木陰に眠る 027

禁転載

作られた空間には彼女以外存在しない。
初めからそこは、彼女が一人になる為の場所であるのだから当然だ。
膨大な時間だけが思い出されるひととき、彼女は目を閉じて未分の感情にまどろむ。

「何故連れ帰って来なかった?」
さざなみのような声に彼女は眉を寄せた。目を開けないまま返す。
「彼はまだ未熟だったわ。今連れて来ていいことがあるとは思えない」
「ならば余計に、傍に置くべきだろう。多くを知ってからでは遅くなるかもしれない」
「いいのよ」
突き放すような反駁は自分自身にもまた強く響いた。彼女は瞼を開け、白いだけの頭上を仰ぐ。
「何を恐れる?」
「何も」
「別れが怖いか? 見捨てられることが怖いか?」
「黙って」
落ち着いた声は彼女の頭の中でちくちくと針のように存在を主張した。
彼女は唇を噛むと白い手で己が顔を覆う。
「彼は、私のお願いを聞いてくれたのよ」
「お前の望みなら誰であろうと叶える」
「違う! 彼は、私のことを知らない! それでも聞いてくれたのよ!」
―――― まるで友人にするように、と。
彼女はその先の言葉を飲み込んだ。自分でも訳が分からぬまま熱くなる目頭を押さえる。
訪れたのは憐れむような沈黙だ。
過去のことを思い出したくないと願う彼女に、声は罅割れた溜息を零した。
「……自分が何であるか忘れるな」
そして空間は砕け散る。






左肘が痛む。
先程避け損ねた刃が掠っていった為であろう。アージェのそこは今、皮膚が薄く切れて血が滲み始めていた。
だが少年は腕の痛みに拘泥することなしに、斜め前へと踏み込む。その一足で敵の斬撃を避け、相手の側面へと回りこんだ。
敵の男はぎょっとした顔で、けれど素早く腰の短剣を抜くと、その平でアージェの剣を弾く。
思ってもみなかった抵抗。少年は軽くよろめいた。
その隙に男は短剣を捨て、再び両手で長剣を振りかぶる。足に飛び掛ろうとしたルトを彼は蹴り飛ばした。
そのままアージェの頭上へと刃が振り下ろされる―――― 直前で、けれど男の体は後方に吹き飛んだ。
「詰めが甘いぞ、坊主。あそこまで近いなら殴った方が早い」
笑いながらダルトンは厚刃の剣を軽く振った。剣身についていた血が飛沫となって、気絶した男の足にかかる。
すんでのところで命拾いしたアージェは、それを聞いて頭を掻くと、小さく息をついた。



偶然の積み重なりから二人の傭兵と出会い、彼らと一月近く行動を共にしているアージェだが、実際に戦い方を習い始めると、自分がどれだけ未熟なのかよく分かるようになった。
剣捌きはおろか足の運びから視線の移動、咄嗟の判断から状況の見極めまで、戦闘に必要な要素は山ほどあるのだ。
それらの半分も出来ないアージェは、日夜ケグスに注意をもらっているのだが、そのケグスでさえ傭兵としては年月が浅いのだという。これではダルトンなどとはどれだけ差があるのか、ただただ途方もないだけだ。
「そう悲観することもないぞ。お前、力はあるしな。判断力と度胸もなかなか」
焚き火に枯れ木をくべながらケグスは笑う。
すっかり夜になった森の中は若干肌寒いくらいであったが、アージェは自分用に作ったスープを飲んでその寒さを払拭した。
木々の合間から見える星空を少年は仰ぐ。
「って言われてもな。全然思った通りにいかない」
「最初から何でも思い通りに出来たら世話ないだろ。経験積め、経験。
 お前は幸い変なところで肝が据わってるからな。上手くいけば成長早いぞ」
「経験が大事」とそう言われ、アージェは昼間、二人が受けた野盗討伐の仕事に同行したのであるが、結果としてはダルトンの助けが入らなければ死ぬか深手を負うかのどちらかになるところであった。
実戦に出るにはまだ己は力不足と思い知ったのだ。アージェは赤いスープの表面をじっと見つめる。
「自衛が出来ればそれでいいかって思ったりもするんだけど」
「そういう甘い考えは捨てとけ。相手が格上だったらどうすんだ。強くなれるだけなる、でいいんだよ」
「確かに」
「まず基本は勝つことより死なないことを考えろよ。
 やばそうだったら退け。生きてさえいればどうにでもなるからな」
「うん」
アージェが頷くとケグスは剣を手に立ち上がった。「ちょっとその辺一周してくる」と言って焚き火の周りを離れる。
よく鍛えられ均整の取れた男の体が闇の中に消えると、ダルトンは笑った。
「あいつと差があるように思えてもあんまり気にするなよ。
 ケグスは若いって言っても、お前より小さい頃から剣振るってたような奴だから」
「そ、うなんだ」
「別段珍しくもないだろ? この大陸の人間なら」
暗い夜。少年は黙って首肯した。
アージェの育った村はたまたま辺境で戦火には縁遠くあったが、そうではない村もこの大陸にはごまんとある。
そしてそのような場所に生まれた子供は、物心ついた時から荒れた世を生き抜く術を探っていかなければいけないのだ。
ケグスがそういった少年時代を過ごして今に至ったのだとしても、何ら不思議なことではない。
むしろ納得さえ覚えてアージェはカップを置いた。
焚き火を挟んで向かいに座すダルトンは、アージェ特製のスープを顔色一つ変えずすすりながら笑う。
「あいつもお前が気に入ったんだろ。弟みたいに思ってるんじゃないか?
 よければこのまましばらく付き合ってやってくれ」
「世話になってるのは俺の方だと思うけど」
「こういうのはどっちもなんだよ。人ってのは気付かないだけでお互いでお互いを支えてるもんだ」
少年には想像もつかぬ修羅場を通ってきたのだろう男は、煌々と燃え盛る火を見つめた。
揺らめく夜の炎に彼が何を見ているのか、ただダルトンは少なくとも穏やかと言っていい表情をしている。
男はアージェの視線に気付くとにっと笑って見せた。
「さて、そろそろ寝るといいぞ。明日には街道に戻るからな」
「うん」
素直に返事をして、アージェは防寒用の布に包まる。そうして既に眠っているルトの隣へ横になろうとして―――― 少年はふと好奇心に駆られた。小瓶を開け酒を飲み始めた男を見上げる。
「そういえば、親父さんは旅の目的とかってあるの?」
素朴な疑問に、巨躯の男は目を丸くした。
しかしその目をすぐに細めると、ダルトンは
「さぁな、若い頃は探していたものがあったが、今は忘れちまったかもな」
と結んだのである。



ふらりと出て行ったケグスだが、戻ってきた時には一人ではなかった。まるで襤褸切れのような人間を一人、左肩に担ぎ上げている。
擦り切れた外套に身を包んだその人物は死体ではなかったらしく、焚き火の前に放り出されると呻き声をあげた。
目をこすりながら起き上がったアージェは、地に這いつくばった人間を見て怪訝な顔になる。
「誰?」
「行き倒れてたから拾ってきた」
「お前、女の子はもっと丁重に持ち運ぶもんだ」
「右手が塞がってたらいざって時に困る」
ダルトンの呆れ声にアージェは驚いてその人物を見直してみた。
薄汚れた茶色の頭衣の下から灰色の髪が覗いている。
地面についた小さな手。それが子供のものでないのなら、確かに男の手には見えない。彼女は震えながら顔を上げると、辺りを見回した。
「た、助けてくれてありがとう……」
放り投げられたにもかかわらず開口一番礼を言えるとは、なかなか剛毅な人物らしい。
女は頭衣を外すとケグスを見上げた。火に照らされた横顔は二十代半ばのものに見えたが、何処かあどけない印象を受ける。
彼女は改めて男に向かい「ありがとう」と頭を下げた。だがそのまま顔を上げることなく地面に崩れ落ちる。
「何だ、どっか怪我でもしてるのか」
「お、おなか減って……」
「なら俺が作ったスープが残ってるよ」
「やめとけ」
「それは無理」
傭兵二人から即座に却下されてアージェは眉を寄せた。

結局余り物のパンと水を貰った彼女は、それで人心地をつけると「カタリナと言います。旅の学者です」と自己紹介する。
「学者が何で山の中で行き倒れてるんだ」
「休憩中にうろうろしてたら乗り合い馬車に置いてかれて……」
「うわ……」
「馬鹿だな」
思わず声をあげたアージェとばっさり切って捨てたケグスに、女は「失敗失敗」と頭を掻いた。
まったく悪びれていない態度はとても行き倒れていた人間のものとは思えない。カタリナの話に笑っているのはダルトンだけで、若い二人は信じられない生き物を見るような目で彼女を見やる。
最年長の男は、二人の思いを代弁してかカタリナに問うた。
「で、この後どうするつもりなんだ、お嬢ちゃん」
「さすがにもう追いつけなさそうなんで、朝になったら一旦近くの町に帰ろうかと」
「それがいいな。ケグス、拾ってきたのはお前なんだから面倒見てやれ」
「アージェ、頼んだ」
「え……」
流れるようなやり取りで面倒ごとを押し付けられてしまった。アージェは途端、苦い表情になる。
が、三人の中で一番年少であり剣の弟子でもある少年は、その決定に反論も出来ない。
あまりにも不当な頼みなら文句も言えるが、男ばかりの中でアージェに彼女の面倒を押し付けたのはそれなりの配慮もあってのことだろう。カタリナは何の警戒心もない表情で年下のアージェに笑いかけた。
「ごめんね。よろしくね」
「……よろしく」
とりあえず何だか間の抜けた女性とは言え、彼女も大人である。
さほど面倒な事態にはならないだろうと、少年は無理やり片付けた。

その後彼女は疲れ果てていたのか、アージェの隣で丸くなって眠ってしまった。
まるでルトと変わらぬその姿に、彼は溜息を一つついて自分も寝なおすことにしたのである。