羽を纏う 034

今、追っている少女が一連の事件に関係あるのか否か、それは一つの賭けであろう。
ケグスではないが、ここが大きい街である以上、ちょっとした事件の類はおそらく溢れかえっている。彼女の纏う靄もそれに起因するものかもしれないのだ。
だがアージェは、彼女の様子が今までの犠牲者とは違うということを差し引いても、その後を追うべきだと考えていた。
ベルの時は言葉までかわしておきながら別れてしまったことで、既に取り返しのつかない事態になってしまっている。
あの時自分が何をしていたら彼女の死を防げたかと言ったら分からないが、やる前から結果を決め付けることもない。最低でも今追っている少女が何処かに着くまでは様子を見ようとアージェは決めた。
少女は裏路地を歩き慣れているのか、複雑に入り組んだ道を迷いもなく分け入っていく。
後ろを振り返ることのない彼女の後を追うことは、レアをつれていても容易かった。
やがて少女は奥まった道の途中にひっそりとある扉を叩く。扉は中から開かれ、彼女はその中に入っていった。

アージェは戸が閉まってからしばらく、足をしのばせてその傍に近づく。
しかし看板も何も出ていないそこは、店なのか家なのかさっぱり分からなかった。
窓もない為中の様子も窺えず、彼はお手上げ感に小さく唸り声を上げる。レアが怪訝そうな顔で首を傾いだ。
「どうしたの、アージェ」
「中で何してるのか知りたい」
「何で?」
「皮を剥がれたりしてたら困るな、と」
奇妙な会話に二人は顔を見合わせた。
レアは、やはりこの街の人間ではないのか、それを聞いても連続殺人事件のこととは思わなかったらしい。変わらぬ表情で「分かった」と頷いた。
そしてそのまま、彼女は問題の扉を叩く。
「ちょっ、レア!?」
「すみません、どなたかいらっしゃいますか」
豪胆と言うか、何も考えていないというか、突然の行動にアージェは焦ったが、今更レアを引き摺って逃げ出すのも不審である。所在なくその場で待つこと十数秒。扉は先ほどと同じく中から開かれた。
現れた人物は意外にも若い女で、手の行き届いた美しい容姿をしている。背の高い彼女は驚いた目で二人を見下ろした。
「あら、あなたたち……何かしら」
「ついさっきここに入っていく方を見かけたのですけれど、私が探している方と同じ方か知りたく思いまして」
「さっき?」
女の目が一瞬細められる。
だがそれに気付く以前に、アージェは先程から慄然とした感覚に捕らわれていた。
女の体越しに窺える室内。そこは暗くて中がよく見えない。
昼にもかかわらず光が差していないというわけではない。室内に黒い靄が充満して、彼の視線を遮っているのだ。
アージェは山間の村で死体が押し込められていた倉庫のことを思い出す。漂ってくる甘い香りが死臭にしか思えず、鼻を押さえた。
女はそんな少年を冷ややかに見下ろす。だがそれも刹那のことで、彼女は柔らかな笑顔になるとレアに返した。
「なら中に入って彼女に会ってみたらどうかしら」
「いいのですか?」
「ええ、勿論。ただごめんなさい。この店は女性しか入れないことになっているのよ。
 だから君は先に帰っていて。いいかしら?」
「よくない」
彼が強い口調で即答したことに、驚いたのは女よりもレアの方であるようだった。
彼女が目を丸くして隣を見る間にも、少年はきつい眼差しで言い募る。
「俺はレアの護衛だから、離れることはしない。中に入れられないっていうなら彼女をここまで連れてきてくれ」
「……随分あつかましいことを言うのね、坊や」
二人の視線が衝突した場所から、剣呑な空気が漏れ出す。
アージェはしかし、怯む様子は少しも見せなかった。彼はレアの前に立つと女を見据える。
「そもそもここは何の店なんだ? 出来ればそれを教えて欲しい」
無礼とも挑戦的とも取れる態度。
だが女はそれに怒りだしはしなかった。赤い粉を引いた目尻を下げ、艶かしく微笑む。
「そうね、あなたたちはそれを知らないのよね。
 ―――― ここは女性一人一人の為に膏薬を調合する店なの。
 肌を滑らかにしたりよい香りをつけたり、内側からお客を美しくする為の手伝いをしているのよ」
美しい女は悪意の欠片もない笑顔でそう告げる。
アージェはしかし、女の白い十指が黒い靄で汚れているのを見て、唾棄したい衝動に駆られたのだった。






はじめは単なる効果の追求しか頭になかった。
どの素材をどれだけの割合で調合すれば、より肌に染み込むか。
芳しい香りをもたらし、艶と張りを生み出せるのか。そんなことをひたすら考えていた。
金には困っていなかった。
彼女の顧客は皆上流階級の婦人たちで、己の美の為なら何を犠牲にしても構わないと思っている人間も少なくなかったのだ。
彼女は充分な援助を受けて多くの膏薬を生み出し、それを女の体の何処にどれだけ塗りこめば効果的か、また何処を指圧しどのような薬を飲ませれば体質が改善されるのか、施術の腕にも精通していった。

ある日突然持っていた店を閉め、彼女が路地裏へと引きこもったのは、顧客たちの限界にいい加減腹が立ったからだ。
どれ程彼女が苦心しようとも、婦人たちは食に、色に溺れ、そのだらしなさで体を内部から爛れさせてしまう。
磨き上げた肌に厚く白粉をはたき、見苦しく覆い隠しては再び肌を萎れさせる。
まるで不毛な繰り返しだ。
彼女はいくら注意しても治らない彼女たちの性向に嫌気が差すと、それまでの蓄えを持って路地裏に看板のない店を開いた。
そして今度はよい素材を元として選び―――― つまり若い娘たちを相手に調合を始めたのである。
だがまもなくして、それにも飽いた。






「ねえ、お嬢さん。見たところあなたはとても綺麗ね」
甘い香りを伴ってかけられた言葉に、しかしレアは喜びはしなかった。状況を見極めようとする目で、女とアージェの背を見つめる。
その様子に女は二人の信頼関係を感じ取ったのかもしれない。楽しそうに喉を鳴らして笑った。
「でもね、お嬢さん。あなたはそうやって恵まれている分、大事なことを忘れているのかもしれないわよ?」
「大事なこと?」
「そう。それを忘れた子はみんな、外側だけ綺麗な肉人形と変わらないの。
 折角私が手を尽くしても何にもならない……困ってしまうわよね」
女が何を言おうとしているのか分からない。
だがアージェはそう思いつつも、開かれたままの扉からどんどんと外に染み出していく靄に気付いていた。
一体どれだけの靄が中に立ち込めているのか。中を見たい気持ちと知りたくない嫌悪感が共に沸き起こる。
彼は吐き気を堪え、自らの手で扉を押さえた。
「ベル・ウルラを知っているか」
もっとも新しい犠牲者の名前。
それは、場の空気を変える一石だった。
女の赤い唇が吊りあがる。
踊ることをやめた道化のように、その表情は忌まわしさをもって少年の目に映った。彼は手袋を嵌めた左手を握る。
黒い靄を纏わりつかせた十指が、アージェの顔へと伸ばされた。
女は包み込むように両手を彼の頬に添えると、上から顔を覗き込んでくる。
「何故、そんなことを聞くの? ねえ、ねえ?」
「言われなければ分からないのか? 分かっているんだろう」
「言いなさい、坊や」
触れられた場所から靄が首筋を滑り落ちていく。
その嫌悪感を堪えて、アージェはきっぱりと言い放った。
「お前から人の死臭が出ているからだ」
レアの両眼が大きく見開く。
女は刹那動きを止めると―――― 次の瞬間何かが焼き切れたように、けたたましく笑い出したのだった。






施術をするからと、上を脱いで施術台の上うつ伏せになってから、既に十分近く待たされているような気がする。
女主人は来客に出て行ったようだが、まだかかるのだろうか。
少女は肌寒さに身を震わせると起き上がった。脱ぎかけの服を羽織り、小さな部屋を見回す。
壁は一面作り付けの棚になっており、そこには大小さまざまの小瓶が所狭しと並べられていた。
少女はその中に、薔薇の花弁を香油に漬け込んでいるらしい小瓶を見つけ、施術台から下りる。
淡い薔薇色の液体に引かれ、彼女は棚の下まで行くとそっと手を伸ばした。ひんやりとした小瓶は彼女の掌中に納まる。
―――― きっとこの一滴が、自分には想像もつかないほど高価なものなのだろう。
女主人ははっきりとは言わなかったが、ここの顧客には貴族の娘もいるらしい。
彼女たちは皆惜しみなく自身の為に香油を使い、膏薬を摺り込んで美しく咲き誇る。
それを羨ましいと、これまでであれば彼女は思ったりはしなかった。
だが今は、ほんの少し、ほんの一滴、ねたましさを覚える。少女は香油の小瓶を目の上にかざして溜息をついた。

女主人が彼女に声をかけてくれたのは、共用の井戸に水汲みに出ていた時のことだ。
彼女自身今まで気づかなかったが、女主人はしょっちゅう井戸に来て、彼女のことを見ていたらしい。
辛い仕事を生き生きとこなしていると誉められ、妙に照れくさい気持ちになった。
それから何度か話をするようになり、ある日勧められたのだ。
「もっと自分の魅力を引き出して、美しくなってみたくはないか」と。
その時はてっきりからかわれているだけかと思ったが、女主人は冗談ではないという証拠に彼女に軟膏をくれた。
そしてそれは本当に、目の覚めるような変化をもたらしたのだ。
水仕事の痕が分からなくなるほどすべらかになった肌を見て、少女は小さな欲を抱いた。
もう少しだけ、もう一度だけ―――― 彼女がそんな誘惑に駆られてしまったことは無理からぬことだろう。

香油の瓶を元の場所に戻すと、彼女は別の大きな瓶を両手で持ち上げる。
何が入っているのかと覗き込んだ少女は、香油の詰められた底に何かが敷かれているのを見て目を凝らした。
白く、滑らかな何か。質感からいって布ではない。
不思議な艶かしさを放つそれをじっと見ていた彼女はしかし、あることに気付いて凍りつく。
柔らかく広がる何かには……それが生き物であったことを示す毛穴が見て取れたのだ。
それは紛れもなく、女の肌だった。

少女が思わず悲鳴を上げようとしたその時、入り口からは耳障りな哄笑が響いた。