青の花 025

禁転載

突如空中に放り出されたアージェは、宙で半回転し着地の態勢を取ろうとしながらも、頭の中で「猫でもないし無理」と結論づけていた。ルトの鋭い吠え声が聞こえる。
多少の衝撃を受けることを覚悟した一瞬、だが少年の体は浮き上がるような感覚と共に足から石床に着地した。
自分でも何がどうなったか分からないアージェは、しかしそのことを突き詰めるより先に段差の上を仰ぎ見る。
手折り損ねた青い花が揺れている場所。
その近くにはいつから姿を現していたのか、漆黒の蔓が蠢いていた。
アージェは素早く意識を切り替える。少女と蔓の間に割って入りながら剣を抜いた。
「な、何?」
「下がって」
厳しい声に、レアは僅かに後ずさる。
アージェはそれを気配で感じ取りつつ、ゆっくりと巻き取られていく蔓から目を放さなかった。
黒いそれは、いつのまにか廊下の先、床の中央に存在する漆黒の水溜りへと繋がっている。
その中へと蔓が吸い込まれていく様を、少年は緊張を覚えながら見据えた。背後の少女へ問う。
「ここに何かいるって知ってた?」
「―――― 知らなかった……どうして?」
愕然とした声音は嘘を言っているようには聞こえない。
アージェは蔓の先端が水溜りの中に消えるのを見て、剣を構えなおした。無言で唾を飲み込む。
「先帰れる? 花は俺が後で採っていくから」
「私は……」
(アージェ、うけてたちなさい)
少女の声を遮って響くものは、毅然とした女の声だ。
「彼女」の声は逆らうことを許さぬ力を以って、彼の脳裏に朗々とこだまする。
(力を示しなさい。あなたは、その入り口に立った)
水溜りの中から、黒い手が現れる。
太い指が床を掴むと、続いて腕が、頭が、闇の中から現出した。
長身のそれは音もなく通路の中央に立ち上がる。
左手に長剣を携えた漆黒の騎士。兜に隠された目が、剣を構える少年を捉えた。
人ならざる男が持つ威風と尋常ではない圧力に、アージェはぞっと戦慄する。
「まじで……? 俺本当、運悪くないか……」
とてもではないが、どうにか出来るような相手には見えない。
ただの騎士や、ただの化け物でも充分強敵だというのに、今目の前にいる者はその両方なのだ。
黒い騎士は無言のまま同じ色の長剣を上げると、その切っ先をアージェに向けて構えた。
殺意も戦意も感じられない。ただ相手の標的は間違いなく自分だと、少年は肌身で感じ取る。
アージェは横目で廊下の広さを確認し、長剣を振り回しても支障がなさそうと判断すると相手の剣に意識を集中させた。
レアの、抑えて震える声が聞こえる。
「待って……逃げましょう。花はいいから」
「今逃げたら後ろから斬られそう。先行ってて」
「でも」
騎士が動いたのはその時だった。
大きく踏み込んでくる一足。真っ直ぐに突き出された剣の速度は、アージェの認識速度を僅かに上回っていた。
彼の頭の中で女の声が叫ぶ。
(右!)
反射的にアージェは右へ跳んだ。逸らした胸の横ぎりぎりを、黒い剣が通り過ぎる。
幸い態勢は崩していない。彼は騎士の肩へと剣を振るった。
だが少年の剣は何の抵抗もなく黒い体の中を通り過ぎただけで、騎士は微かな痛痒も覚えたようには見えない。
アージェは再び自分の方へ向き直ろうとする騎士を警戒して距離を取った。忌々しさが口をついて出る。
「実体がない方か」
(そうね)
しれっと言ってのける女に腹立たしさを覚えるが、それを言っていられる場合ではない。
彼は振り向いた騎士と、その向こうのレアを一瞥すると、左手の手袋に手をかけた。僅かな躊躇を乗り越え、それを取り去る。
漆黒の指先。レアがそれを見て表情を強張らせるのが見えた。
だがアージェはそこから先、逡巡することはしない。左手を上げ、騎士へと向ける。
糸を出すのも三度目ともなれば慣れたものだった。
五本の黒い糸。それをアージェは騎士へと投げかけようとし―――― けれど再び襲ってきた斬撃に跳び下がる。
鼻先すれすれを薙いでいった刃先に、彼はひやりとしたものを味わった。
「あぶね」
(アージェ、とまると、あぶない)
「煩い」
それ以上言う間もなく、三撃目が少年の頭上に振り下ろされる。
アージェは咄嗟に長剣でその剣を受けようとした。
だが二振りの剣は打ち合わされることもなく、お互いを通り過ぎる。黒い剣はアージェが払った場所から形を失って霧散した。
―――― そこで油断しかけたのが不味かったのだろう。
靄となって散ったと思った剣。その残滓が瞬時に元の形を取り戻し、アージェの右肩へと食い込む。
「……っ!」
あまりの痛みに刹那視界が白くなる。
焼け付くような激痛。
強い衝撃は、痛覚を通じて少年の体を硬直させた。
思わず息を止めたアージェは、よろめくようにして後ろに下がる。血が流れ出す右肩を左手で抑えた。
浅くはない傷。けれどこれくらいで済んだのは幸運であろう。
下手をしたらアージェの腕はそのまま切断されていたかもしれなかったのだ。
だがそれは、途中で再び剣が掻き消えたことによって未然に防がれた。
少年は、勇敢にも黒い剣に飛びかかってくれた灰色の犬を、痛みを堪えながら見下ろす。
「助かった、ルト」
(血を、とめないと)
「そんな暇ない」
唇を噛みながら、次の攻撃を警戒して少年は更に三歩ほど距離を取る。
本当ならばもっと後ろに下がりたいのだが、それをして標的がレアの方に移ってしまっては面倒だ。
彼女は未だ逃げ出さぬまま、慄然と蒼ざめた顔でその場に立ち尽くしていた。
アージェは痛みを何とか頭の片隅に追い出す。呼吸を整えると傷口から手を離し―――― 再度左手を構えた。
だがそれを、「彼女」が遮る。
(それは、よくないかも)
「はぁ!? 何でだ」
(あれを支配するのは、むりよ。すいとるのも、むずかしい。あれは、造られたモノだわ)
彼女が言っていることの意味は、半分ほどしか分からなかった。
だがその半分で、彼は自身の糸がほぼ敵に対し無意味であることを理解する。
頭の痛くなる思いに、アージェは思ったままを吐き出した。
「阿呆か。打つ手なしかよ」
これでは剣の素人である自分に勝ち目はない。
何とか時間を稼いでレアを逃がし、その後自分も離脱するしかないだろう。
アージェはじくじくと痛む腕と、力の入らぬ右手に目をやった。好転する見込みのない状況を心の中で罵る。
黒い騎士は一旦は剣を引き様子を窺っていたが、剣を構えなおすと踏み込む機を待つかのように少年を見据えた。その一連の動きには確かに「造られたもの」とも思える自動性が窺える。
窮地としか言えぬ場に立たされ、アージェは次にどのような手を打つべきか、必死で思考を巡らせた。
その時、彼の斜め前にいたルトが大きく吠える。
威嚇というより、注意を引きつけようとする声。その声に少なくともアージェとレアは灰色の犬を見た。
琥珀色の瞳が、意志を持って少年を仰ぐ。
「―――― まさか」
(そうね)
同じところに帰結した呟き。
アージェは左手の指から漂う糸に視線を走らせた。その視線が再びルトのものと交差する。
「そんなことが出来るのか?」
(やるか、やらないか、だわ。あなた次第)
漆黒の剣先が上がり始める。
時間はない。右肩の出血は続いている。
アージェは一秒の半分ほど困惑を抱え言葉を失った。けれどルトの再度の吠え声を聞いて意を決する。
「分かった」
今は信じて賭けてみるしかない。ルトに。そして自分に。
アージェは左手を振ると、黒い糸を真っ直ぐに投げかけた。―――― 目の前の犬に向かって。
そして慎重に調整を心がけながら、糸を通じて力を注ぎ始める。
魔物となったルトから靄を吸い上げた時とは反対に、黒い力を少しずつ灰色の犬に返していく。それに応じてルトの毛色が変色し、大きさが増していった。
(いちど、適応した生き物だから、これくらいできるわ。でも統制を、ゆるめないで)
「ああ」
おそらく、他の動物に同じことをやったのなら殺してしまう可能性が高いだろう。
リィアは「ほとんどの生き物は瘴気に適応出来ずに死ぬ」と言っていたのだ。
だが一度はそれに順応したルトならば、加減を誤らなければ黒い力を受け取ることが出来る。
そしてルト自身、自分を使えと呈してきたのだ。アージェには彼の考えることが伝わっていた。
「これくらい、か」
正気を失っていた時ほど大きいわけではない。
だが本来の大きさよりは三倍ほど膨らんだルトは、強靭な狼にも見紛う体躯を同色の騎士に向けて構えた。アージェはその右で剣を構える。
あまり時間はかけられない。これ以上長引けば、傷の痛みが体の動きを支配し始めるだろう。
アージェは次の一撃で決着をつける覚悟で息を整えた。剣を左手に持ち替える。
―――― こんなものは苦し紛れの奇策だ。
そう思いながらも、だがアージェはそこに勝機を求めるしかなかった。
左手の指から伸びる糸のうち、二本はルトに繋がったまま、そしてもう三本は剣身へと螺旋状に絡みつく。
銀と黒。混ざり合わぬそれらを己の武器としてアージェは掲げた。黒い騎士に警戒の気配が生まれる。
「アージェ」
澄んだ声は、震えてはいなかった。
少年は顔を上げる。騎士の向こうにいる少女と視線がぶつかった。青紫の瞳が彼を射抜く。
「勝てるの?」
「分からない」
「死なないで」
「そうなる前に逃げる。だからレアも逃げてろ」
レアはそれを聞いて眉を寄せた。その場から数歩下がる。
だがそれは逃げるというより、少年の邪魔にならぬよう動いただけらしい。険しい目で通路に留まった。

信じるわけでもなく縋るわけでもない。
ただ「そう在れ」と、彼女は望む。

(来るわ)
「分かってる」
利き手ではない手に持った剣は、彼に拭えない違和感を味わわせる。
だがその違和感を緊張と痛みが打ち消した。少年は奥歯を噛み締める。
―――― 己が何の入り口に立ったのか。
それをまだ彼は知らない。理解していない。
ただ後に彼はこの時を振り返り、思う。
自分はあの時から、彼女に出会い闇に対峙した時から、広がる舞台の上へ足を踏み出しかけていたのだと。
細めた目の視界に、黒い剣筋が見える。
駆け出していくルトの背。
その姿を意識の端に留めて、アージェは床を蹴った。