木陰に眠る 028

禁転載

翌朝アージェが目を覚ました時、カタリナはまだ丸くなり眠っているままだった。
既にダルトンもケグスも起き出している中、少年は水汲みと顔を洗いに近くの川へ向かう。
山の伏流が顔を出す細い流れは、触れた指先が痺れるほどに冷たいものであった。
僅かに残っていた眠気もすっかり拭われ、アージェは皮袋に水を入れると元の場所へ戻る。
「あれ、彼女まだ寝てるの?」
「おう。ちょうどいい。その水ぶっかけてやれ」
「やだよ。ルト、起こしといて」
彼がお湯を沸かしている間に、役目を割り振られた犬は律儀にもカタリナの包まっている布を食わえると、そのまま引き剥がしてしまった。やがて寒さに耐え切れなくなったのか、女はもぞもぞと起き出す。
「雪山で雪に埋もれた本を掘り起こす夢見ちゃった……疲れた……」
「そのまま眠ってたら凍死出来たかもしれないぞ」
「それは困るなあ」
ケグスの嫌味をものともせず、目を擦ったカタリナは「おはよう」と笑う。
アージェは淹れしたてのお茶をそれぞれに手渡しながら女の挨拶に返した。
「おはよう。今何か作るよ」
「飯食ったら街道出て、お嬢ちゃんを近くの町に送るか。どこでもいいんだっけか?」
「どこでもいいですー。せっかくなんで、一旦学府に帰って調査の結果を提出してきます」
「何の研究してるの?」
「考古学」
にまーっとした笑顔はお世辞にもちゃんとした大人のものには見えなかった。
少年は砂埃で薄汚れた女の顔に呆れて、お湯に塗らした布を渡す。カタリナは礼を言って顔を拭くと、灰色の目をくりくりと動かしてアージェを見た。
「君、弟か妹いるでしょ」
「……妹が一人いる」
「やっぱりー! 私のお姉ちゃんみたい」
「どう返答していいか正直分からない。まずカタリナは何歳なんだ」
「二十四!」
「俺より九も上なのに……」
剣の師であるケグスとの間にも、アージェは色々と埋められない年月を感じるものだが、それとはまったく別にカタリナとの間にも「埋まっていない年月」が感じられる。出来れば自分が埋めるのではなく、彼女の方が埋めた方がいいその隙間に、しかし行きずりの関係である少年は何も言わなかった。
カタリナは両手でお茶のカップを包み込みながら「細かいことはいいじゃない」と嘯く。
「学府って何処にあるの?」
「ん? 興味あるの? ログロキアだよ、少年」
「うわ」
思わず声を上げてしまったのはそれがアージェの目的国と同じであったからで、しかもその声は嬉しさを含んだものでは決してなかった。彼は目を輝かせて相槌を待っているカタリナに、何とか平静を取り繕って返す。
「それは隣の国まで来て大変だね」
「そうでもないよー。イクレムは治安がよくて野盗がほとんどいないしね!
 乗り合い馬車にさえ置いていかれなければ大丈夫」
やけに楽観的というか陽気な女に、アージェ以外の二人も色々と思ったのだろうが、彼らはそれぞれ沈黙を保った。
「イクレムにはほとんどいない野盗」を昨日退治しに来ていたダルトンは、少年に人の悪い笑顔で片目を瞑ってみせる。
これは黙っていろということだろうか。アージェは「あなたたちは何しにこんなところに来てるの?」と聞かれて困った。
「や……」
「や?」
「や、野鳥を、見に……」
「そっかー、野鳥かー!」
納得顔で頷くカタリナの背後で、ケグスが顔を引き攣らせるのが見える。
「アージェ、お前……」
「ごめん」
リィア相手であれば一発で嘘と看破されそうだが、カタリナには疑われもせず通じてしまった。
しかしそれをよかったと素直に思えないのはどうしてなのだろう。少年は地上から視線を逸らし朝の空を見上げる。
その姿を憐れに思ったのか、ダルトンが会話の続きを引き取った。
「考古学ってことは遺跡でも調査に来たのかい? お嬢ちゃん」
「そうなんですー、と言いたいところですが、その前段階。遺跡の場所が分からないんで情報収集中です」
「ほう。どんな情報が欲しいんだ?」
「むむ、知ってますか? 『終わりの箱』って」
聞き覚えのない単語にアージェは首を傾ぐ。
だが男二人はどちらもその単語を知っていたらしい。ケグスはあからさまに眉を顰め、ダルトンは面白がっているような顔になった。
一人だけ怪訝な顔をしている少年に、カタリナは曇りのない笑顔で指を振る。
「あのね、そういう有名な伝説があるの。その箱を開ければ全てが終わるんだって」
田舎育ちのアージェは、初めて聞く話に目を瞠った。
彼は女の話をよく反芻し……当然ながら胡散臭いものを見るような目で彼女に返す。
「…………それ、開けちゃ駄目なんじゃ」
「ちっがうのよ、少年! 全てっつっても全部じゃないの!」
「どっちなんだ……」
「つまりね! 伝説ではその箱を見つけて開けることが出来たら、この大陸からは全部の戦争がなくなるって話なのだよ」
啖呵を切るように言い放ったカタリナは満面の笑顔を見せる。
しかしそれを聞いたアージェは唖然として―――― ケグスの「んなわけないだろ」という冷たい声を聞くまで、ぽかんと口を開けてしまったのだった。

それは伝説としては有名なものであるらしい。
いわく、この大陸には神代から一つの箱が受け継がれていると。
未だ一度も開けられたことのないその箱は、もし開かれたのなら大陸における全ての戦を終わらせると言われている。
もっともその言い伝えを額面通りに信じている者は、一部の宗教を信仰する者か夢想家だけであるのが実情であった。
考古学者であるカタリナはどちらかと言えば後者であるらしい。
「そんな凄い箱なら開けてみたくない?」と言う彼女に、アージェは「罠箱だったら困るし」と曖昧な答を返した。
女は首を真横に傾けて思案の唸り声をあげる。
「その時は仕方ない。私が罠箱を開けて後進の為の犠牲になるよ!」
「潔いね」
もう本当にどうでもよくなってきた。
四人は簡単な朝食を済ませると、馬に乗って山を下っていく。
カタリナは体重の関係で一番小柄なアージェの後ろに乗ったのだが、物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回し、落ち着きないことこの上なかった。
彼の腰に手を回して抱きついている女は、ふと思いついたようにアージェに問う。
「少年は野鳥を探す旅でもしているの?」
「してない」
「野鳥を探しに何処まで行くの?」
「探してないって言ってるだろ! 目的地はログロキア!」
言ってしまった後、空白の間があるように感じられたのは彼の気のせいだったのかもしれない。
「……アージェ、お前……」
「あ……」
「なーんだ! 一緒だね! なんなら一緒に行く?」
後悔とは後にするからこそ後悔なのである。
と、身を持って知った少年は、背後からしきりとかけられる声に項垂れつつ手綱を取る。
徐々に傾斜が緩やかになっていく山道。街道はもう目の前に迫ってきていた。

一行が最寄の町に到着した時、時刻は既に昼を回っていた。
カタリナがアージェを捕まえて離そうとしない為、仕方なく手近な食堂に入った彼らは各々適当な食事を注文する。
自分の荷物から分厚い紙の束を取り出し、何やら書きつけを取り始める女に、アージェは疲れ果てた視線を投げかけた。
紙の束の下から零れ落ちた小さな本を、彼は身を屈めて拾い上げる。
「あ、ありがとー!」
「これ何? 絵本じゃないみたいだけど」
ぱらぱらと見えた中にはほとんどの頁に絵が描かれていた。
だがその周囲をびっちりと埋め尽くしているものは小さな文字であり、子供用の本にはまったく見えない。
カタリナは笑いながら表紙を指し示した。
「これ? 遺跡の壁画の解説書だよ」
「へえ」
「興味あるなら貸してあげる。私もう大体中覚えてるし」
「ん、いいや。俺、字読むのそんなに得意じゃないから」
学校などに行ったこともないアージェは、簡単な文章であれば読むことが出来るが、研究書などはさすがにお手上げである。
本を返そうとする彼をカタリナはじっと見つめた。
初めて見る彼女の真剣な眼差しに、アージェはつられて真面目な顔になる。
「なら少年、私が読み書き教えてあげるよ」
「え!? い、いいよ」
「よくないって! 読み書き出来ると出来ないとじゃ将来全然違ってくるんだから!
 ログロキアにつくまでに最低限教えてあげる!」
「いいって!」
「絶対要るから!」
「まだ分からないだろ!」
「教えてもらっとけ、坊主」
騒がしい二人のやり取りに割って入ったのはダルトンである。
眉を寄せる少年に向かって最年長の男は付け足した。
「字は読めた方がいい。契約書が読めなくて騙されたりする奴もいるからな」
「それは……そうかもしれないけど」
読み書きを教えてもらうということは、このまま彼女を同行させるということではないだろうか。
アージェはちらりとケグスを見やるが、男は横を向いたままで話に加わって来ようとはしない。
そしてそれは黙認と同じことなのだろう。アージェは返答に詰まって手元の本を見やった。
―――― もし、故郷の村に戻れないのなら。
その時彼は、一人で生きていく術を身につけなければならないだろう。家族に拠るところなく、全てを一人で賄えるようにと。
人によっては何の準備も出来ぬまま、幼くしてそういった環境に放りだされることもある。
だがアージェには、それ以前に支えの手を差し伸べてくれる人が複数いるのだ。
これは感謝すべき厚情だろう。
アージェは黙ったままのケグスをもう一度見やって、頷いた。
「―――― うー、分かった。じゃあお願いする」
「ほんと!? よし、やろうやろう」
「でも俺、お礼あんま払えないよ」
「いいよー。私一人だとすぐ迷子になったり寄り道したりしちゃうから。
 ログロキアまでつきあってね、それがお礼」
「自覚があるならふらふらしなきゃいいんじゃ……」
にはは、と笑うカタリナはまったくちゃんとした大人には見えない。
だが専門分野においてはそれなりにきちんとしているのだろう。アージェは書き込みだらけの本をざっと捲ると、それを彼女に返した。
ちょうどテーブルに食事が運ばれてきて、会話は一時中断される。

素朴な味の料理を全てたいらげたアージェが、不意に思い出したのは先日足を踏み入れたおかしな遺跡のことだ。
彼は笑顔でお茶を飲んでいるカタリナに声をかけると、あの時見た壁画を簡単に説明して、どのような場面であるのか問うた。女は灰色の目をしばたたかせる。
「そんな壁画知らないよ。発掘済みの遺跡の壁画は全部覚えてるけど、初めて聞いた」
「え? だって俺見たよ。何かえらそうな人と、女の子と、あとそれを囲んでる人たちと……」
「うーん、そのえらそうな人と囲んでる人たち、ってだけならいくつか該当するものはあるけど。
 女の子と離れたところに一人だけ立ってるなんてのは知らない。何処で見たの?」
「カウロの町の遺跡で」
何となく聞いてみただけの問い。
だがかえってきた結論は、アージェを沈黙させるに充分なものだった。
考古学が専門だという女は少しだけ眉を顰めると
「カウロに遺跡なんてないよ」
とあっさりと、しかし確信に満ちた声で訂正したのである。