木陰に眠る 029

まどろむ夢から目を覚ました時、隣には彼女が座っていた。
緑の丘陵が広がる中に在る小さな丘。一本だけ生えている大樹の周りには、豊かな葉の影がそよいで揺れている。
木の幹に背を預けたレアは、瞼を薄く開けたアージェに気付くと微笑んだ。
「おはよう」
「……おはよう。また来たんだ」
「少しだけ」
少女の瞑った片目は鮮やかな赤紫色だった。
やはりあれも彼女だったのかと彼は理解し、乱れた前髪を手でかき上げる。
「そう言えばこないだの遺跡、あれ何だったんだ?」
「遺跡? どうして?」
「あの町に遺跡なんてないって言われた」
「あ……」
レアは開いた手を口に当てた。しまった、というような表情になる。
だがそれは不思議と悪意の感じられないもので、アージェは「次から嘘はやめろよ」とだけ釘をさした。
少女は微苦笑して頷く。
世界には音がない。
空は嘘のような晴天だった。風はなく、雲一つさえ見られない。
「アージェは大人になったら何処に行くの?」
鐘に似て響く声は、少年の耳の奥で小さく反響した。
アージェは緑の目を一度大きく瞬かせると、そのまま両眼とも閉ざす。
「分からない。ちゃんと考えたことがない」
「そう」
心地よい時間は永遠に続いていくかのようだ。
閉ざされた視界。眠りに落ちていくに似た浮遊感の中で、アージェは髪を揺らすそよ風を感じる。
その時隣で、少女の立ち上がる気配がした。
「ねぇ、アージェ、私は―――― 」

そこで彼は目を覚ました。
視界に映るものは小さな宿屋の部屋だ。窓の外には霧雨が降っている。
少年は体を起こし、右手で額を押さえた。
「あれ?」
呼ぼうと思った名。その名がすっかり意識の中から抜け落ちてしまっている。
たった今まで覚えていたはずの夢がどのようなものだったのか、彼は既に思い出すことが出来なくなっていた。
アージェは手袋を外した左手を見やる。
「俺は……」
答はまだ出ない。
痛む頭に少年は手を添えて、夢の残滓を深く吐き出した。






現在アージェたちがいる国の名はイクレム。
少年の育った村より国境を一つ越え辿りついた大陸有数の国家である。
代々賢王を数多く輩出しているこの国は政も安定しており、指折りの武力を持ちながらもそれに傾倒することなく、他国に比べてよい治安と高い教育水準を保っていた。国内の街道は行き交う隊商の姿も多く見られ、しかし彼らを襲う野盗はほとんど現れない。
戦乱が常であるこの大陸において、しかし自ら戦を求めることのないイクレムは、住みやすい国として真っ先に名が挙がる国家の一つである。世間知らずのアージェでさえ村にいた頃から良い評判を時折耳に入れることがあったほどだ。
とは言え、そのようなイクレムであっても完全なる平穏に恵まれているわけではない。
二年前には北西の国セーロンと軍同士が衝突する寸前にまでなり、その際に隙を突いた何者かに城の離宮が焼かれ、王子が一人死亡する事件があったのだという。
アージェは街道を行く道すがらそんな話を聞いて神妙な表情になった。
「王子が一人って、他に生き残りはいたんだ?」
「いる。切れ者で知られてる王太子がな。そいつはちょうどその時、戦場へ指揮に出ていて難を逃れたんだ」
「戦場のが安全だったって皮肉なものだよねー」
カタリナの暢気な合いの手にケグスが熱のない声を挟む。
「そうでもないだろ。結果的にそうなっただけであって、衝突が起こっていたら戦場も危なかったさ」
「そりゃそうかー。最近世の中世知辛いよね」
「千年以上も前からこうだったけどな」
かみ合わない会話を聞きながらアージェは手綱を操る。
よく晴れた空は何かを思い出させそうで、しかし何も出てこない。
緩やかに左へと蛇行していく街道は、あと一週間ほど道なりに行けばイクレムの城都に突き当たるという。一旦そこで用事を済ますというダルトンについて、アージェたちは街道を旅していた。
何もない乾いた丘陵が続く光景を、少年は漫然と見やる。
時折風に混じって届く砂。服の隙間から入り込んではちりちりとした痛みをもたらすそれを、彼は虫でも払うように手で払った。砂のせいか違うのか、左腕がざらざらとした違和感を訴える。
前を行くケグスがアージェを振り返った。
「折角大きい都に行くからな。簡易の身分登録しとくと後が楽だ。ちゃんとやっとけよ」
「身分登録?」
「一年間だけだけどな。大きい国のいくつかにはそういう制度があるんだよ。
 出身国と年齢風貌その他を登録して身分証発行してもらえれば、検問を通りやすくなる」
「へぇ……色々あるんだ」
「あるんだよ。持ってて損するものでもないしな」
男の言葉に納得の声で返し、アージェは遥か向こうの丘に視線を投げかけた。
乾いた茶色の土が目につく中、丘の上に葉をつけていない一本の大樹が見える。
立ち枯れているようにも思える木の影、その根元には誰も座っていない。立ってもいない。
しかしアージェはそこに誰かが佇んでいて、じっと自分を見つめているような―――― そんな錯覚を覚えたのである。

大陸に眠る数多の御伽噺。それらはまだ目を覚ましてはいない。



Act.1 - End -