羽を纏う 032

レアは、その翌日も遊びにやって来た。
服装を何とかしようと苦心したらしく、その日は子供の着るような平服を着ていたが、やけに厚手の布であるところといい違和感は否めない。しかしアージェはそれに苦笑しただけで、強く注意しようとはしなかった。むしろ挙動不審な彼女に言ってやる。
「レアはさ、顔立ちとか立ち振る舞いがもう上流階級なんだよ。服装だけ変えても余計おかしくなる」
「そ、そう?」
「うん。普通でいいよ。最初に会った時みたいなの」
少女は赤い裾を引いてきょろきょろと自分の服装を見回していたが「分かった」と笑った。
「それで? 今日も外に行く? 北側にしようか」
「よろしくお願いします」
頭を下げる少女の手を引いて、彼は街に出て行く。
それはアージェにとって、居心地の悪さと不思議な安堵感を同時にもたらす、微温湯のような時間だった。

レアを連れて街を歩いていた彼が、再び黒い靄に遭遇したのは単なる偶然でしかないだろう。
先日のように大通りから脇道へと抜けていく靄。たまたまそれを見かけたアージェは思わず早足になった。
レアが慌てて小走りになる気配を感じ、彼は振り返る。
「ごめん、ちょっと」
「何か見つけた? 大丈夫、ついていくから」
「うん」
レアは危なっかしいと言ってもカタリナよりはマシであるらしい。
背後をついてくる彼女を引き離しすぎないよう、アージェは人込みの中を縫って路地を曲がった。
途端に人通りが減ったその道を、靄の残り滓を追って少年は走る。二つ目の角を更に右へと折れた。
―――― そうして彼は、視界にようやく黒い靄の本体を捉える。
追っていた人影、靄を背に纏い歩いていた人物は、二人を軽く振り返ると道の端に避けた。
いたって普通の反応に、アージェは肩透かしを食らって足を止める。急に止まった為か、背中にレアがぶつかった。
「うっ」
「ごめん」
それだけの会話で不審に気付いたのか、避けていた彼女は改めて振り返った。
中流階級の娘なのであろう、小奇麗な服装と淡い香水の香り、滑らかな白い肌と艶のある黒髪が、育ちのよさを窺わせる。
美人というより愛らしいという顔立ちは、負とは縁遠いもののようにアージェには見えた。
しかしその背には今も黒い靄が漂っている。娘はきょとんとした目で二人を見やった。
「あの、何か?」
―――― 今までがそうであったように、この靄も娘本人の目には見えていないのだろう。
アージェは一体彼女にどう対応すべきか、ここに来て悩んだ。まさか「人を殺したか」などと面と向かって聞くことは出来ない。
彼はそれでも何かを言わなければと口を開く。
「な、名前を……教えて、欲しいんだ、けど……」
言ってしまってから、不審な上に何の意味があるのかと気付いたが、レアよりも年上に見える娘はくすりと笑っただけだった。
おそらくアージェの年齢と、彼の後ろに張り付いている少女からして、何かの遊びと思ったのだろう。
大して気にした様子もなく、名前を教えてくれる。
「ベルというのよ。これ、何の遊び?」
「あー、遊びじゃなくて、えーと」
こんな時にケグスがいてくれたなら上手いことを言ってくれたのだろうが、アージェには何も思い浮かばない。
結局彼が聞けたのは「最近何か変わったことがあったか」というものだけで、ベルは「何もないわ」と笑ってその場から立ち去ってしまった。
彼女の纏っていた黒い靄の残滓だけが残された路地で、アージェは頭を抱える。
「不味い……どうしよう」
「アージェ?」
「あー……うん」
服の裾をしきりに引っ張られ、少年は振り返った。見るとレアが少し膨れた顔で彼を見上げている。
彼女も自分の機転のきかなさを責めているのだろうか―――― そんなことをアージェが思った時、レアは不満げな表情で自分の顔を指差した。
「アージェ、私は?」
「うん?」
「名前名前」
「レアだろ」
「…………」
聞かれたから答えたのだが、それは彼女の望んでいた答ではなかったらしい。
凹んだ顔で俯いてしまったレアは、しかし気を取り直したのかすぐに顔を上げた。両手でアージェの服を掴み懇願する。
「名前を、聞いて」
「え?」
「私の名前も」
「…………」
今度沈黙してしまったのは、意味の分からなさに悩んだアージェである。
レアの名は既に自分から名乗って知っているというのに、何故もう一度聞かなければならないのか。
それとも彼女までこれを何かの遊びと思っているのか。アージェは面倒くさくなって請われるままに質問を返した。
「分かった。名前を教えて」
「レアリア」
「あれ」
「レアリア・ルウザ・ディエンティア・ディテイ・ケレスメンティア」
初めて聞く長い名を一息で言い切った少女は、驚くアージェを見上げ嬉しそうに笑う。
安堵しきったような、全てを預けてくるような微笑。
その笑顔に思わず見入っていたアージェは、我に返って正体の分からぬ落ち着かなさを覚えた。少女の瞳から目を逸らす。
「長すぎて覚えられない」
「いいの」
レアリアは目を閉じた。
そうして微笑む彼女の貌は掛け値なしに美しく、その日別れた後も少年の印象に残ったのだ。






「また犠牲者が出たのか」
苦々しい男の声に、報告書を持ってきた文官は恐縮して頭を下げた。
執務室内に満ちる空気は怒りに少量の悔恨を混ぜたもので、それはこの事件が既に十五人の犠牲者を出していることから言って無理からぬことであろう。書類を捲っていた男はそれを机上に放り出すと、大きな溜息をついた。
「犯人の目星はついていないのか」
「申し訳ありません、殿下……」
「一刻も早く洗い出せ。これ以上は民に不安が広がる」
イクレム王太子フィレウスは、もう何度目かも分からぬ命を下す。
眉間に寄った皺に彼の少なくない苛立ちが窺え、文官は慌てて頭を下げた。
退出する臣下を見ずに、フィレウスは別の新たな書類に目を落とす。

―――― 三ヶ月という短期間で、十五人の若い娘が惨殺された。
それも魔物などの仕業ではない。明らかに人間が刃物を使って犯行を行っている。
犠牲になった娘たちはいずれも中流以上の家の出であり、中には伯爵家の娘も混じっていた。
皮を剥がれ、血を抜かれるという猟奇的な犯行。だが現状、犠牲者たちの間にそれ以上の共通点は見られない。
少しずつ広まる噂に加え、他に若い娘を持つ貴族たちから対応を迫られていることもあり、有能で知られる王太子はここしばらく頭の痛い思いを味わっていた。
「皮や血など、集めて何に使うのだ?」
疑問を口に出してみても、次期王としての道のみを歩んできたフィレウスには到底答となるものは思いつかない。
彼はもともとのきつい顔立ちにより一層の険を乗せて、今までの犠牲者たちについて記された調査書を睨んだ。

だが、彼の命も虚しく、この二日後には十六人目の犠牲者が発見される。
城に仕える将軍の娘ベル・ウルラ。
買い物に街に出たまま帰ってこなかった彼女は、帝都の路地裏で皮膚を剥がれた体を人目に曝すことになったのだ。






アージェの一日は、文字の勉強に約二時間、そしてそれ以外の空き時間ほとんどを剣の修行に費やしている。
大人たちから見ると、どちらにおいても勤勉で飲み込みのよい生徒であるアージェは、何もせずに休むということがあまり得意ではないらしい。その分なかなかの速度で二種の勉強の成果をあげていった。
カタリナは、例文をアージェに音読させると、もっともらしく頷く。
「出来てるじゃん、少年。いい感じだよ」
「書く方が難しい。これ、やっぱり書けた方がいいの?」
「そりゃね。すぐ覚えられるよ。平気平気」
「指が凝りそう」
「じゃ、ちょっと実践的なことしてみようか」
カタリナは机の端に重ねてあった紙の束から一番上に乗っていた一枚をアージェに渡す。
それは何かの告知書らしく、印刷された活字が整然と並んでいた。少年は四苦八苦しながらそれを読み上げる。
「えーと、もくげき、しゃ、は、しょうげん、を、もとむ。ころされた、むすめは……って殺された!?」
「どうしたの。早く読みなよ」
「っていうかこれ、例文にするような文章じゃないんじゃないか? 何て書いてあるんだよ」
「それ私が読んじゃったらしょうがないじゃなーい。ほら続き読む」
「いやだから……」
カタリナに危機や危急という単語がこうまで欠如しているのは何故なのだろう。
アージェは自ら文章にかじりつきつつ、彼女を急かして告知書を解読した。
その結果、ここ三ヶ月帝都に起きている連続殺人事件と―――― もっとも新しい被害者の名を知る。
「ベル?」
「ベル・ウルラ。将軍の娘さんだねえ。気の毒に」
「そうじゃなくて」
それは、この間街で会った黒い靄の娘ではないのか。
アージェは彼女の容貌が書かれていると思しき文をペンでなぞった。何とかそれを読み上げる。
「くろ、の、かみ、灰いろ、の、め。せ、はたかくなく……」
読み上げていく特徴は、いずれも彼の知る「ベル」と合致する。アージェは背筋の冷える思いに告知書から顔を上げた。
「殺された? あの人が?」
「酷いよねー。身なりのよい子を選んで、攫って皮を剥いだりするみたい。
 魔法の禁呪か何かに使うのかな。変質者かな」
カタリナの感想を聞きながら、アージェは必死に頭を働かせていた。
もしあのベルが殺されていたのなら。彼女はあの時、生きているにもかかわらず既に黒い靄を纏っていた。
それはすなわち近い未来の無残な死を予告していたのだろうか。靄はそのような意味も持っているのか。
アージェの指はこつこつとせわしなく机を叩いた。
だが何らかの結論が形となる前に、少年の思考はやって来た人間によって霧散する。
欠伸をしながら部屋に入ってきたケグスは、室内を見回すと意外そうな声を上げた。
「今日はあの娘来てないのか」
「え?」
「そう言えば来てないねー。今日も来るって言ってたのにね」
思考の空白。
何かが倒れる音が、部屋に響いた。
自分の座っていた椅子が倒れたのだと、アージェは理解しながらもそこに意識がいかない。
突然立ち上がった彼をカタリナが目を丸くして見上げる。
「どうしたの、少年?」
「レアは……」
街娘の服装は似合わないと、言ったのは彼だ。だから前のような服でいいと。
初めて会った時彼女が着ていた服は、簡素な形の、だが上質な服だった。見るからに身なりのよい貴族の娘。
もしまだ現れない彼女が、殺人犯の目に留まっているのなら――――
「アージェ、どうした」
「……ごめん。ちょっと出てくる。レアが来たら待ってろって言って」
単なる杞憂であればいい。
そう思いつつ、アージェは宿を駆け出していく。
まだ充分に明るいと思っていた空は、いつの間にか日が傾きかけていた。