青の花 026

禁転載

凄まじい速度で振り下ろされた黒の剣。
しかしそれは、アージェに到達する前に、飛び掛ったルトによって方向を逸らされた。
獣は騎士の腕に太い牙を突き立てる。
似た性質を持つ者同士である為か、騎士の腕は今度こそ霧散しなかった。血こそ流れぬものの、黒く染まった牙は根元まで腕の中に突き刺さる。
騎士はルトを振り払おうと腕を跳ね上げた。その隙に、アージェは両手で支え持った長剣を振るう。
標的の首を狙って薙いだ剣。銀と黒の刃を、相手は右手を上げ防ごうとした。
しかし、アージェの剣は無音で騎士の腕甲に食い込む。

あやふやな感触が剣を持つ手に伝わってくる。
だがそれは今度こそ効果をもたらしたようで、黒い右腕は霧散することなく少年の剣によって切断された。
肘の先から切り落とされた腕は、石床の上でゆらりと薄らぐと何も残さず掻き消える。
アージェは自分でも思ってみなかった結果に驚きつつ、反射的に身を屈めると騎士の剣を避けた。視界の隅で振り払われたルトが一回転して着地するのが見える。
「何だ……効くのか」
いちかばちかの賭けではあったが、どうやらこの状態の剣には充分すぎるほどの効果があるらしい。
何の抵抗もなくあっさり切り落とせた腕は、元に戻る気配がない。
アージェは頭上から襲ってきた斬撃を、転がるようにして横に避ける。
更なる追撃が来ないのは、ルトが騎士の背に飛び掛った為だろう。低い唸り声を聞きながら少年は態勢を戻した。騎士の足を剣で払おうとする。
その攻撃はだが、相手が大きく飛び下がったことにより空を切った。ルトが騎士の背から離れて石床に下り立つ。

一瞬の沈黙を三者は共有し対峙した。
傷の痛みさえも忘れる緊迫。
その間が明けた時、騎士はアージェに向かって突撃してくる。
今までの攻勢よりさらに速い攻撃を、少年は片足を引いて待った。
―――― 怯んではいけない。怯めば鈍る。鈍れば殺される。
アージェはぐるぐると余計なことまで巡りそうな思考を抑え剣を構えた。黒い剣先だけを全ての意識をかけて睨みつける。
青い花。
黒い騎士の肩口の向こうで、小さな花弁が揺れて見えた。
しなやかに駆け出していたルトが、騎士の腰目掛けて跳躍する。
それをしかし、相手は急停止することで空を切らせた。
僅かに生まれた空隙を越えて、騎士の剣は少年へと到達する。
心臓を狙い突き出された刃。アージェはその一撃を体を逸らして避けた。
考えてやったわけではない自然な動作で、少年は騎士の懐に踏み込む。
黒い剣はまだ宙を突いたままだ。
決定的な隙。
アージェはそれを見逃しはしなかった。両手に持つ長剣で騎士の首を狙う。
余計なことは考えない。
ただ顔を上げ、出来るだけ速く、標的を突く。最短の道筋を通って剣先を到達させる。
頭の中には何もない。
ただ広い世界の何処かで、女が一人微笑んだ。



三本の糸が寄り集まった切っ先。
それは音もなく騎士の喉元へと吸い込まれた。
何の抵抗も、感触もない。まるで霧の中へと剣を差し込んだかのようだ。
駄目だったか、とアージェが諦観を覚えかけた時―――― だが騎士はその動きを止める。
窺えない双眸が己を貫く少年の剣を見下ろした。
剣に絡みつく糸と黒い腕。
アージェは騎士の目に強い視線を返す。
不可視の拮抗。
無音の時。
息さえ出来ぬ数秒の終わりは突然なものだった。
黒い騎士は、水晶が砕けるように澄んだ音を立て四散する。
宙に飛び散った闇の砂粒は瞬く間に溶け消え、一粒も残らなかった。
アージェは、呆然と何もなくなった目前を見やる。
―――― 肩が痛む。それだけが彼に残された現実だった。






「アージェ!」
叫びながら駆け寄ってきたレアは、躊躇いもなく自分の服の裾を裂くと、それを包帯代わりにしてアージェの傷口を縛り上げ始めた。
必死な顔で両手に持った布端を引っ張る少女に、彼は疲れた目を向ける。
「……力無いな」
「待って! 今何とかするから……」
「適当でいいよ」
これは宿に戻って医者を紹介してもらった方が早いだろう。
とりあえず縛ってさえくれればいいと流すアージェに、しかしレアは首を振るばかりである。
「ちゃんと、うっ、きつく、止めないと、うう」
「全然きつくない……。それより一旦離れて。ルトを元に戻す」
少女が慌てて一歩避けると、アージェは左手の糸に意識を集中した。
琥珀色の両眼が少年を見上げる。
愛情があるわけではなく主従があるわけでもない。
ただ束の間を共有したことによる気だるい連帯感だけが二者の間にはたちこめていた。
アージェは先程注いだ力を再び自分の中に引き上げていく。それに伴いルトの大きさは縮み、その毛色も戻っていった。
最後に糸を切り離し消してしまうと、アージェは大きく溜息をつく。
「あー……どっと疲れた……」
緩く布を巻かれたせいとは思えないが、痛みは大分薄らいできた。
彼は長剣を鞘に戻して青い花を見上げる。
高い場所に咲く花は、今までのことが夢であるかのように清楚な姿を佇ませており、少女の青い瞳と共にそれを仰ぐ少年の苦い表情を誘ったのだった。



「本当にこんなことになって御免なさい」
遺跡を出て元の路地に戻ってくると、レアは深く頭を下げた。
結われていない金髪の先が地面について、アージェは困った顔になる。
「いやまあ、知らなかったことだししょうがない」
「御免なさい」
もう一度頭を下げると、レアは懐から何かを取り出した。「お礼にこれを」と言いながらアージェに向かって差し出す。
小さな手に握られていたものは、一つは数枚の金貨で、もう一つは内側に細かい彫刻が施された銀色の指輪だった。
アージェはそれらを見て若干引き気味の表情になる。
金貨は勿論、指輪も見るからに高価で、平民には分不相応なものである。
大変な目に遭ったことは確かだが、ここまでの報酬を貰える程のことかといったら、実力を鑑みても過ぎた礼だろう。アージェは左手を顔の前で振った。
「いいよ、こんなに」
「お礼と治療費です。どうぞ受け取ってください」
「金貨一枚だって多すぎる」
「で、でも私、これ以外持ってきていないのです」
「…………」
やはり大分平民とは金銭感覚が違うらしい少女と、アージェはしばらく押し問答をしたが、最終的には銀色の指輪と金貨一枚を受け取った。レアはあまり納得がいっていなそうな顔で―――― だが彼が指輪をしまうと微苦笑する。
「本当に……ありがとうございました」
「いいよ。何とかなったし」
「あの、また会いに来てもいい?」
予想もしていなかった少女の言葉にアージェは目を丸くしてしまった。
社交辞令かと思ったが、青紫色の目はそれまでと同じ必死さを帯びており、彼女が本気であると窺える。
一体何を考えているのか、どう返事をすればいいのか。さっぱり分からなかったが、もうさすがに疲れたのでアージェは頷いた。レアは安堵に顔を綻ばせると、両手で彼の手を取る。
「ありがとう、アージェ」
「……次はもっと平和なところがいい」
「御免なさい」
最後にレアが見せた顔は、少し淋しげな微笑みだった。
そのまま身を翻した少女は何度か振り返り、アージェに手を振って路地の向こうに消える。
残された少年は己の左手に目を落とした。
「何なんだ……」
手袋を嵌めなおしていない左手。黒く染まった掌に残る温かさは、彼に複雑な感傷をもたらす。
言葉に出来ない疲労と安心感。
それは異質な手を躊躇いもせず取った少女への不定な感情と、繋がるものであるのかもしれなかった。






「見つけたわよ」
聞き覚えのある声が背後からかけられたのは、傷を負ったアージェが宿へと戻る途中のことである。
底の高い靴を履き、腕組みをした女は、振り返った少年につかつかと歩み寄ると、乱暴に緩い包帯を解いた。その下の傷を覗き込む。
「何これ。体が出来上がる前に大怪我すると歪みが出るのに」
「リィア」
「これなら放っておいても平気そうだけど、ついでだから治してやるわ」
言い放ってリィアが詠唱を始めると、触れられてもいないのに傷口がほんのり温かくなる。
アージェが「ありがとう」と礼を返すと、彼女は「別にいいわよ」と尊大に笑った。
「ところで君、ログロキアの治癒が得意な魔法士に会いに行くって本当?」
「ああ、うん」
目的地である国と、会うべき魔法士についてあげられアージェは頷いた。
それはこの町に来るまでの間彼女に話したことで、秘密にしているわけでもなんでもない。
だがリィアはただの確認にもかかわらず、難しい表情になると黙り込んでしまった。
何か問題でもあるのかとアージェが問いかけた時、彼女は手の中から小さな何かを弾く。
反射的に彼が受け止めたそれは、透明な水晶を削って作られた指輪だった。怪訝そうなアージェにリィアは付け足す。
「それ絶対持ってなさい。いつか役立つし」
「役立つ、って」
「捨てたらもう知らないから」
それ以上まったく詳しい説明をせずに、リィアは「じゃあね」と走り去った。
怪我を治してもらえたのは幸運だったが、彼女が何をしたかったのかいまいちよく分からない。
アージェは二つになった指輪をそれぞれ右手の人差し指と薬指に嵌めてみた。
何処かにしまっておくよりはなくさないだろうと思ってのことだが、レアに貰った指輪はともかく水晶の指輪はぎりぎり節を通るくらいである。後で別の保管場所を考えた方がいいかもしれない。
「とりあえず……帰るか」
ぼやくアージェの隣をルトがついていく。
日はまだ高い。幸いその後彼は、誰にも咎められることも呼び止められることもなく、無事宿屋に帰り着いた。






それほど長い時間が経っていたようには思えなかったが、アージェが宿に戻った時、ケグスもダルトンも既に情報収集から帰ってきていた。
部屋の扉を開けた少年を、「お、坊主帰ってきたか」と迎えたダルトンは、血だらけの腕を見るなり笑い出す。
その笑声で振り返ったケグスは、アージェの格好を見やってたちまち呆れ顔になった。
「何だ、ごろつきにでも絡まれたのか?」
「違う。けど斬られた」
「医者呼ぶか、って痛くないのか?」
「リィアに会って治してもらった」
「あいつに? んじゃま、とりあえず着替えとけ。何かあったら医者を呼べばいいから」
もっともリィアとそりがあわなそうに見えたケグスだが、彼女の腕は信用しているらしい。
アージェはしかし、最初から着替えよりも優先したいことがあった。椅子に戻ろうとするケグスを呼び止める。
「ちょっと頼みがあるんだ。いい?」
「何だ? 面倒事か?」
「そうかも。―――― 道中の空き時間でいいんだ。俺に剣を教えて欲しい」
飾り気なく響く決意。
ケグスが、そしてダルトンが目を細めて少年を見た。
その視線にアージェは怯むことない態度で返す。

夜の森
倒れ伏した人
訪れる理不尽に剣を持って立つ時、いつも感じることは己の力不足だ。
無力であったからこそ失ってしまったものを思う度、アージェは自身の未熟に焦りと憤りを覚えざるをえない。
―――― だからこそ、今は腕を磨きたかった。

ダルトンは声を出さずに笑う。
頼まれたケグスは数秒の間、品定めするような目でアージェを見ていたが、ふっと表情を緩めると不敵に笑った。
「別にいいぞ。っていうか頼まれなくても鍛えてやろうと思ってた。その腕のこともあるしな」
「うん」
「ログロキアまでは結構ある。着くまでにそれなりになるように気合入れろよ。ああ、剣も選ぶか」
「俺も見てやろうか、坊主」
「あー、ちなみにお前くらいの体格で正面からおやっさんの相手すると、骨が傷むから気をつけとけ」
「……それって気をつけて何とかなるの」
「ならない」
酒の香と軽い笑い声が宿屋の一室を満たしていく。
それは束の間の休息を象徴して、高い空へと届くことなく消えていった。