牙の先 019

禁転載

慎重に開かれた扉。その向こうからはすぐに、吐き気をもよおさせる強い異臭が堰を切って流れ出してきた。
男は「うわっ」と小さな叫び声を上げて跳び退る。アージェは声こそあげなかったものの、左手で鼻と口を押さえた。
この臭いに似たものは昨晩も嗅いだ。人が死んだ後の臭い―――― しかし昨晩のものよりも遥かに饐えて耐え難い異臭に、少年は扉を大きく開け放つ。そうして少しでも空気を入れ替え、中に光を入れようとするアージェの考えは、その半分は成功した。倉庫の内部は差し込む光条により僅かに照らし出される。
そしてそこに見えたものは、予想通りの光景であった。
折り重ねられた死体の山に、アージェは言いようのない嫌悪感を覚える。
「こ、これは」
「多分、村人……?」
アージェの言うとおり、それらの死体は服装からして村人のようであった。
中に入りたがらない男を置いて、アージェは一番手前に転がっている死体へと近づく。
年老いた女の死体は背中から深く斬り捨てられていた。血と傷の具合からして死んだのは数日前であろう。
胸の悪くなる死臭に少年は後ずさると、中に変わったものはないか、改めて見回す。背後から男の震える声が響いた。
「君は、平気なのか?」
「平気……かどうかは分からないけど、麻痺してるっていうか」
自分でもよく分からない心情に少年はかぶりを振る。
昨夜の屋敷でのことといい、それ以前の夜の森でのことといい、どうにも凄惨な光景に直面した為か、神経が鈍っている気がする。
ある点では非常に先鋭化しているそれは、しかしある点では磨耗して鈍化しており、今この場にあってアージェは比較的冷静に動くことが出来ていた。彼は倉庫中に立ち込めている黒い靄に眉を顰めると、外へ出て扉を閉める。ついて来た男が呆然と呟いた。
「野盗に襲われていたのか……」
「そうみたい」
人の手によって殺されていたらしき彼らの死体は、目ぼしい装飾品が剥ぎ取られているようだった。
昼間乗り合い馬車を襲ってきた者たちと同じか否か、だがこの村が何者かによって襲われたことは間違いない。
そうして狭い倉庫に尊厳なく積まれた死体の山は、彼らをきちんと埋葬出来る人手が残っていないことを意味しているのだろう。アージェは黙ってかぶりを振った。
「とにかく他の場所も見て、ケグスと合流しよう」
アージェが歩き出すと、男も何度か倉庫を振り返りながらついて来る。
その気配を窺いながら少年は、じくりと左手が痛んだ気がして眉を顰めた。



「結局全滅か、お前の予想した通りだったな」
厨房に立つ少年と少女、そのうちの少年の背に向けて、椅子に座ったケグスは乾いた声をかける。アージェは黙って頷いた。
彼らがいるのは比較的大きい民家の一つである。
一通り歩き回り、どうやら生存者がいないらしいと分かった彼らは、死体が放置されていなかった一軒を借りてとりあえずの休息を取ることにしたのだ。
荒らされていた室内を必要な分だけ片付け、年若い二人が食事を作る傍ら、男たち三人は食卓のテーブルにつきそれぞれの表情で思案に暮れている。
もっとも憂いた顔をしているのは二人だけで、ケグスは煩わしげではあったものの平然とした態度であった。
彼にとってはこの惨状でさえ驚くにあたらないことであるのだろう。家の中にあった安酒を勝手に煽る。
「とりあえず一晩ここでおやっさんを待ってみる。来なかったら俺が道を下って街道に出てみる」
「危なくない?」
「分からんから足手まといはここで待ってろ。連絡がついたら警備兵が迎えに来るはずだ」
「そんな……」
予定があるらしい男の一人は顔を上げ呻いたが、さすがにケグスと一緒に野盗がいるかもしれぬ街道へ戻ってみる勇気はないらしい。大きな溜息をつくと再び項垂れる。
椅子の背によりかかったケグスは背後の年少組を見やった。
「ってわけで、おやっさんが迷子になってたらお前ら二人は俺と来いよ」
「え?」
きょとんとして聞き返したのは少女のリィアである。
「足手まといは待っていろ」といったばかりであるのに何故彼女を連れて行こうとするのか、鍋でスープを作っているアージェは怪訝に思ったが、ケグスは「分かってるだろ」と言っただけだった。
それきりリィアも反論しようとしないのだから、彼女は理由が語られなくとも納得したのだろう。
アージェは自分の荷物の中から持ってきた小瓶を開けた。中身をスープの中に注いでいく。
鼻をくすぐるよい香りに少年は満足感を覚えた。
だが直後、隣から悲鳴じみた声があがる。
「な、何入れてるの!?」
「何って。調味料」
「うおっ! アージェ、お前、あの激辛調味料入れやがったな! 何考えてるんだ!」
「あれ美味しかったよ。大丈夫、ちゃんと味見するし」
「お前だけが平気なんだよ! 周りのことを考えろ!」
「いや、平気だってば」
「香りだけで涙が出そう……」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ三人に、大人の男二人は疲れた視線を注ぐ。
次第に暗くなっていく空。一つだけ明かりが灯る家はその時、まだ平和の中にあるように見えていた。



ダルトンは日が落ちた後も村には現れなかった。
一晩民家にて夜を明かすという決定に難色を示したのはアージェだけで、後は皆不満と不安を表しながらも仕方がないと割り切ったようである。
窓から外を睨んだまま動かない少年に、ケグスは防寒用の布を投げた。
「何だ? 野盗が戻ってくると思ってるのか? ここを根城にしてるって形跡はないぞ」
「そうじゃなくて……」
言いよどんだアージェは左手を見る。今は手袋に包まれているその手は、自然と彼に故郷の村でのことを思い出させた。
あの時のことを彷彿とさせる黒い靄が漂う村に、アージェは険しくなる目を伏せる。
「何かよくない気がするんだ。この村で夜を迎えるのが……」
「お前、幽霊を信じてるクチか? そんなものは存在しないぞ。
 人は死んだら魂が四散するからな。元の姿も人格も何も残りゃしない」
「何も……」
―――― 何も残らない。
記憶の中で「彼女」の声が弾ける。
ケグスの言うことが本当であるのなら、そして「彼女」の囁きが本当ならば、あの夜アージェが最後に会った黒い影は何だったのだろう。
あれが失われた母であった方が嬉しいのか否か、自分でも分からない。
自然と俯く少年に、ケグスは一段声を低くする。
「ただ外には出るな。これは真面目な話だぞ」
「……何で? 野盗?」
「違う。野犬だ。俺が見た死体のうち、死後野犬に食い荒らされたっぽいものがいくつかあった。
 どうも跡を見ると家の中から野犬に引きずり出されたみたいだ」
「分かった。気をつける」
「ああ」
アージェが頷くとケグスは欠伸をしながら窓辺を離れた。
男は腰の道具袋に手を差し入れ―――― だが眉を寄せると何も取り出さずにその手を戻す。
そうして彼は面倒くさそうに頭を掻くと、仮眠を取る為に別の部屋へと出て行った。



完全に日が落ちてしまうと、月の翳る外は真の闇となった。
厚布にくるまり壁に背を預けたアージェは、長剣を抱えたまま部屋の窓を見上げる。
同じ部屋には男が一人、床に転がって既に安らかな寝息を立てている。
もう一人の男は「一人でないと落ち着かない」と別の部屋におり、リィアもまた一人で寝室で眠っているはずだった。
ケグスは起きて一応見張りをしている。数時間後にはアージェと変わる予定で、だからこそ今は彼も寝ておくべきであった。
だが少年は言いようのない落ち着かなさに駆られて、なかなか睡魔の差し伸べる手を取れないでいる。
あの黒い靄の正体が何であるのか、はっきりとしたところはまだ分からない。
だがそれはやはり「死」と関係が深いものなのだ。
昨晩の屋敷で見た靄は、まるで血臭と同様に死体のあった部屋から漏れ出し、凶器にも同じくまとわりついていた。
そして今日、村中を覆っていた靄もまた、死と関連して漂っているのだろう。
これだけの死体があるにしては靄が薄く感じられるのは、日数が経っているからなのかもしれない。
「死の……臭い? それに似たもの?」
首を傾げても答はでない。
『それならば村の隣にあった禁忌の森には、何故あんなものたちが存在していたのか』
その疑問が結局最後に引っかかってしまうのだ。
アージェは諦めて眠ろうと目を閉じた。けれどその時、記憶の奥深くで女の声が甦る。

『怪我でもして歩けないってこともあるでしょう。最近また強盗団があちこちの村を襲っているらしいのよ』

「あれは……母さんが確か……」
母親が森に入る前日に口にした言葉。
それは、「森の周辺で多くの人死にが出ていた」ということを意味するのではないか。
人の死。森。そして黒い影。アージェは破片から仮説を組み上げようと思考をめぐらせた―――― だがその時。
別の部屋から硝子の割れる音が聞こえた。男の叫び声が後に続く。
少年は素早く剣を手に立ち上がった。部屋を出て、声をした方へと向かう。
さして広い家ではない。彼はすぐその場へ行き当たった。
短い廊下の只中、へたりこんだ男の前に大きな影が見える。
四つ足で漆黒の獣。それは、野犬というにはあまりにも――――
「でか……ほんとに犬?」
「ありゃ、魔物っぽいな」
いつの間にか後に来ていたケグスがぼやく。既に剣を抜いた男は少しだけ困ったように牛ほどもある黒い犬を見据えた。
犬の前でへたりこんでいる男は言葉にならぬ悲鳴を上げる。
困惑が場に立ちこめたのは一瞬だ。
男の悲鳴に刺激されたか、犬は音もなく男めがけて飛び掛った。漆黒の巨体の中、牙だけが薄白く光る。
しかしその時には既にケグスも駆け出していた。彼は男に食らいつこうとする顎に向かって剣を突き出す。
だが黒犬もその剣に頭を貫かれるような愚は犯さない。空中で方向を変えると俊敏な動作で飛び退いた。
一瞬のことに唖然とする男を、ケグスは軽く蹴る。
「ほら、下がってろ」
慌てて廊下を這いずる男。低い唸り声を上げる黒い巨体。その前に立ちふさがるケグス。
非現実的な光景に、だがアージェは別の戦慄を覚えてこめかみを押さえた。
漆黒の大きな獣。その全身には輪郭が曖昧になるほどに濃く、黒い靄がかかっていたのである。