牙の先 020

禁転載

黒い犬はケグスに向かって牙を剥く。
男を軽く上回る巨体は、圧し掛かられればただではすまないだろう。ケグスの背はいくらか緊張しているようにも見えた。
アージェはどうするべきか迷いながらも剣を抜く。
だが少年がそうして前に出ようとした時、男は犬を見据えたまま固い声を上げた。
「アージェ、あの女呼んで来い」
「え?」
「あの女だ、あの女。一緒にここに来ただろ」
「リィアのこと?」
一瞬、左手の「彼女」のことかと思ってぎょっとしたアージェは、しかしそれが今日会ったばかりの少女を指しているのだと分かって気を抜きかけた。だがすぐにそんな場合ではないと我に返る。
「分かった」
危険な場に少女を連れて来いという男の意図は分からないが、今はその理由を問うてはいられなそうである。
アージェは犬に対峙したままのケグスを横目で見ながら走り出した。床にへたりこんでいた男も慌ててその場を離れる。

短い廊下の最初の角を曲がった時、アージェはそこでちょうどやって来ていたリィアとぶつかりそうになった。
今まで眠っていたのだろう少女は編んでいた髪をほどいており、昼間よりも少し大人びて見える。
彼女は首を傾げてアージェを見やった。
「どうしたの? さっきの声何?」
「それが、犬の魔物が来て……」
「え?」
薄青の瞳が軽く見開かれる。
その時、また何かの割れる大きな音が廊下に響いた。二人は顔を見合わせ、走り出す。
もしかしてケグスが怪我でもしてしまったのだろうか。
アージェはそう心配したのだが、急いで戻ったところ剣を構えた男はまだ無事であるようだった。
ただ代わりに何があったのか、窓がもう一枚すっかり硝子を砕かれてしまっている。
油断を許さぬ状況で魔物と相対している男は、二人が戻ってきたことに気付くと緊迫した声を上げた。
「おい女、俺が食い止めてる間に何とかしろ」
「え……」
「しらばっくれてる場合かよ。早くしろ!」
武装した男よりも襲いやすいと思ったのか、獣がその目をアージェとリィアに向ける。
しかしその瞬間を見逃さず、ケグスは大きく踏み込んだ。
黒い毛に覆われた額。そこを狙って振るわれた刃は、だがまるで鉄の塊にでも振り下ろしたように耳障りな金属音を立て弾かれる。男の舌打ちがそれに続いた。ケグスは間をおかず反撃の爪を避けて跳び下がる。
―――― もう一つの舌打ちは、アージェのすぐ隣から聞こえた。
驚いて横を見ると苦い表情のリィアが手を上げている。不釣合いなほど綺麗に整えられた爪先が黒い獣を指した。
「構えろ。撃て。展開を得し礫よ」
それまでの柔らかい声音とはまったく異なる、細剣のような鋭さ。
彼女の紡いだ言葉が力を行使する為のものであったとアージェが理解したのは、リィアの指先に銀色の球体が現れた時のことだ。薄白く光る宝石のような球が五つ、何もない空中に静止している。
少年の視線がその球に集中していたのは、一秒にも満たない刹那だった。
小さな球は暗い空中に軌跡を描いて飛ぶ。そしてそのまま獣の額へと同時に着弾した。
肉の爆ぜる音。獣が苦痛の彷徨を上げる。
初めて見る明確なそれに、アージェは唖然となった。
「……攻撃魔法?」
「そそ。その女、魔法士だ」
「うっさいな。黙ってて」
「…………」
腹立たしげな反論に少年はただ口を噤んだ。
だがそれはリィアの言うことを聞いたというより、彼女の本性に唖然となってしまっただけである。
ケグスの方は平然と彼女の威嚇に「出し惜しみするな」と返しており、この変化にまったく動じていない。
アージェは驚きを飲み込むと少女の方に問いかける。
「知り合いだった?」
「違うわよ。あっちもちょっとだけ魔力があるから分かったんでしょ」
「そういうこと」
傷を負ったせいか激しく頭を振る犬の額を狙って、ケグスは剣を振ろうとする。
だが相手もすんでのところでそれに気付き、男の剣に向かって顎を開いた。
ケグスが咄嗟に剣を引きかけた時、開かれた口の中に炎の矢が突き刺さる。
「ほら、援護してやるからさっさと追い出しなさいよ」
言いながらリィアが放つ魔法は、一つ一つは小さなものであったが、剣の刃よりも確実に相手に傷を負わせているようであった。
礫が、そして火の飛沫の雨が徐々に黒い巨体を窓の方へ押しやっていく。
しかしそれで黒い犬が怯んでいるようには一向に見えない。
むしろいきり立つように激しい咆哮を上げる獣に、リィアもケグスも僅かに蒼ざめた。
機を見計らう男に少女は厳しい声を上げる。
「早くなさいよ!」
「うっせ、刃が通らないんだよ!」
それはこの場にいた全員が見ていたことである。
どういう外皮であるのか、黒い犬の体毛は刃を弾くのだ。
その為ケグスは魔法によって穿たれた穴を狙おうとしているのだが、数あるとはいえあまりにも小さな的に、彼は自然と暴れ狂う獣の爪を避け、防戦一方に回らされていた。
乱暴に己の胴を薙ごうとした腕を、一歩下がってかわしたケグスは、黒い血が流れ出している上腕部を狙って最短の動作で斬り付ける。
寸分違わず傷の上からめり込んだ刃。
だがそれは獣の怒りを増させただけで、それ以上の効果は見られなかった。
反撃が来る前に男は再び間合いを取り直すと、放たれる魔法に目を細める。

決め手がないまま、しかし攻撃の数を重ねて何とか獣を追い出そうと奮闘する二人を、アージェは一歩引いた場所から見ていた。
彼の視線は魔法攻撃を受けて揺らぐ犬の輪郭に集中している。
―――― 迷っている時間はない。
今のところ二人とも間断ない攻勢で獣の動きを封じているが、いつそれが決壊してしまうかは分からないのだ。
そうなってしまってから動くのでは遅すぎる。少年は決断すると剣を持った右手の指先を、左手の手袋にかけた。
(何をするの)
突然の声。
しん、と背筋を冷やされる声に、アージェは思わず指を止める。
一瞬の間をおいて、彼は自分にしか聞こえぬ声に小声で返した。
「あの犬を、消す」
(まさか直接さわろうなんて、思ってないわよね)
「いけるはず。ケグスもリィアもいるし」
(あれは、実体があるわ。あなたがさわっても、消えない)
「え?」
思っても見なかった返答にアージェは虚を突かれた。
黒い靄に覆われた体は、あの夜の森で遭ったものたちと同種の存在であるように見える。
だがそこには明確な違いがあるというのか。アージェは左手の拳を握った。
「実体があるって何だ。あの靄は違うものなのか?」
(おなじ。でも、あれは元の体がある。それが侵されて変質しただけよ)
「元の体」
(たぶん、野犬か何かね)
その真実を咀嚼して、アージェはぞっとするものを覚えた。
―――― 闇が、生き物を侵食する。そして違うものに変えてしまう。
それは一歩間違えれば自分もそうなってしまうのではないかという恐怖を彼に与えたのだ。アージェは左手に目を落とす。
(だいじょうぶ。人は、変質しない)
「……本当か?」
(知性が、あるから。精神がくるうだけ)
「十分駄目だろ」
(あなたはくるわない)
間髪おかず返って来た言葉に少年は沈黙した。
ただ強いだけの断言。それが確信に基づいていると思えるほど、アージェは「彼女」を信用していない。
そもそもこの旅は「彼女」を殺ぎ落とすためのものなのだ。

暗い。
夜の森。
腹を破られた亡骸。
眠っているような母の死に顔。

刹那湧き上がる激情。
取り戻すことの出来ない記憶に、少年は音が鳴りそうなほど奥歯を噛み締めた。
そうして…………だがアージェは全ての感情を今は脇に置くと、一息で手袋を取り去る。
黒く染まった指先を咆哮する獣へと向けた。
「だったらあれを縛るまでだ」
実体が靄を纏っているというのなら、それは殺人者の振るっていた凶器と同じだ。
ならばせめて身動きが取れないように糸を繋いで拘束する。
アージェは昨晩を思い出して意識を集中すると、指先から黒い糸を生み出した。
ケグスもリィアも、まだ彼の動きには気付いていない。気付いても何をしているかきっと分からないだろう。
太い前足を壁にめり込ませる獣に向かって、アージェはその糸を投げかけた。
一抹の不安はあったものの、五本の糸は無事、黒い犬の右肩へと連結する。
それに気付いたのか大きな顎が彼の方を向いた。
剣を握る右手が強張ったのは気のせいではない。
果たしてこの巨体と力比べが出来るのか、アージェは緊張しながらも左手を軽く引いた。ケグスが眉を寄せて振り返る。
「アージェ、お前」
「後で説明する」
少年の左手は明らかに異質である。
それは見る者に嫌悪と恐怖を呼び起こしてやまない。アージェは村の人間たちが彼にどんな目を向けたかよく覚えている。
しかし今重要なことは、目の前の魔物を追い払うことであろう。
少年は自分へと狙いを変えた獣を前に剣を握りなおした。
左手に注意を払いすぎてはいけない。だが、左手を上手く使わねば優位には立てない。
アージェは長剣の剣先を相手の眉間を狙うように上げる。
(アージェ)
女の声はその時、幾許か焦っているようにも聞こえた。
しかしそれを黙殺する少年に、「彼女」は重ねて彼の名を呼ぶ。
(アージェ、何をするつもりなの)
「お前は黙ってろ」
(力くらべは、やめなさい。殺されるわ)
アージェは答えない。リィアが怪訝そうな目で彼の顔と左手を見た。
まるで飛びかかる準備のように黒い獣が前傾姿勢を取る。
降り注ぐ火の飛沫を無視してアージェだけを見据える蒼白い両眼に、少年は息を飲んだ。
逃げ出したいささやかな衝動を押し込めると、彼は覚悟を決める。
しかしその時、再度「彼女」の慌てた声が頭の中で響いた。
(待ちなさい。糸の、ちゃんとしたつかいかたを、おしえるから)
「―――― は?」
素っ頓狂な声に、三人の人間はそれぞれ目を丸くする。
中でもアージェは気を挫かれて脱力しそうになると、思わず口の中で「そんなのあったのか……」と呟いた。