牙の先 021

禁転載

指先から獣の右肩へと繋がれた糸は、少年の精神に影響されてかさざなみだった。
アージェは舌打ちしたくなったのを堪えると、小声で姿のない女に返す。
「早く言えよ」
(言おうとしたわ。昨晩。でもあなた、今考えてるっていうから)
「…………」
そう言われてみると、確かに彼女の言を遮っていたかもしれない。
だがそこで引き下がられたきりでは、正しい使い方の存在自体知らないままであろう。
アージェは苦虫を噛み潰したような顔で「分かった」と呟いた。女が少しだけ困惑する気配が伝わってくる。
(いい? 糸には、おもに二つのつかいみちがあるの)
「二つ?」
(操作、か、吸収か)
やけに滑らかな発音で呈されたそれらの単語は、アージェに一瞬底知れぬ何かを思わせた。
まるですぐ背後に影で出来た女が立っているような錯覚。
思わず振り返りたくなった少年は、しかしその衝動を押し込む。
正面から彼を見据えてくる巨体は、魔法の雨を全身に受けながらもただアージェだけを睨んでいた。
もしかしたら黒い犬にはアージェの操る糸が見えているのかもしれない。濁った黄色の瞳が、空中を漂うそれを追うかのように動く。
「……操作って?」
(つないだ相手を、繰る。糸が人形を繰るように)
「難しそうだな」
(しはいする意思が、だいじよ。どこまで操れるかもみんな、あなたの意思がきめる)
「吸収は?」
(糸をつうじて、すいとる。でもやりすぎないで)
「…………」
何を吸い取るのかは聞かずとも分かる。彼の左手はそれによって黒く染まっているのだ。
そしてこれはやはり「やりすぎては不味い」ことなのだろう。
アージェは決断すると再び意識を集中させた。リィアの訝む目が突き刺さる。
「君さ」
「ごめん、ちょっと待って。やってみるから」
頼りなくも不吉な黒い糸。五本のそれにアージェは意識を集中させる。
―――― 本音を言うのなら、もっと分かりやすい試みの方が好きだ。
このように意思が全てを言うような曖昧なものよりも、全力で走り剣を振るう戦い方の方がずっとすっきりする。
だが、この場合贅沢は言っていられないだろう。第一彼の剣の腕は、ケグスに遠く及ばないのだ。
アージェは怯むことなく獣の双眸を見返し、心の中で呟く。
(屈せよ、と)



宙を跳ぶ巨体は、真っ直ぐにアージェへと向かった。
本来ならば少年には反応しきれなかったであろう速度。恐るべき俊敏さで獣は飛びかかってくる。
その初撃を何とか避けることが出来たのは、ケグスとリィアがそれぞれ黒い犬の動きを妨げようとした為だ。
だが繰り出された剣も魔法の弾幕も一蹴し、獣はアージェの前へと降り立った。太い爪を持つ豪腕を跳び下がった少年へと繰り出す。
「……っ!」
アージェは咄嗟に姿勢を低くした。その頭上を、黒い左腕が薙いでいく。
もしそれが直撃していたなら少年の頭は無残に潰され血と肉の塊に成り果てていただろう。
彼は思わずぞっとしたが、しかしそこで硬直してしまったりはしなかった。左手の糸を思い切り引く。
牛ほどの大きさの犬が、たった五本の糸によって態勢を崩したのは、ちょうどアージェを殴ろうと片腕を上げていた為だ。
僅かに揺らいだ体。獣の背後にいたケグスはその間を見逃さず、後ろ足を思い切り蹴り上げる。
上手く重心を動かしたのか、傾きかける体をリィアの魔法が追い打った。
黒い犬の体は耐え切れず、ついに壁にぶつかり横転する。低い唸り声が獣の口から洩れた。
「アージェ、何やってんだ!」
「ちょっと待ってって!」
今はまだちゃんと試みる間もなく襲われてしまったのだ。
アージェは肩で息を吐くと再び糸に向けて念じる。
ケグスの舌打ち、リィアの詠唱、犬の唸り声、全てがすっと表層から遠ざかった。
ただ一つの繋がりだけが彼の中で浮き立つ。
それは、まるで光の差さぬ夜の森を縫って伸びる小道のようだ。
いや、道とも言えぬ細い線。その上を彼はけれど、確信を持って走っていく。
送り込む意思。
手探りながらも夢中で伸ばされたそれは、永遠とも思える刹那を経て黒の獣へと到達した。
頭の中で闇の飛沫が跳ねる。
どうすればいいか、分かっていたわけではない。
どうしてやろうと、思っていたわけでもない。
ただアージェは対象を縛り上げるように、己の意識を縒って集中させた。
たどり着いた先端は黒い獣の中へと侵入を始める。
(気をつよく、もちなさい)
獣は起き上がろうともがいている。
だがケグスとリィアはそれを許すまいと、間断ない攻撃を続けていた。
アージェは細い糸を辿って更に奥へと踏み込む。女の声が乾いて響いた。
(なれるまでは、おもいわ)
闇の中の空白。
その波は、「彼女」の声と同時にやって来た。
繋がる糸を意識が逆流する。
それは思惟とも言えぬ激しい感情の塊で―――― つまるところただの負であった。
どす黒い怒りや憎悪、そして敵意が直接アージェの中へとぶつけられる。
予期していなかった、あまりにも強烈な反発に少年は一歩後ろへ揺らいだ。
集中が途切れる。吐き気がこみ上げてくる。
そうして侵入を放棄しかけた彼の頭の中に、だが女の叱咤が響いた。
(ふみとどまりなさい!)
「くそ……っ!」
分かりやすい努力の方が好きだというのに、何故こんなことをしているのだろう。
そんな苦さが脳裏をよぎったが、アージェは自らの精神を奮い立たせた。
圧し掛かる重い敵意や憎悪を押しのけ、糸の入り込む奥へと己の意識を引き戻す。
頭が割れるほど痛い。腹の中に鉄の塊でも座しているかのようだ。
だがそれは、乗り越えられるものでしかないだろう。「彼女」は「慣れる」と言ったのだ。
意思を叩きつける。そうされたように返す。そして屈服を命じる。
表に表れない数秒の攻防は、けれどアージェにはまるで何十分にも長く感じられた。
怒りに溢れる黄色の瞳が少年を見返す。
黒い血を流す腕。獣は不意に、斬りかかるケグスを振り払った。
男は咄嗟に剣の平でその爪を受ける。しかしその勢いを止めることは出来ず、彼は廊下の壁に背中から叩きつけられた。
生まれた隙に黒い犬は跳ね起きる。そして再びアージェへと狙いを定めた。リィアの詠唱が響く。
「下がんなさい!」
叫びながら彼女が何をしたのか、アージェには見えなかった。
ただ黒い体が痺れたかのように震え―――― だがそれを跳ね除けるように犬はアージェへと跳躍する。
眼前に迫る牙、闇へと繋がる顎を少年はすんでのところで左へとかわした。態勢を崩したたらを踏む。

気を抜けば精神は鈍重へと落ちてしまう。
だがそれを許してはいけないのだ。アージェは糸を、その先を、支配しようと意志を叩き込む。
そうして鋭く突き刺すように相手の底へと侵入した少年は……だがそこで、ふと目を瞠った。
向きを変えようとしている獣を、彼は呆然と見つめる。
「……何だそれ」
ぽつりと呟く言葉。
この場にはあまりにも不釣合いなそれは、しかしアージェの偽らざる本音であった。
彼はかぶりを振ると、伸ばしていた意識を自ら引き戻す。
そして同時に―――― 黒い靄をも己の中へと吸い上げ始めたのだった。






随分長い間、馬車に乗っていた。
そうして連れてこられたこの村で、彼は一軒の家に買われたのだ。
小さな男の子がいる家。つつましくも温かな家庭において、彼は家族の一員として暮らし始めた。
友である男の子と寝食を共にし、守りあって支えあって生きる一時。何よりも平和で幸福な時間を彼は過ごしていた。
その終わりはけれど、村人たちが次々捕らえられ、斬り捨てられる凄惨な景色で終わる。
彼が彼として最後に見たものは、血溜まりに沈む友人の亡骸だった。
自分を抱いて逃げようとし、そして逃げ切れなかった子供の最期。
彼は己の白い毛を血に染めながら男の子の濡れた頬を舐め、そして全てを嘆いた。






「飼い犬だったんだ……」
リィアは元の大きさに戻った犬を見下ろして呟く。
廊下の上に横たわっている灰色の犬。
それはこの辺りでは珍しくもない種類の犬で、主人がいると示す証拠に首の後ろの毛が刈り取られていた。
黒い巨体からほとんどの靄を吸い上げたアージェは、肩で息をつくと廊下の壁によりかかる。
「記憶とか意識とか、奥には残ってた。飼い主が死んじゃって悲しくて、怒って、当り散らしてた」
曝け出された事実の断片に、リィアは溜息を一つつくと目を伏せた。
「結構……って言うほど頻繁じゃないけど、あるのよこういうこと。
 瘴気が溜まってる場に生える植物が変質したり、動物が多量に取り込んで異形化したり。
 そのまま死んじゃう場合がほとんどなんだけど、たまに適応して姿が変わるものもいてね。
 下級魔物の半分くらいはそうやって生じるの」
魔法士の少女の解説に、アージェは内心で納得の声を上げた。実際にはひどいだるさに上手く返事が出来なかったのだ。
上腕の半ばまで黒く染まった左腕を、少年は押さえる。
闇を吸い上げる度に変色する範囲も広がる―――― それは、この行為に明確な上限が存在しているということだ。
彼は元の手袋では隠しきれなくなってしまった肌を苦々しく見やった。
剣を抜いたままのケグスが、倒れた犬を覗き込む。
「で、これは殺していいのか?」
「分からない」
さして大きくもない犬は、まだ息をしている。怪我はないのだ。ただアージェに靄を抜かれて気絶しているだけで。
少年は右手で前髪をかき上げると大きく息をついた。
「全部は抜けなかったんだ。全部抜いたら死んじゃうんじゃないかって気がした。
 だから最小限は残したんだけど」
「何だ。じゃあお前、これを生かしときたいのか」
「そう……なのかな」
明確な意図はなかった。
ただ獣を支配しようとその底に触れた時、彼は飼い犬であった「彼」の記憶と感情に触れ―――― それを己と重ねてしまったのだ。
焼け付くような無念と焦燥。激しい後悔と嘆きを忘れることは、彼もまたきっと出来ない。
そして決定的な事件によって行く道が曲げられたのは、自分もこの犬も同じであろう。
アージェは獣の閉じられた両瞼を見つめる。
「で、助かった、と言いたいところなんだが、それだけじゃなくてな、アージェ」
頭をかくケグスと、腕組みをしたリィアの視線が少年に集中する。
アージェは苦いものを嚥下しつつ、顔を上げ彼らを見返した。隠されていない左手で拳を作る。
「説明するよ。この手のこと」
―――― そして自分にしか見えぬものについても。

少年は緑の瞳を閉じる。
そして抗えぬ体の重さに腕を下ろすと、アージェは「疲れた」と呟いた。