狙って蹴り出された足を、アージェは咄嗟に飛び退いて避ける。
厚い靴底が短剣の刃を掠る感触。僅かな衝撃に少年がぞっとした時、男はその場で立ち上がった。アージェが落としたままの剣を一瞥し、しかしそれを拾い上げることなく笑顔で少年を見やる。
言葉はなかった。
何も言わず、素手のまま男は床を蹴り、アージェに肉薄した。
抵抗の一切を許さぬ速度で、男の拳は少年の顎を横から綺麗に打ち抜く。
何が起こったのかまったく分からぬまま頭を揺らされ、その場に崩れ落ちるアージェを、男は上機嫌で見下ろした。
「まったく愉快です。おかしな子供だ」
「く……そ……」
頭部への衝撃のせいか、強い眩暈が彼の視界を揺らす。
今動かねば殺されてしまうと、分かっていても体は思い通りにならなかった。背筋が冷え、喉の奥がカラカラと乾く。
男は身を屈め、アージェの握る短剣を奪い返そうとする。
しかしアージェはそれだけはさせまいと、右手に込められるだけの力を込めた。
柄に食い込む指を見て、男は鼻で笑うとそのまま立ち上がる。
「まぁいいよ。それは君にあげます」
柔らかい声は、この屋敷の使用人としてアージェと話をしていた時と何ら変わりがない。
その変わりのなさに少年は恐怖を覚えた。未だ動けぬ危機に、左手が熱くなる。
焦燥ばかりが募る数秒間。
だが、予想していたその先は、ちっとも彼の身に訪れはしなかった。
男はじろじろとアージェの左手を眺めると唐突に彼の傍から離れる。
そうして廊下に散乱してしまった本を拾い集めると、ようやく体を起こしかけたアージェに向かって笑いかけた。
「結構面白かったので、君は生かしておいてあげましょう。―――― 次も楽しませてください」
爽やかと言うには底知れない目で、男は少年を一瞥すると、角を曲がって廊下の向こうに消えた。
のろのろと起き上がったアージェは、手元に残る靄のついた短剣に視線を落とす。
「……何なんだよ……死ぬかと思った」
疲労に満ちた声は、薄暗い廊下に響くこともなく消え去った。
アージェは大きく息をついてあちこち痛む体を確かめると、男の消え去った角を覗き込んでみる。
しかしそこには暗い闇が広がっているだけで、既に誰の姿も見つけることは出来なかったのである。






「お前それ、生きてただけで幸運だぞ」
呆れたようなケグスの声に、アージェは何も返すことが出来ない。
念の為に連れて来られた治療室で、一通りの事情をケグスや屋敷の人間たちに話した少年は、取り囲む大人たちの苦々しい顔を見上げて溜息を飲み込んだ。逃走した男の意味の分からない言動を思い出す。
「皆が驚くと思ったからやった」と犯行について語り、「面白かったから見逃す」と彼に留めをささなかった男。
アージェが真犯人を訴えでてすぐ、問題の男の捜索は開始されたが、どうやら当の男は既に逃走してしまった後であるらしい。
残されたものは大振りの短剣だけで、ケグスは一目それを見て「使い込まれてるな。よく手入れされてる」と評した。
「大体そいつ、半年もこの屋敷に仕えてたんだろう? 半年前なんてまだ義賊の噂も広まってないだろうに、何考えてたんだろうな」
「分からない。でも何か、変な人だったよ。普通が通じなさそうだった」
「だろうな。金も盗られてないっていうし」
考えれば考えるほど薄気味が悪いだけである。
アージェとケグスはまもなく男についての話を打ち切った。「寝てろよ」と勧められた少年はそのまま治療室の小さな寝台に横になる。
大人たちは事後処理の為、医師を除いて皆部屋を出て行った。アージェは白い敷布の上に頭を沈ませる。
疲れきった体。目を閉じると今日一日に起こった多くのことが浮かび上がってくる。
おかしな男たちとの出会い。そして人間と戦ったこと。
あの黒い靄は、そしてこの手の黒い染みは何であるのか。結局アージェは今もそれが分からないままだ。
分からないことを一つ一つ考えようとして、だが睡魔は疲労の縁にある彼の意識を攫っていく。
否応なしに深い眠りに落ちる最後の瞬間―――― 彼は自分が闇の沼に沈んでいくような、そんな錯覚を抱いたのだった。



アージェが眠っていたのはほんの四時間ほどだったらしい。
戻ってきたケグスに起こされた少年は、男に連れられ未だざわめきがやまない屋敷を出ると、早朝の街路を歩き出した。
ケグスは、しきりに欠伸を噛み殺すアージェに小さな皮袋を投げて寄越す。
「何これ?」
「今回の報酬」
「あるの?」
「なかったら俺は怒ってる」
男の不敵な笑いに少年は頷いた。
今回の事件はそもそも狂言なのだ。それをこちらが批難することがあっても、報酬を削られる筋合いはない。
殺人事件の犯人でさえ、屋敷に仕えていた男だったのだ。
アージェはいつぶつけたのか痛む肩をさすりながら袋を開けた。中を覗き込んで絶句する。
「多くない?」
「口止め料込みだ。受け取っとけ」
「あー」
それを聞けば納得である。アージェは一瞬嫌そうな目で銀貨のつまった袋を見やったが、一人旅に金はあって困るものではない。結局は荷物の中に押し込んだ。さてこれからどうしようか、乗合馬車は来ているのだろうか、と考えかけた矢先、ケグスが道の先を指す。
「お前、西に行きたいんだろ?」
「あ、うん」
「街道もう通れるらしいから、一緒に行こうぜ。おやっさんが先行って待ってる」
「え?」
「面倒見てやるって約束しただろ」
にやりと笑う男に、アージェは遥か昔のように思える昨日のことを思い出した。
確かに今回の仕事を引き受けるか受けないかという時に、彼から「道中揉め事に巻き込まれないよう面倒見てやってもいい」と条件を出されていたのだ。
それは世慣れていないアージェにとっては有難い話であったが、「おやっさん」ことダルトンの評判や力を見てしまうと、若干尻込みもしたくなる。しかし微妙な表情になってしまった彼を振り返りもせず、ケグスはどんどん先へと行ってしまった。
アージェは何とはなしにその後をついて、まだ人通りの多くない道を進んでいく。
少し砂塵の混じる風。温かみのないそれは砂岩の壁につきあたり、角を曲がり、街をゆっくりと洗い流していった。
新しい一日が始まる直前。白んでいく空を見上げて少年は茫洋とした思いに駆られる。
世界は何処まで広がっているのか、自分は何処まで歩んでいくのか、未完成な時を想像だけが走っていく。
そうしてやはり考えざるを得ない左手に目を落とした時、彼はふと視界の隅に立つ少女に気付いた。
少し離れた場所、細い路地の入り口に所在無く佇んでいる彼女。
アージェより少し年上に見える少女は、思わず視線を留めてしまうほど美しい顔立ちをしていた。
白砂よりも透き通る肌、淡い金色の髪、そして何よりも目立つ双眸は、目の錯覚か彼には赤紫色に見える。
淡い紫の長衣を羽織った少女は、まずその色からして周囲から浮き立っており、存在自体がまるでこの場に似つかわしくなかった。
にもかかわらず、道を行くまばらな人影は誰も彼女を見ようとはしない。彼女に気付いているのはアージェだけのようだ。
音のない時間。少女は、何故かじっと彼の方を見つめている。
たじろいでしまうほどの強い目線に少年はつい足を止め、自分の背後を振り返った。
だがそこには何もない。彼は怪訝に思って、もう一度少女の方を見ようとする。
「何してんだ、アージェ」
ぞんざいな声をかけてきたのは、先を行っていたケグスだ。
アージェは男の方を見やって、同時にいつのまにか少女がその場から消えていることに気付いた。慌てて周囲を見回すも何処にも彼女の姿は見えない。
「あれ?」
「どうした? 落し物か?」
「いや、今女の子が……」
「ん? いないぞ」
確かにケグスの言う通り、見渡す限り少女の姿はその痕跡さえ残っていない。
アージェは幻を見てしまったかのような気分に駆られて頭を振ると、結局何も掴まぬままその場を後にした。



乗合馬車が止まる広場には、ケグスの言ったとおり、ダルトンが既に待っていた。
アージェなどは自分が彼の息子だと偽ったことに後ろめたい思いを抱いていたものだが、ケグスからそれを聞いた彼本人は豪快に笑い飛ばしただけである。今もアージェの頭を軽く叩き、「よし、じゃあ行くか」と笑いながら馬車に乗り込んでいく男に、少年はいささか押されぎみになりながらもついていった。幌のかかった荷台部分には先客が既に三名座っている。
その中の一人、栗色の髪を一つに編んだ少女と目があって、アージェは軽く頭を下げた。
彼女はすぐに視線を逸らしたものの、大男であるダルトンが気になるのか、彼ら一行をちらちらと窺っている。
少年の隣に座ったケグスは、少女を一瞥して眉を顰めた。だがついと視線を逸らすと、腕組みをして大きく欠伸をする。
「アージェ、俺ちょっと寝るから」
「あ、うん」
言うが早いか寝息をたて始める男に少年は呆れた目を向けた。時間がきたのか馬車がゆっくりと動き出す。
ようやく戻ることの出来た本来の旅路。
何だか流れ流されしている気もするが、これで無事西に向かえることは確かだ。
アージェは安堵に似た、しかしそれよりも若干落ち着かない気分を抱くと、馬車の中から遠ざかる街に別れを告げたのである。