羽を纏う 033

水につけた両手は冷え切って感覚がない。
だが彼女にとってそれは毎日の仕事のうちであり、取り立てて不満を言うようなことでもなかった。
洗い物を終えた少女は赤くなった手を桶の中から引き上げる。あかぎれだらけの指を布で拭き、息を吐きかけた。
辛いことはない。裕福ではないが、両親も弟も健在で、皆仲良く暮らしている。
食うに困るというほどでもない。中流階級の娘のように、装飾品にかけるような自分のお金はなかったが、母が仕立ててくれた服に自ら気に入りの刺繍を施せば、それで充分華やかな気分になれた。

人は時折彼女のことを「欲のない娘」と言う。中には「望めばもっと綺麗になれる」と勧める者もいた。
だがそれは、どうしてもと言うほどの望みには思えないのだ。
自分が着飾り美しくなることよりも、家族で温かい食事を囲む方が、彼女にはずっと幸福なことに思える。
こんな自分を「変わっている」と同じ年頃の娘たちは笑うが、変わっていようともそれで構わなかった。
娘は一息つくと、痛む両手に目を落とす。
そしてふと、あることを思い出し顔を輝かせると、彼女は戸棚にしまった箱の中から小さな軟膏の容器を取り出してきたのだった。






アージェが部屋を飛び出した時、彼についてきたのは部屋の隅で寝ていたルトだけだった。
少年の様子のおかしさを感じ取ったのか、それとも気紛れか、灰色の犬は彼の二歩後ろを走ってくる。
しかしアージェはそれにも気付かず外の通りに出ると左右の往来を見回した。
まばらに見える人影。その中にレアの姿はない。彼は少し逡巡したが、右の方へと走り出す。
レアが何処に住んでおり、どうやって遊びに来ているのか、アージェは知らない。
遅くなった日に一度「送っていこうか」と聞いてみたが、彼女は「すぐに帰れるから平気」と笑ったのだ。
もしかして誰か送迎をしてくれている人間が他にいるのかもしれない。
アージェは彼女がどの道を通ってきているのか、分からないながらもまず大通りに向かった。途中の路地を一本一本覗いていく。

―――― 余計なことは考えない方がいい。
そう思いながらもアージェの思考は回り続けてやまなかった。まるでいつか夜の森を走った時のように。
レアが今何処にいるのか。
何故、自分の前に現れるのか。
どうして彼女が自分のことを気に入っていて、そしてそんな彼女のことを自分がどう思っているのか。
疑問符は入れ替わり立ち代りその存在を主張して、だが答は一つももたらされない。
ただ些細なことに一喜一憂して表情を変えるレアの貌だけが、迷う必要もない温かさを帯びていた。
少年は、石畳を蹴ると方向を変え大通りに飛び込む。その時、後ろから足に何かがぶつかった。
「ちょっ……」
思わず転びそうになって態勢を立て直すと、更に服の裾を後ろに引っ張られる。
何かと思って振り返ったアージェは、ルトが足下で彼の服を咥えているのに気付いた。思わず批難が口をつく。
「お前なぁ!」
「ア、アージェ……」
彼の数歩後ろから聞こえてきた声。
弱弱しい呼び声は、息がすっかり上がって途切れ途切れになってしまっていた。
アージェは驚いて、上下する金髪を見下ろす。
両手を膝について何とか呼吸を整えようとしている人間。小柄な体の少女は―――― たった今まで彼が探していた人物その人だった。
激しく上下していた肩がようやく落ち着くと、レアは顔を上げる。
「アージェ、どうしたの……?」
「……どうしたのって」
「全然、おいつけ、なくて、死ぬかと……おもった……」
「…………」
いつから彼の後を追いかけてきていたのか。とりあえずレアは呼吸困難で倒れそうになっている以外は無事のようである。
アージェはそうと分かると今まで焦っていた分、恥ずかしさに憮然となった。薄紫の服に覆われた少女の肩口を睨む。
「……ちょっと体がなまってたから。走ってこようと思った」
「そ、うなの?」
「ああ。それだけ」
足下から見上げてくるルトの視線が痛かったが、少年は強引に頷いて話を終わらせた。
レアは呼吸が戻ったのか、体を起こすと困ったように微笑む。
「置いていかれるかと思って、一生命走ったんだけど、足がもう駄目で……普段走らないから」
「宿で待っててよかったのに。走るような格好じゃないだろ」
突き放すような言い方になったことに、口にしたアージェ自身後ろめたさを感じたが、レアは気にしていないようである。
いつもとは違う裾の長い長衣を、彼女は指で摘んだ。
「今日、見張りが多くて……抜け出そうとしたら着替えている時間がなかったの」
淡い紫の長衣は、薄絹を何枚か重ねてあちこちを青い紐で止める作りになっていた。
何処か非現実めいて祭祀のような雰囲気を醸し出す服は、初めて彼女を見かけた時着ていたものと同じである。
アージェはそのことを口にしかけて、だが声になる前に言葉を飲み込んだ。あの時のことをレアが何故か触れて欲しくなさそうにしていたことを思い出したのだ。

普通に歩いていても裾を踏みそうな服を一瞥して、アージェは右手を差し出す。
レアは少し驚いた顔をしたが、嬉しそうに己の手をそこに重ねた。
空いている手で裾を持つ仕草は優美で、彼女が洗練された立ち振る舞いを持ち合わせていることを、見る者に気付かせる。
二人と一匹は、来た時とはうってかわって緩やかな歩みで道を戻り始めた。
アージェは、隣で空を見上げている少女を盗み見る。
「レアはさ、見掛けが貴族なんだから、もうちょっと護衛と一緒に来るとかした方がいい」
「そ、そう?」
「身代金目当ての悪い奴に誘拐とかされたらどうすんの」
今、この街で若い娘を殺している人間の目的は、不明のままだ。少なくともそれは金ではないだろう。
レアは青紫の目を二、三度瞬かせた。
「も、もし、私が誘拐されたら……アージェは助けに来てくれる?」
「助けない」
「う」
「自衛をする気がない人間は助けない。分かったら気をつけること」
冷たい声音で注意すると、レアは不安そうな目で彼を見上げる。だが結局黙って頷いた。そのことにアージェは安堵する。

もしこれからも彼女が自分のところに来ようとするなら、物騒な事件の起きているこの街を、そろそろ出た方がいいのかもしれない。
だが身分証は貰ったものの、まだダルトンが戻ってきていないのだ。
彼ら全員の宿代は、ダルトンが初日にまとめ払いをしてくれたのだが、それは元々長く外出する為の配慮だったのだろう。
アージェは初対面の時よりも少しだけ低く見えるようになった少女の頭を見下ろす。
一度は聞いた彼女の本名。だがそれは長すぎて、「レア」が本当は「レアリア」なのだということ以外、記憶に残っていなかった。
何だかもやもやした気分に駆られ、アージェは空いた手を上げ伸びをする。
―――― その時視界の端に、何か黒いものが映った気がした。

彼が反射的に振り返った時、それはまだそこに在った。
あの日と同じく黒い靄を纏わりつかせた娘。
しかしそこに違和感を覚えるとしたら、その少女は今までの犠牲者と違って、清潔ではあるが質素な格好をしていたということであろう。
後で一つに結んだだけの髪。洗いざらしの木綿の上衣は色褪せて、裾が擦り切れて見える。
遠目に窺える横顔は、造作自体は愛らしくあったが、それよりも垢抜けなさの方が目立っていた。
アージェは「身なりのよい上流の娘」とはお世辞にも言えない少女を見ながら、つい首を捻ってしまう。
そんな彼の手をレアが隣から引いた。
「誰を見てるの?」
「あそこにいる人」
「何で?」
「気になるから」
端的に答えたアージェは、少女が路地の角を曲がったのを見て後を追う。その際繋いだままの手に気付いた彼は、レアに宿屋へ先に帰っているよう言おうとした。振り返り―――― 何故か膨れ顔の少女に若干気圧される。レアは半分以上据わった目で少年を見つめていた。
「アージェ?」
「ちょっと用事出来たから、レアは宿に……」
「私も行く」
「いや危ないかも……」
「私も行く」
「…………」
何だか岩のように固く動かなそうな意思を感じるのは何故なのだろう。
アージェは小さな悪寒を覚えたが、そのようなことに拘泥している場合ではない。彼は、絶対離すまいと握られている自身の手を見下ろした。
「分かった。じゃあ俺とルトから離れるなよ」
「うん」
「あと不味いことになったら逃げて宿に行くこと」
「え?」
「行くこと。じゃなかったらつれてかない」
早くしなければさっきの娘を見失ってしまう。口早な確認にレアは不承不承の様子ではあったが頷いた。
二人は見えなくなった娘を追う。






「望めばもっと綺麗になれる」と、その人物は言った。
だが彼女にとって、それは強いて望むことでもなかったのだ。
だから彼女は、その人物が好意でしてくれるという施術を断った。そしてその代わりに、小さな軟膏をもらったのだ。
よい匂いのする軟膏。白く滑らかなそれは、荒れた指につけると奥まで染み込み、染み付いた痛みも癒える気がした。目の錯覚か、心持ち肌がすべらかになったようにも思える。
それは初めて経験する充足感だった。
自分の外見を磨くという喜び。遅ればせながらそれを知った彼女は、胸の弾む気分で街に出る。
ほんの少しの軟膏でこれ程変わるのなら、勧められた施術を受けたらどうなるのか。
単なる垢抜けない娘でしかない自分が、はたして「綺麗」と言われるようになれるのか。
心の底に小さく芽生えた欲。
それは目に見えぬ翼のように、少女の心を浮き立たせた。
だが彼女は知らない。
その欲が何から生まれ、何に繋がっているのか。
そして路地裏を行く自分の後を二人の人間がそっと追っていることも、彼女は少しも気づいていなかったのである。