羽を纏う 035

慌てて部屋を出てきた為、アージェは長剣を佩いていなかった。ただ腰に護身用の短剣を装備していただけである。
しかし、彼はそれでも連続殺人事件の犯人が相手なら、充分に対抗し得ると考えていた。けたたましく笑う女を前に左手の手袋を取り去る。同時に彼は、右手でレアを後ろに下がらせた。
―――― 糸を紡ぐ。
それは彼にしか出来ぬ、不可視の攻撃だ。
アージェは生み出した糸を、女の手を覆う靄へと繋げる。そのまま強く下へ引いた。
直後、女は何かも分からぬ力に手を引かれ、驚愕の表情で態勢を崩す。
転びそうになってよろめいた彼女の目の前に、間をおかず刃が突き出された。
「動くな」
彼女の肩を押さえ、右手で短剣を突きつけた少年は、苛立ちを隠せない声音で言う。
そこに若さゆえの綻びが見えてしまったのは、むせ返るほどの靄のせいかもしれない。
女は短剣を前にくぐもった笑い声を洩らした。
「急に何をするの? こんなことをして、捕まるわよ」
「その時はお前も捕まるんじゃないか? 中を調べられたら」
「何の話かしら」
これは実際に証拠を掴まねば、話が進まないだろう。
確かに往来でこのように揉めているところを誰かに見られたら、アージェの身の方が危うくなってしまう。
彼は靄が充満する室内を一瞥すると、生理的な嫌悪を覚えながらも女を押して、中に足を踏み入れた。レアとルトがその後からついて来る。
部屋中に立ち込める靄。
それらに対しアージェは左手を上げ、視界を確保しようとした。けれど靄は少し薄くなっただけで、まだ室内に溜まり込んでいる。
おかげで何処に何があるかよく分からないし、長居をしては気分が悪くなりそうだ。少年は吐き気を堪えて女に問う。
「殺した人の肌や血は何処にやった?」
剣をつきつけられた女は、だがそれを聞いても曖昧に笑っているだけだ。
アージェはこの状態のまま自分が証拠を探すか、それとも手の空いているレアに探してもらうか一瞬迷った。おっとりして世間知らずに見える彼女に「死体の一部を探してくれ」と言うのも躊躇われて、彼は逡巡する。

部屋の奥にあった扉がそっと開かれたのはそんな時だ。
おそるおそる顔を出した娘。だがアージェは黒い靄に遮られ、その扉に気付くことが出来なかった。
少女は片目だけで様子を窺い―――― 女主人と、彼女に短剣を突きつけている少年に気付くと、慌てて口元を押さえる。後ずさろうとしてよろめき、そのまま壁にぶつかった。衝撃で近くにあった棚から硝子瓶がいくつか落下する。
澄んだ破砕音。
アージェは驚いて奥の方を見やった。僅かに注意が逸れた隙に、女が懐から何かを取り出す。
「アージェ!」
レアの警告。
だがその時には既に、女は少年に向かって栓を開けた小瓶を投げつけていた。
咄嗟にそれをかわそうと動いたアージェは、しかし右目に飛沫を浴びてのけぞる。
気の遠くなるような激痛が、目の奥から頭の中までを焼いた。
「くっ、そ……レア! 逃げろ!」
女の笑い声が響く。
アージェは見えない右目を押さえながら、左手で靄を払った。
糸はまだ繋がっている。逃げかけた女は急に引っ張られたせいか、何かにぶつかったらしい。
家具の揺れる音。瓶の割れる音。何処かからレアではない少女の悲鳴が聞こえた。
アージェはその場で踏み止まりながら、糸を手元へ手繰り寄せる。
ルトの吠え声。右目を押さえるアージェの腕に誰かが触れた。
「大丈夫」
温かい声。それは、全てを受け止め立たせる、レアの声だった。



痛みが薄れる。
それがどういった力の及ぼす作用なのか、アージェはそこまで気が回らない。
ただ自分を支える少女を後ろに回して、彼は顔を上げた。
伸びたままの糸が靄を吸い込んでいく。視界が次第に明瞭になる。
彼にしか見えぬ闇が繋ぐ先、三本の糸が伸びた向こうには、女が笑って立っていた。
糸が結ぶ彼女の右手は、気を失った娘の首を掴んでいる。
何処かに頭でもぶつけたのか、飾りテーブルの上に突っ伏して気絶している娘は、アージェたちがここまで後をつけてきた少女だった。
女は右手をその首にかけ、左手に別の瓶を持ちながら二人を嘲笑う。
「動かないで。取り返しのつかないことになるわよ」
「……その手を離せ」
「なら坊やたちもさっさとここを出て行きなさい。早く手当てしないと失明してしまうかもよ?」
後ろから添えられたレアの手が、それを聞いて強張った。
だがアージェは退こうとはしない。左手の指から伸びる糸を、彼は残された片目で追う。足下に落としてしまった短剣を確認した。
ルトは先程の一瞬で蹴られたのか、飛び散った硝子の破片の中で体を起こしているのが見える。
己の罪を糾弾された女はしかし、自身の優位性を疑っていないのか、嫣然と笑っているままだった。
彼女は片手で器用に瓶の蓋を開けると、中から一滴、テーブルの上に垂らす。
透明に見える雫は卓の上で白い煙を上げ、その表面を焼いた。
「さあ、出て行きなさい。でなければこの娘の顔が火傷するわ」
「そしてその後、また皮を剥ぐのか?」
辛辣な問いに女は首を傾げる。
不条理を詰る子供に見せるような、不理解を受容する優しい目を、彼女はアージェに向けた。
「坊やのせいで台無しだわ。折角、この娘がその気になってくれたというのに」
「そうやって騙して他の人たちも殺していたのか」
「違う」
娘の首を押さえる女の指が、ひどく愛しげにその肌をなぞる。日に焼けた頬を彼女は柔らかい眼差しで見つめた。
「死んだ子たちは、ただの材料よ。贅沢して甘やかされて育てられた花々。
 私はその花を少し磨いて薬の材料を抽出しただけ。―――― 新しく、本当に綺麗な娘を作る為に」
部屋のあちこちで割れている瓶。
その中の一つから、どろりとした薄黄色の脂が広がっているのを見つけ、アージェは顔を顰めた。
覆いかぶさるように湧いている黒い靄が、それが何の脂であるのかをよく物語っている。少年は口の中で小さく女を罵った。
「人の死体から採ったものを使って綺麗にする? 出来るわけないだろ」
「本当のことよ。坊やはそれを知らないだけ。
 ……ほら、この娘の指を見てみなさい。水仕事の痕も残っていないでしょう?」
透き通るすべらかな指。
女はそれを、自身の誇るべき成果として示したのだろう。赤い唇が自信をもって微笑んだ。
けれど少年の顔は、その指を見てうんざりした表情に変わる。
「何処が綺麗なんだよ。黒く淀んだものが纏わりついてるだけだ。死臭がこびりついてて汚い」
女の顔が奇怪に歪む。
憎悪に燃える目が正面からアージェを捉えた。彼は右目を閉じたまま、瞼を押さえていた手を離す。



―――― 生きてさえいればどうにでもなる。やばくなったら退け、と。
彼に剣を教える男は言った。それは真実なのだろうと思う。
だが同時に、ケグスはまたこうも教えてくれたのだ。
「どんな劣勢でも、退く直前でも……それが負けたくない敵ならば、怯んだところは見せるな」と。



アージェは左手を大きく跳ね上げる。
その動きは糸を通じて女に伝わり、娘の首にかけられた右手が宙に浮いた。
再度自分の体が操られたことに、女の顔が驚愕で染まる。その隙に、彼は糸の繋がる先を切り替えた。
女の右手から左手。瓶を持つ手をアージェは捕らえ、自分の方へと引く。
それと同時に彼は床を蹴って距離を詰めた。女が金切り声で叫ぶ。
「この化け物!」
「どっちがだよ!」
女の手が小瓶を投げる。だがそれはアージェの体にぶつかる直前、飛び込んできたルトによって咥えられた。灰色の犬は大きく頭を振って瓶を捨てる。
アージェは空になった女の手を取ると、そのまま後ろに捻り上げた。
暴れる女の右手が娘の頬を引っ掻く。
しかし彼はその腕も押さ込んで拘束した。女の背に向けて吐き捨てる。
「諦めろ。もう終わりだ」
「……本当に?」
荒れ果てた部屋。黒い靄は大分薄まったものの、まだあちこちに淀んで揺らいでいる。
小さな窓越しにぼやけた光が差し込んで、床上の破片を煌かせた。
割れた小瓶たちから立ち上る甘い香り。それらは複雑に絡み合い混じりあって嘔吐を催させる。
しかしアージェは努めて平然とした顔で女を睨んだ。
「何処にも逃げられないぞ。お前は―――― 」
「ひっ、あああああああ!!」
狂ったような絶叫は、予想もしない方向から聞こえた。
見るといつの間に意識を取り戻したのか、気を失っていた少女が目を覚まし、悲鳴を上げている。
彼女の視線は恐怖を帯びてアージェと女主人を見やった。拘束された女は一転、弱弱しい声音で娘に懇願する。
「お願い。助けを呼んで……」
「待て!」
少年の上げた声は、この場では逆効果だった。娘は我に返ると四つ這いのまま扉へと向かう。
狭い店の中、彼女は止める間もなく戸を開けると外に向かって叫んだ。
「誰か! 助けて! 賊が……!」



先程からの騒ぎを、既に近所の誰かが聞きつけて憲兵に知らせていたのかもしれない。
レアが叫ぶ少女を押さえようと飛び出した直後、店の中には五人の憲兵がなだれ込んできた。
そのうちの三人は、アージェを見てまっすぐ彼へと飛び掛る。
悲鳴を上げるレアを、一人の憲兵が外に押し出した。
―――― 反撃すべきか否か。
しかし武器も何も持っていない状況で、兵士三人を相手に何が出来るわけもない。
瞬く間にアージェは取り押さえられ、顔を床に押し付けられた。背を踏み躙られる痛みが、右目の火傷よりも屈辱的に彼の中に広がる。
「離せ! 人の話を聞けよ!」
「黙れ、お前が殺人犯か! 子供の癖に……」
「俺じゃない! その女が」
言った瞬間後頭部を強く蹴りつけられ、アージェは気が遠くなった。ルトの吠え声に兵士の舌打ちが重なる。
錯覚か、女の含み笑いが妙に近くから彼の耳の中へと忍び込んだ。
「やめなさい! 放しなさい、無礼者!」
普段のものとは違い、別人のように厳しいレアの声が外から聞こえる。
少年の意識はしかし、それを何処か別の世界の出来事のように感じながら、闇の中へと沈んでいったのである。