羽を纏う 031

アージェが淹れたお茶が空になるまでの間、レアはぽつぽつと他愛無い世間話に興じた。
もっともそれは彼女自身のことを語る話というわけではなく、アージェについてちょっとした日常事を問うてくる彼女に、彼が答えていたというだけのことである。
大人たちから剣や字を学んでいると聞くと、レアは何故か嬉しそうに目を細める。
「確かに読み書きは出来た方がいいかも」
「ってみんな言うけどさ、難しい」
「大丈夫よ。アージェはギネイで育ったのでしょう? 
 ギネイの人間は発音が綺麗だから、すぐに覚えられると思う。綴りは全部発音に対応しているし」
「そうか?」
確かにもっと地方に行けば訛りがきついところもあると聞く。
それに比べればアージェはほとんど問題のない共通語を話せているのだが、だからと言って一朝一夕に読み書きが身につくわけではないだろう。少年は座っていた出窓から下りた。
「それより、こんなところで話してても退屈だろ」
「だ、大丈夫。そんなことない」
追い返されると思ったのか、レアは慌てて否定した。
どうしてそこまで挙動不審なのか。呆れつつもアージェは空になったカップを回収する。
「そうじゃなくてさ。どっか外に行くなら少しは付き合うってこと」
レアのことはよく知らないが、少なくとも妹のクラリベルは細工品の売り物を見ることが好きだった。
たまに行商人がそういったものを村に持ってくると、彼女は目を輝かせていつまでも張り付いていたのだ。
全ての少女がそういう趣味だとは限らないだろうが、少なくともこの小さな部屋で話題を探して閉塞しているよりは、外で買い物に付き合っていた方がまだマシだ。アージェの提案にレアは視線を彷徨わせる。
「外は楽しい?」
「店はいっぱいあったな」
「なら……少し行ってみたいな」
「いいよ」
少年が頷くと、彼女は嬉しそうに笑んで右手を差し出した。
それが手を取って欲しいという意味だと、遅れて理解したアージェは自分の左手に目を落とす。

この手で誰かの手を取る。
それだけの行為に、彼が僅かな抵抗を覚えていることは事実だった。
漆黒に染まった指先。人殺しの人外を宿し闇を手繰る手を、彼は忌々しく睨む。
だが皮の手袋に覆われた掌は、不意に白い手の甲に遮られ見えなくなった。
立ち上がってアージェの左手に己の手を重ねた少女は、あるがままに微笑する。
「行きましょう」
囁くような声には少しの揺らぎも感じ取れない。
小さな手を取った左手は皮越しにもその温かさを感じ取り―――― アージェは無言で頷いた。



室内にいるよりは気が楽だろうと思って連れ出した外だが、レアを連れて人込みの中を移動するのは、なかなかに大変なものだった。
アージェよりもきょろきょろと落ち着かない彼女は、すぐに通行人とぶつかりそうになってしまう。
その度に彼は少女の手を引いて、本人の代わりに回避行動を取らざるを得なかった。
面倒なことになる前にと、彼は道の端を選んで歩き始める。
その間レアは彼に手を引かれて、立ち並ぶ店々に見入っていた。窓越しに何かを見つけては小さな歓声を上げる。
「アージェ、これ綺麗」
「ああ」
彼女が指し示したものは、つい二時間程前にアージェが見ていた硝子細工だった。
多面体の硝子がいくつも散りばめられた髪飾りを、レアは穏やかな笑顔で眺めている。
その顔と窓の中を何度か見やって、少年は息をつくと店の扉を開けた。目を丸くするレアを連れて店内に入る。
店の奥にいた老齢の主人は、若い二人を片眼鏡を上げて見やった。
「いらっしゃい」
「あの髪飾りが欲しい」
「はいよ」
主人の節ばった指が髪飾りを取り上げ、アージェが代金を支払う間、レアは何だかよく分からないのかぼうっとその様子を見つめていた。
品物を受け取った少年がそれを彼女へ差し出すと、少女は青紫の目を限界まで見開く。
「え?」
「あげる」
「どうして?」
その反応をアージェは少し意外に感じた。
育ちがよいのであろう彼女は、こういった贈り物には慣れきっていると思っていたのだ。
それともありふれた硝子細工など、彼女にとっては贈り物の範疇に入らないのかもしれない。彼はそれを少女の手に握らせた。
「この前報酬を受け取りすぎたし。お返し」
「私に、くれるの?」
両手で髪飾りを受け取ったレアは、信じられないものを見るような目でアージェをじっと見上げてきた。
彼が頷くと少女はたちまち破顔する。嬉しそうに髪飾りを包み込む彼女を、アージェはほっとした気持ちと同量の後ろめたさで見つめた。
―――― 本当は、クラリベルに贈ってやれたらと思っていた。
だがそれは叶わぬ希望であるかもしれない。
であるならこのまま髪飾りの前を行過ぎていくより、何処か妹を思わせる少女に贈った方がいいように思えたのだ。
レアはいそいそと硝子の髪飾りを自身の髪に挿しこんだ。硝子の花が淡い金髪の光を反射して輝く。
「に、似合う?」
「うん」
それだけの肯定に、少女は幸せそうに頬を染めて笑った。



大通りを回り宿へと戻る帰り道は、あえて人の少ない裏道を選んだ。その方がレアの挙動に気を使わなくていいと、アージェは考えたのだ。
隣を行く少女は建物の隙間から覗く空を見上げる。
「アージェは今、剣とか文字とか習っているけれど、大人になったらどうするつもりなの?」
その質問は、不思議な記憶の揺れをアージェにもたらした。
以前も似たような会話を交わしたような、そんなことなどなかったような違和感。
少年は頭を一つ振って頭の中の靄を振り払った。
「分からないな。特に決めてない」
「でも傭兵の人たちについて旅をしているのでしょう? あなたも傭兵になるの?」
「旅をしているのは目的があるからだ」
言いながらアージェは、今は繋いでいない左手を上げて見せた。
レアは一瞬怪訝そうな目をしたが、彼の手の色のことを思い出したのか「ああ」と小さく嘆息する。
「でも」
彼女が言いかけた言葉は、そこで途切れてしまった。
二人の間に沈黙がたゆたう。アージェはそれを不快と思わずに歩を進めた。半歩遅れてレアがついてくる。
通りに面した家は、夕暮れが近い為か窓を閉める手も時折見られた。
子供の笑い声が何処か遠くから響いてくる。
微温湯のような空気。無理に入り込んでこようとしないそれに、少年はささやかな安心感を抱いていた。軽い足音がいつまでも続いていくような錯覚さえ覚える。
近すぎず遠すぎない距離。少女の声が遠慮がちに囁いた。
「アージェ」
「うん」
「あの、あなたがもっと大人になって、その時もし気が向いたのなら…………私のところに、来ない?」
言われたことを理解するのに、数秒を要した。
唐突な提案。その意味を認識するとアージェは思わず足を止める。振り返ってレアを見やった。
「何で?」
「な、何でって……でもそうだったらいいなって……私の、騎士に……」
「知ってるだろ。俺の手のこと。これ治るかどうか分からないんだぞ」
貴族のことを大して知っているわけではないアージェだが、自分のような人間が彼女に取り立てられるのはおかしいということは分かる。
実の親が誰かも分からない。田舎出の、何の取り得もない人間だ。
おまけにこの左手があるとあっては、雇う利点がないと言っても過言ではないだろう。
卑屈になるつもりはなかったが、事実を楽観視する気もない少年は、レアに呆れ混じりの目を向ける。
しかし少女は少し悲しそうな顔をしただけで、自分の発言を撤回する気はないようだった。感情が揺れ動いているのか、青紫の瞳が少しだけ赤みがかって見える。
「気を悪くしたならごめんなさい」
「別に悪くしてない」
「でも、私は本当にそう思っていて、あなたが……」
彼女はそこで頭を振る。頭が痛むのか、白い手がこめかみを押さえた。アージェが心配に表情を変えると、彼女は軽く手をあげてそれを留める。
「ごめんなさい」
「調子悪いのか?」
「大丈夫」
微笑んだレアは、すっかり平常を取り戻しているように見えた。
木漏れ日のような笑顔。彼女はふっと笑うと右手を伸ばす。
差し出された手に、アージェは逡巡の目を注いだが、結局左手でその手を取った。そうして欲しいと、望まれているような気がした。
手を繋いで歩き出した二人は、どちらからともなく空を仰ぐ。
薄い朱色に染まった夕暮れの空は、同じ色の雲が影を帯びて流れていた。
何の感情も共有しない一時、少女の手がそっと彼の手を握りなおす。
「あのね、どうしてかって聞かれたら、理由はいっぱいあるのだけれど……」
「うん」
それが先ほどの話の続きだと分かったアージェは、空を見たまま頷いた。
少女の声が反射して頭の中に響く。
「私のこと、友達って思ってくれて嬉しかったから……」
温い風。
少女の呟きは、その流れに乗って空に溶けた。
やがては雲へとたどり着くのだろう風をアージェは見送る。視界の端を淡い金髪が泳いだ。
「私も、あなたの友達になりたかった」
長い時を共に過ごし、そして別れていく人間のような言葉。
レアはそう言って笑うと、アージェの手をきつく握った。






広い城都の片隅、昼も大して日の差さぬ路地裏を、深夜一匹の鼠が走っていく。
それは道端に置かれた箱の裏を通り、細い溝の中を抜け、ついに細い路地の袋小路へと辿りついた。
鼠は灰色の体を震わせると、おもむろに地に転がっていた死肉へと食らいつく。
冷たい死肉が元は持っていたのであろう白く滑らかな皮膚は、既に大半が剥ぎ取られており、乾いた赤い表面がむき出しになっていた。血もあまり出ないそれに、新たな鼠がまた一匹、一匹と群がっていく。
止める者のない食事。
やがてそれらは耳障りな咀嚼の集合となって夜の空気を震わせた。
あたりに漂う黒い靄が袋小路の中で広がっていく。

昼過ぎから行方知れずになっていた商家の若い娘が、無残な死体となって発見されたのはその翌朝のことだ。
皮を剥がれ血を抜かれ、死後鼠に齧られた遺体は、引き取りに来た父親が思わず嘔吐するほどの、正視に耐えないありさまだったという。