牙の先 018

禁転載

「雑な仕事すんなって話だよな」
ぼやく男の声に不安は混じっていない。だが少々の苛立ちは込められており、それがこの状況と無関係でないことは明らかだった。
生い茂る木々の下。薄暗い山の斜面を、アージェは危なげない足取りで上っていく。
急な坂となっている森の中には道などない。転がる岩や積もる落ち葉、草や枝に足を取られながら五人は先を急いだ。
先頭を行く少年は、振り返ってまだ追いついてこない連れの姿を探す。しかし最後尾のケグスが、その視線を軽く手で遮った。
「アージェ、前見て進め。おやっさんなら大丈夫だから」
「って言われても」
「平気平気。あれくらいじゃ死なねーって」
「そんな気もするけど。もう大分奥まで来たよ。これ、合流できるの?」
「……難しいかもな」
その可能性は考えなかったと、いわんばかりの男の声に一行は沈黙する。
しかしだからといって、こんな中途半端な場所で止まることは出来ない。アージェは何度も後を振り返りながら先へと進んでいった。
足場の悪いところにさしかかると、彼はすぐ後をついてくる少女の手を引いてやる。
「大丈夫?」
彼より二歳年上だという栗色の髪の少女リィアは、微笑んで頷いた。二人は湿った岩を乗り越え山の斜面を上がる。

そもそもこんな事態になってしまった発端は、街を出てしばらく、街道を進んでいた乗合馬車が野盗に襲われたことにある。
昨日までは部族間の戦闘が起こっていたという街道。
その戦闘は国の介入により中断させられたらしいのだが、死者の遺留品を狙って野盗の一団が付近を徘徊していたのだ。
死者の装備から歯の代わりに詰められた金属まで、執拗に漁っては奪い去っていくという彼らにとって、通りかかった乗合馬車は格好の獲物に見えたのだろう。まず二頭の馬が、続いて御者が射殺された。
そうしてアージェたちが事態に気付いた時には既に、馬車は五倍以上の人数の騎乗した野盗に囲まれ、どうしようもない窮地に陥っていたのである。
普通であれば皆殺しにされてしまうだろうそんな状況から、彼らが何とか脱し、今近くにあった山に逃げ込めているのも、ひとえにダルトンのおかげだ。
彼ともう一人の男が野盗たちを食い止めている間に、ケグスとアージェは動転する他の人間を庇ってひとまずその場を離れた。
アージェが先頭を歩いているのは、単に彼がこの中で一番森の中を歩くことに慣れていたからだ。
野盗が集まるような隙を残した軍に、ケグスは不満を洩らしながら、背後の様子を窺う。
「アージェ、どうだ? 見えたか?」
「見えない」
「まだかよ。本当に近いんだろうな」
「ほ、本当ですよ」
慌てて口を挟んできたのはケグスの前にいる男である。
西の街に帰る途中だというこの男は、馬車が包囲されてすぐ「近くの山中に小さな村があったはず」と言い出し、彼らはその言葉を信じて山中の村をとりあえずの集合場所に決めたのだ。大体の方角だけを指示され、道のない山を登っていくアージェは、少し傾斜が緩んだ場所にたどり着くと、振り返って少女の手を引いた。全員が足を止めるとその疲れ果てた様子を見て提案する。
「ちょっと休もうか? 俺が先行って見てくるよ」
「平気か、アージェ」
「すぐ戻る」
危なげない足取りでアージェは一行から離れると山の斜面を登っていった。木の幹や飛び出した根に手をかけ、手際よく森の中を進んでいく。
何度か振り返りもしてみたが、追っ手が現れる気配はない。アージェはそのままケグスたちが見えなくなるまで先へと急いだ。
十数分後、唐突に森がひらけ、小さな村が少年の前に現れる。
「これは……」
彼が育った村と大差ないささやかな集落。
その大体を見渡したアージェは表情を険しくすると、駆け足で元の場所へと戻った。
日はまだ高い。
だが木々に覆われた斜面は薄暗く、それは少年に十数年を過ごした村のことをいやがおうにも思い出させたのである。



木の幹によりかかって足を休めていたケグスは、戻ってきたアージェに「どうだった?」と首尾を問うた。
「村、あったよ」
「そうか。んじゃ行くか?」
「誰もいなかったけど」
「ん?」
言われた意味を掴みかねてケグスは眉を上げる。他の三人も皆怪訝そうな顔になった。
視線を集めた少年は、疲れた顔で首を左右に振る。
「誰もいない。行かない方がいいよ。何があったか分からないけど、多分……」
アージェはそこで言葉を濁した。振り返り、下ってきた山の斜面を仰ぎ見る。
はっきり語りたがらない様子とその表情に、ケグスは何かよくない知らせがあるのだと感じ取った。
「何だよ。言えよ」
「多分、あの村には……もう誰も生きた人間がいない」
「はあ?」
少年の苦虫を噛み潰したような顔に、全員の驚きが集中する。
だが、まるで正気を疑われているかのような空気を前にしてもアージェは自分の言葉を撤回しなかった。
はっきりと判断の理由を言わないながらも、確信を持った顔で彼は小さく溜息をつく。
そして少年はもう一度
「行かない方がいいよ」
と繰り返したのだ。



小さな山間の村は、細い道一本で街道と繋がっているだけであり、たまに商人が訪れるのみの目立ったところのない集落であったらしい。
乗合馬車でたまたま一緒になった男は昨年、知人の商人と連れ立ってその村を訪ねており、だからこそ存在を知っていたのだが、何度も街道を行き来しているダルトンやケグスは村のことを知らなかった。
アージェは「村には誰もいない」と主張したが、別れた仲間と待ち合わせをしている以上、行かないわけにもいかない。
彼らは再び山の斜面を上り、まもなく問題の村へと到着した。
よく晴れた天気だというのに誰も外に出ていない集落を一見して、ケグスは眉を上げる。彼は隣に立つアージェへ囁いた。
「建物の中まで見たのか?」
「見てない」
「じゃあ」
「見なくたって分かる」
「まあな」
人の気配がしない。
それは、職業上修羅場をもくぐりぬけてきたケグスには、薄々感じ取れることだ。
彼は空気中に異臭を嗅ぎ取ろうとしている自分に気付くと、嫌な顔になる。
「ともかく、ざっと中を見てくるぞ。おやっさんがすぐ来ればいいが、迷って夜にでもなったら面倒だからな」
「……迷うの?」
「聞くな」
まるでダルトンが死ぬ可能性よりも迷子になっている可能性の方が、遥かに高いとでも考えていそうなケグスの様子に、アージェは顔を引き攣らせた。
だが今はそこを突き詰めて知りたくはない。少年は疲れてへたりこんでしまっている少女を振り返ると「もうちょっと待ってて」と釘をさす。
リィアは何処か建物に入って休めないことを不満に思うのではないかと、アージェは心配したのだが、少女は素直に頷いた。
そして彼女が弱音を吐かなかったということは、残る二人の男にもいささか影響を与えたらしい。
村の存在を教えた男は言葉を飲み込んで彼女の隣に座った。もう一人の男は「私も行くよ」とアージェに並ぶ。
ケグスは腰に佩いた剣の柄を軽く手で叩いた。
「じゃあ二手に分かれてぐるっと回ってくるか。何かあったら一旦ここに戻ってくるってことで」
「分かった」
アージェはもう一人の男と共に、村の東側へ歩き出す。
彼が首だけで後ろを振り返ると、留守番組の少女と男が何やら会話を交わしているようであった。更にその向こうには一人で西側に向かうケグスが見える。
彼ら以外は動くものが見えない村の外れ。アージェは何度か左手を握ったり開いたりして感覚を確かめた。
「君は、傭兵見習いか何か?」
問うてきた男は、三十代後半といったところだろうか。アージェから見て父親よりも少し年下に感じられた。
そう言えば慌しくしていたせいでまだ男の名前も聞いていない。
一応武器は持ってはいるが、どうみても護身用でしかないらしい彼の短剣を、少年は一瞥した。男を見上げて首を横に振る。
「違う。あの人たちとは同行してるだけ」
「そうなのか。君くらいの年の子供でも傭兵はいるから、そうなのかと思った」
「俺、剣の使い方まだよく分からないんだ」
機会があれば身に着けたい気もするが、実際村を出てから五日、暇な時間などまったくなかった。
必要がないものならばなくてもいいのだろうが、子供の一人旅ということで揉め事に巻き込まれる可能性を考えれば、やはりもう少し何とかしたい。
アージェは近づいてきた最初の建物 ――倉庫か何かだろうか―― を前に長剣を抜く。
「お、おい、君。それは不味いんじゃ」
「誰かいたら謝るよ。でも、こうした方が多分いいんだ」
左手を覆う手袋。少年はそれを取り去ろうかどうか迷った。少しだけ、一人だったらよかったのにと思う。
だが今はそれを言う時ではないだろう。彼は結局手袋を外さぬまま左手を上げると、建物の扉に触れた。そこに漂っていた黒い靄がすっと薄れて消える。
アージェは緊張に唾を飲むと、しかしその扉を手前に引いた。窓のない倉庫の内部。異臭が二人の鼻をつく。



何故彼が、「村には誰もいない」と断じたのか。
それはケグスのように人の気配がないことを悟ったわけではない。それよりももっと確実なものが彼には見えていた。
村全体を覆う黒い霧―――― それが死と縁深いものであると、アージェはこの時既に薄々察していたのだから。