牙の先 022

禁転載

気絶した犬は念の為敷物で顔だけ出してぐるぐる巻きにされた。
そうして厨房の隅に転がされた敷物を横目に、淹れられたお茶を口にしながら三人は顔を見合わせる。
口火を切ることを求められているのはやはりアージェで、少年は温められた息を吐くと、左腕をテーブルに乗せた。
「ちょっと長い話に、なる」
「ああ」
何処から話せばいいのか。何処まで話せばいいのか。
アージェは伏せた目の奥に真意を隠すと、ぽつぽつと己の過去を語り始めた。

赤子の頃捨てられたこと。
拾われた村には隣に禁忌の森があったこと。
母親の死。
そして三年後の夜のこと。

一連の話において彼が曖昧なままにしておいたのは「彼女」のことだけだ。
それは説明しようとしても上手く説明出来ない、彼自身にも不明な要素である。
母の仇であり、今自分の内にいる女。
アージェは彼女のことを単に「闇を取り込みすぎてから声が聞こえるようになった」と説明した。
全てを聞き終わったケグスは苦い顔で頬杖をつき、お茶を飲み終わったリィアは顔を斜めにしてアージェを見やる。
「その闇って瘴気……なのかな。瘴気なら見える魔法士はいるのよね」
「本当?」
「うん。ある程度は強くないと無理だけど。もしくは瘴気が濃すぎれば、普通の魔法士にも見える」
リィアはそこで、必要と思ったのかより詳細な説明を挟んだ。
「そもそも瘴気ってのは、下の方に淀んだ悪い気……って言ったらいいのかな。
 ともかくね、世界は多重の階層構造になってて、私たちが住むこの世界より下にも色々あるの。
 で、最下層がいわゆる『負』そのもの。瘴気はどちらかっていうとそっちと関係深いのね。だから『沈殿する』」
分かるような分からないような説明。
アージェは目を丸くしながらもついていこうと、必死に言われたことを咀嚼したが、ケグスは知っているのか興味がないのか欠伸を一つしただけだった。リィアは空のカップの底に残る茶葉を見ながら続ける。
「瘴気が発生する原因は主に二つ。一つは『下層との境界が薄まったり、穴があいて湧き出す』こと。
 もう一つは『多くの死、怨嗟、流血の集中』―――― この村は後者ね。でも後者は時と共に薄まるわ」
「じゃああの黒い靄は瘴気なのか」
少年の問いに、リィアは即答しなかった。眉を顰めて天井を見上げる。
「……その可能性が高い、とは思うわ。っていうか他に考えられない。
 でもね、ちょっと引っかかるんだけど――――
 普通ただの瘴気ってのは形を取ったり自分で動き出したりしないのよ」
「動かない?」
「うん。この犬みたいに実体があるなら違うけど、瘴気が人型になって人を襲うとかありえない。
 そんなことがあったらあちこちで大変よ。この大陸人死に多いんだし。
 瘴気だけで魔物を形成するってのは魔法で、しかも結構条件が厳しいのよ。
 なのに三年の間をあけて二度もそれが起こるって、ちょっと普通じゃないね。ま、私見だけど?」
リィアはそこで唐突に立ち上がると、「そろそろ眠いし寝る」と言って部屋を出て行った。
残されたケグスとアージェはそれぞれ沈黙する。
姿のない女は何も語らない。今の話が聞こえていないわけではないだろうに、彼女は何も話そうとはしなかった。
少年は漆黒の指を握る。
あまりにも何も知らない。
だから彼は、この特異がどれほど特異なのかも分からないでいるのだ。
ましてやそれが大きな何かの一部などとは疑ってもみない。ただほんの少し先だけを見て歩いていく。



「アージェ」
名を呼ばれて少年は顔を上げた。ケグスはいつもと同じ、どこかしら熱さない目で彼を見ている。
「実はその左手、昨日からちょっと気になってた。から聞いて納得した」
「うん」
「ただお前、あんまり昨日今日会った人間を信用するなよ」
「へ」
身も蓋もない忠告に少年が目を丸くする間に、男は懐から酒瓶を取り出した。口をつけて飲み始める。
それ以上何も言を重ねようとはしないケグスは、酒を煽りながらしばらく天井を見つめていた。
だが、やがて感情を見せぬまま息をつくと、男は黙って厨房を立ち去ったのである。



アージェは部屋の隅を見やる。
そこにいるのは灰色の犬。もとの白い毛並みは取り戻せない、変わってしまった生き物だ。
少年は夜の静寂の中、過去のことを思う。
放り投げられた断片に、何の正解も見えない未来のことを考えながら。






暗い廊下に出たケグスは、廊下の曲がり角を前に足を止めた。腰の剣に手を伸ばす。
「そこにいるのは分かってるぞ」
低い声に応えて姿を現したのは、先に寝ると言っていた少女だ。リィアは冷笑を浮かべてケグスを見上げた。
「少し聞きたいことがあるんだけど」
「何だ? 例の義賊の正体がお前ってこととか?」
「―――― やっぱり分かってたか」
「魔法具の結界越えてきた奴と気配が同じだったからな」
言いながらケグスは昨晩のことを思い出す。
屋敷の中を見て回りながら、外の回廊に点々と置いておいた石の結界。
それは彼が「問題の盗賊は転移魔法が使える魔法士ではないか」と疑って用意してきたものだった。
件の義賊は、いつの間にか侵入し、逃げ道もないのに逃げ出している。
それが指し示すもっとも高い可能性は、「上級魔法である空間転移を使える人間が犯人だ」ということだろう。
だが転移魔法の使える魔法士はこの大陸では稀少であり、僅かに存在する彼らのうちほとんどは宮仕えをしている。
盗賊などせずとも十分な暮らしが出来る人種―――― だからこそ今まで転移を疑う人間もいなかったのだろうが、ケグスはあえて対魔法士に焦点をあて準備してきていた。
正体を見破られた少女は、大人びた笑みを見せる。
「で? 警備兵にでもつきだす?」
「まさか。仕事はもう終わった。報酬も充分貰ったからな。もうどうでもいいさ。
 ただお前は、何で俺たちの前に現れたんだ?」
鋭い声はまるで剣の切っ先のようである。
正面からそれを突きつけられたリィアは、しかし顔色一つ変えず鼻で笑った。
「魔法具で探知結界を張るなんて小細工してた人間の顔が見たかっただけ。
 でもちょっと面白い人材に会えて得しちゃったかもね。魔力がないのに、瘴気が見えるなんて」
「あいつのことは放っておけ」
「私の勝手じゃない? あんたも別にあの子とずっと前からの知り合いって訳じゃないみたいだし」
挑むような視線が二本、空中で爆ぜる。
二人の男女は己の本心を隠し、ほんの数瞬相対した。
緊張が暗い廊下を満たし、殺された息が床板を這う。
だが彼らがそうしていたのは僅かな時間のことで、リィアは肩を竦めると踵を返した。
「まぁお金にならないことなんてどうでもいいけど? 
 ああ、あの子に言っとけば。瘴気は体に悪いからこれ以上取り込むなって」
言いながら魔法士の女は廊下の向こうに消えた。
音のない夜が速やかに戻ってくる。
僅かな月明かりだけが視界を支える廊下において、ケグスは舌打ちを一つすると―――― 「どっちが小細工好きだ」と吐き捨てた。






ダルトンは翌朝になってようやく村に現れた。
残念ながらもう一人の男は野盗たちと斬り結んだ際に命を落としたのだという。
彼らは、主にダルトンの働きで村人たちの遺体を簡単に埋葬すると、昼過ぎには小さな村を後にした。
野盗から取り上げたという馬たちを拾うと、六人はそれぞれ街道に沿って出発する。
西へと伸びる道。
最後尾を行くアージェは馬を走らせながら、ふと森に覆われた山を振り返った。
居場所を喪失しての旅立ちについて、今はまだ整理した思考は出来ない。
だから「彼」も、きっとそうなのだろう。アージェは膝の上に寝そべる犬を見下ろす。
ここに来るまで何の抵抗もせず、何の鳴き声もあげなかった犬は、今は頭を上げ去って行く森を見つめていた。
琥珀色の瞳に、人と見紛うような寂寥が滲んでいる。
―――― やがては語れる日が来るのだろう。
己の旅立ちを、喪失を、消えない悲しみを。
だが今は、ただ追いたてられるように先へと馬を駆るだけだ。アージェは犬に触れぬようにして手綱を握る。
地を照らす陽は、未来を教えない。
そしてその未来を予測し得る者もまた、現時点この大陸の何処にも存在していなかったのである。