羽を纏う 030

人の運命を変える存在は、いつも人だ。






イクレムの城都は広い。
それはアージェの知るどの町よりも大きく、外壁までを含めれば彼の生まれ育った村の数十倍はあるのではないかと思えるほどだ。
街の中央を通る大通りは丁寧に舗装され人通りも多く、その両脇には店々が立ち並び活気ある様相を呈している。
初めて見る繊細な硝子細工を、店の大きな窓越しに見つけたアージェは、つい歩みを緩めてそれを目で追った。
向かいからやってくる人間をかわしつつ、透き通った髪飾りを見やる。
光の当たる角度によってその輝きを変える細工物。
後ろをもたもたと追って来たカタリナが、彼の視線に気づいてか同じものを見つめた。
「何、少年、ああいうのつけたいの?」
「全然」
「意外と似合うと思うよ」
「ちょっとは人の話を聞いて欲しい。妹が欲しがりそうだなと思ったんだよ」
「なーんだ」
本気でそう思っていたのか残念そうな表情の女は、しかしすぐに「買ってあげればいいじゃん」と笑った。
けれどアージェは悪意のない言葉に苦笑しか返すことが出来ない。
「いつ帰れるか分からないし」
──── 帰ることが出来ないかもしれない、とは言わなかった。



硝子細工から視線を離し、人込みに視線を戻したアージェは、だがふとその中に見覚えのある影を見出し息を飲んだ。
行き交う人々の中に垣間見える黒色。
まるでそこの空気だけが蝕まれているように宙を漂う靄は、僅かに揺らぎつつ通りの中を移動している。
カタリナと二人歩いていたアージェは、それが例の靄だと判ると無言で方向を変えた。
何が靄を帯びて移動しているのか、彼は己の目で確かめようと動く。
「おーい、少年。置いてかないでー」
「今忙しい。自分でついてきて」
「迷子になっちゃう」
「知らない」
すげなくあしらうと、カタリナは不味いと思ったのかアージェの上衣の裾を掴んできた。ルトがその後をついてくる。
年上の女を引き摺って人込みを行く羽目になった彼は、振り払いたいと思いながらも、それまでの数倍周囲に気を使いながら黒い靄を目指した。
しかし彼らより余程身軽らしいその靄の主は、アージェが辿り付く前に路地を曲がり何処かへ消えてしまう。
いつの間にか靄の欠片さえ見失ってしまった少年は、足を止めると半眼で背後を振り返った。
「何で睨むの、少年」
「そういう気分になった」
「そりゃ仕方ないね。若いうちは人間狭量なものだし」
「もっと明確な理由があるんだけど」
そうは言っても何処へ行ったのかも分からないのでは仕方ない。
アージェは記憶に残る影に浮かないものを覚えつつ、宿へと帰ることにしたのだった。






イクレム城都に宿を取ってからまもなく、ダルトンは「古い知り合いに会ってくる」と言って出かけていってしまった。
そして日が変わった今日もまだ帰って来ていないのだが、彼は一行の中でももっとも心配が必要ない人間である。
ケグスも「おやっさんは元々一人で動くことが多いんだよ」と言うくらいであるし、いずれ帰ってくるのを待てばいいだろう。
その間アージェはカタリナの付き添いで身分登録に行って来た。
本当ならば彼女よりもずっとケグスの方が同伴者として頼りになるのだが、身分登録に関しては流れの傭兵よりも、学府に籍を置いているカタリナの方が保証人として確実らしい。
実際、受付においても役人からニ、三質問を受けただけで審査は難なく済んでしまった。
四日後には身分証を発行してもらえることになった少年は、宿に戻るとその旨ケグスに報告する。
椅子に座りながら半ばまどろんでいた男は、薄目を開けると欠伸をした。
「問題なしか。おやっさんが帰ってきてお前が身分証受け取ったら出発すればいいな」
「うん。── ああ、そういえば」
アージェは、背後でうろうろしているカタリナを気にしながらも、人込みで見かけた「靄」についてケグスに話した。
今まで忌まわしい事件と共に現れていたあれを、無視していいものかどうか、どうにも落ち着かない気分であったのだ。
男は少年の話に少しだけ眉を上げたが、「気にするな」と断ずる。
「こんな大きな街だ。人を殺した奴なんざごろごろいるだろうし、人死にも毎日のように出てるだろ。
 いちいち気にしてたらきりがない。ほっとけほっとけ」
「そりゃそうかもしれないけど」
「大体お前、それを言ったら俺だって……」
そこまでいって二人は同時にあることに気付いた。お互いの顔を見合わせて黙り込む。
盲点とも言える疑問。―――― ややあってケグスがアージェに尋ねた。
「お前、俺にもその変な靄見えるのか?」
「そう言えば見えない……」
「何で?」
「な、何でだろ」
傭兵であるケグスは、その剣によって人を殺したことが勿論ある。
アージェ自身彼の仕事に付き従ったことが数度あるのだ。にもかかわらず、そこに黒い靄は見えなかった。
この違いは何処にあるのか。
答を知っている者がいるとしたらもう一月以上も無言のままである「彼女」であろうが、アージェは自分から「彼女」に話しかけることはしたくなかった。
首を捻っていると、蚊帳の外にいたカタリナが「なになに?」と首を突っ込んでくる。
「何って、別に何でもない」
「お姉さんに聞いてみようよ、少年。街で出るような人死にと傭兵の出す人死にの違い?」
「いや……よく分からない」
「それはあれじゃないかな。『神の庭』内とそうでないものの違いじゃない?」
「神の庭?」
彼女のことであるから、どうせおかしなことしか言い出さないだろうと思っていた少年は、聞きなれない単語が出てきたことに緑色の目を丸くした。
ケグスは、というと、彼も知らないのか首を左右に振る。
カタリナは近くの椅子に座るとそこに積まれていた干し肉を手に取った。
「『神の庭』っていうのはこっちの神学用語なんだけどさ、ひらたく言うと『神様に許されてること』って意味なのよ」
「許されてるってこと? 殺人はそうじゃないって意味か?」
「違うよ、おにーさん。そうじゃなくて、『闘争は神によって許されてること』なんだよ。
 『神の庭』にないものは単なる一方的な殺人。―――― 戦いでの殺人は、全て神に祝福されている」
そう言って笑った女の目は、けれどその時まったく笑っているようには見えなかった。
アージェは瞬間ぞっとして彼女の顔を見直す。
しかしその時には既にカタリナはいつものカタリナで、干し肉を齧りながら悪意なくにこにこと笑っているだけだった。ケグスの舌打ちが聞こえる。
「そんなことは初耳だぞ。俺のやってることが神に祝福されてるって言われてもな。気色悪い」
「人によって解釈はそれぞれだし、文献にも偽書が混ざってるから断言は出来ないんだけど。私はそうだと考えてるよ。
 実際、西の大陸の口伝ではこう語り継がれてるんだよね。こっちの大陸を司った神は―――― 」

滔々と語られる女の言葉を遮ったものは、部屋の扉を遠慮がちに叩く音だった。
一番入り口近くにいたアージェが廊下を見てみると、そこに立っていた人間ははにかんで会釈する。
「ア、アージェ、こんにちは」
「……どうしてここが分かったんだ」
今日はありふれた木綿の平服を着ているレアは、もしかして街娘らしくしようと苦心してきたのかもしれない。
アージェは完全に外に出て後手に扉を閉めると、染みの一つもない真っ白な袖を無言で眺めた。
少女は水仕事などしたこともないのであろう繊細な両手の指を握り、彼を見上げる。
「今日は時間があって……」
「またどっか行きたいとか?」
「そうじゃないの。ただ遊びに来ただけ」
ぎこちなく微笑む彼女は青紫の瞳の奥に「迷惑だったらどうしよう」という恐れをちらつかせていた。
思ってもみない場所で思ってもみない人間と再会したアージェは、軽い驚きから自由になると頭を掻く。
「別にいいけどさ。今度はもう前みたいに―――― 」
「大丈夫。行き先があるわけじゃないから」
「ならいいけど」
安心感を得たアージェはけれどその時、前回のことについて彼女に何か苦情を言おうと思っていた気がして、内心で眉を寄せた。
だが、絶対言わなければと思っていた文句は何故か、どのようなものであったのかちっとも思い出せない。むしろそれについては既に話が済んでしまっているかのように、記憶の中から消え失せていた。
少年は正体の分からぬ不自然さに微かな苛立ちを覚えたが、その棘もすぐに薄れてしまう。
それよりも挨拶が済んだ今、目の前の少女をどうしようかと彼は頭の痛い問題に向かい始めていた。
前のように不審な場所に行くのも大変だが、特に行くところがないと言われても困る。
ここで立ち話をして、それだけで済むのだろうか。アージェは希望的な観測をしつつ閉めた扉に寄りかかった。
しかしその扉はすぐに背後へと引かれ、彼は慌てて体を戻す。
再び開かれた戸の隙間から顔を覗かせた女は、のんびりと間の抜けた声を上げた。
「少年、誰だったのー? って、恋人?」
「違う」
「すんごく綺麗な子なのにー。じゃ、友達?」
突然現れた女に対し、レアは反応に困っているようにも見える。
そんな少女を横目に見ながらアージェが「そんな感じ」と答えると、レアは少し驚いて―――― その後嬉しそうに微笑した。

宿の部屋はケグスとアージェで同じ部屋を使っているのだが、ケグスは入ってきたレアを見るなり「貴族の娘に深入りするなよ」と言い残して部屋を出て行ってしまった。
言われた本人はきょとんとしてアージェに問う。
「貴族……に見える?」
「思いっきり」
「その服可愛いけど、着慣れてないって分かるよー。見るからにおろしたてだし」
「そういうこと。生活感がない」
二人からきっぱり現実を指摘された少女は「次回は気をつける……」と真剣な顔で頷いた。
アージェは内心「次もあるのか」とげっそりしかけたが、それを表に出さなかったのは、頼りないレアに何処か危なっかしい妹の姿が重なって見えたからかもしれない。
カタリナが「勉強する」と言って部屋を出て行くと、アージェは自ら少女にお茶を淹れた。
宿の質素な室内が珍しいのか、きょろきょろと落ち着かないレアは、差し出されたカップに瞠目しながらも笑んで、それを受け取る。
「で、遊びに来たって言われても何もないんだけど」
「いいの。来てみたかっただけだから」
「まさか脱走したとか?」
少年の脳裏には刹那、何処かのお屋敷で娘がいなくなって皆が騒然としている様が克明に浮かんだ。
自分がそれにいつの間にか関わってしまっていると理解したアージェは、頭痛の始まりそうな額を押さえる。
「早く帰れば?」
「あ、大丈夫。今は私の代わりをしてくれる子が来たから」
「代わり? 身代わり?」
「そう。私に似てるの、その子。だから少しくらいは席を外しても平気なのです」
ありがたい話であるのかありがた迷惑なのか、アージェは返答を濁して話を切り上げた。
午後の柔らかい日差し。
少年は出窓に腰掛け一息つく。銀の指輪を嵌めた右手で、前髪を軽くかき上げた。
顔をあげ彼を見たレアは、自分の渡した指輪に気付いたのか表情を緩める。
光の加減か物憂げにも見える双眸。
深い青紫の眼は、世間知らずな令嬢というそれまでの印象とは異なり、何処か擦り切れたような倦怠をアージェに連想させたのだった。