羽を纏う 036

イクレム城都の裏路地は、その時耳障りな喧騒に包まれていた。
近所の店から異様な物音がするとの連絡を受け、駆けつけた憲兵たちは、ちょうど少年が店の主人に暴行しようとしていた現場へ突入し、彼を取り押さえた。その場に居合わせた二人の少女はどう関わっているのか、一人は「助けて」と泣き叫び、もう一人は激しい語調で憲兵に抗議を繰り返す。
集まった見物人たちは、連行される少年や少女たちを見ながら、各々が連続殺人事件について己の推測をもっともらしく囁きあった。
恐怖よりも好奇が多く見られる視線。それらは無作為に交錯し、場はますます騒然となっていく。
だが彼らは気づかない。少年の手を逃れた女が、一人見物人をすり抜け輪の外へ逃げ出したことを。
彼女は手に大きな瓶を抱え、くすくすと笑いながら足早にその場を立ち去った。






通された部屋は、城の中にあっては異質なほど狭いものだった。
おそらくは今回のような要注意人物を隔離する為の部屋なのだろう。牢獄というわけではないが、椅子とテーブルしか置かれていない殺風景な部屋をレアは睨み渡す。
あの後、憲兵に抗議を続けたレアは、アージェの友人だと言い張って共にここへと連行されてきたのだ。
しかし彼の無実を改めて証明しようと考えていたところ―――― 肝心の少年は、城についた時点で別の部屋に連れて行かれてしまった。
おそらく彼女がこの部屋に通されたのは、服装からして身分のある人間だと判断されたからに違いない。
感情が高ぶっている為か赤みがかった瞳を押さえ、レアは大きく溜息をついた。
「……よくも」
この国のことも、この国を動かす王太子のことも、彼女はそれなりに知っている。
だが今はその知識をどうやってアージェを取り戻す為に利用するか、彼女の思考はいささかに先鋭化しすぎていた。
木で出来た椅子。その背もたれを白い指が掴む。
爪の先が蒼白になるほど込められた力は、彼女が感情を御しきれていないことを示していた。
レアは自分が触れた場所からぼろぼろと朽ちていく椅子を、冷ややかな目で見下ろす。
氷のようにも炎のようにも見える瞳。その中で酷薄な天秤が大きく揺れた。

扉が二度叩かれ、何者かの来訪を告げたのはそんな時のことだ。
レアは赤紫色の瞳を素早く入り口へと向けた。開かれる扉を期待をもって注視する。
遅れて狭い室内に、男の声が乾いて響いた。
「お迎えにあがりました」
「……もう来たの」
アージェであれば駆け寄ろうと思っていた。憲兵などであれば叱責しようと思っていた。
だがそこに立っていたのは、どちらでもない人間だった。
紺一色で纏められた服装に、灰色の髪。
扉を後ろ手に閉め、彼女に向かって頭を下げた痩身の男は、個性のない顔立ちをしている。
レアはよく知っている男を感情のない眼差しで見据えた。
「お前が来たのならちょうどいいわ。今、イクレムが拘束している少年を解放するよう要求なさい」
「なりません」
「何?」
意外な返答にレアは眉を寄せた。
彼女の命令は、この男にとっては絶対のものである。
にもかかわらず危急時にそれを覆され、無表情だったレアの貌は苛立ちに歪んだ。双眸が赤い光を帯びて男をねめつける。
「やりなさい。彼は……」
「あの少年が何者であるのか、私も存じ上げております。しかし、今こちらから申し出て彼を自由にすることは出来ません」
「彼は無実なのよ」
「ですから、放っておいても大事にはなりませんでしょう。
 よいですか。イクレムはまだ、貴女様が何者でいらっしゃるか分かっていない。
 それを明らかにして少年の解放を要求すれば、相手方に要らぬ情報を与えることになります」
「…………」
男の言うことは正論だった。
それが分かるからこそレアは唇を噛む。
今、この国に対して彼女が何者であるかを知らせることは出来ない。
知らせた上に彼女が何の身分もない少年を庇護しようとしているとなれば、それは結果、アージェへと皺寄せをもたらすことになるだろう。
レアは苦しげな表情で目を閉じた。
―――― もし彼が、もっと年長の世に慣れた男であれば。
全てを明かし、共に来てくれるよう望むことが出来たのかもしれない。
だが今の彼はまだ未成熟な少年だ。自分のことも、それ以外のことも何も飲み込めていない。
そんな彼に突然新たな環境を強いても、二人の間にはひずみが生まれるだけであろう。
そうして彼を永遠に失うことだけは、どうしても避けたかった。



レアは大きく息を吐き出すと項垂れる。自分のことを友達と言ってくれた、彼の横顔が脳裏に浮かんだ。
「……でも」
「ご容赦ください。貴女様は今、ログロキアの貴族令嬢ということにしてございます。
 憲兵の隊長には話をつけましたし、彼のことについても慎重な調査を強く要求いたしました。
 一連の事件は彼がこの街を訪れる前から発生しているようですし、処罰などされることはまずございませんでしょう。
 それよりも、貴女様の存在の方がよほど彼を危機に陥れる。……イクレム王太子が気付く前に、どうぞお戻り下さい」
重ねての忠言。
飲み込みたくなくとも、飲み込まざるを得ない忠告に、少女は長い沈黙の後頷いた。
ゆっくりと開かれた双眸は既に赤みが引いている。
彼女は白い己の両手にじっと目を落とし、ぽつりと呟いた。
「私の手は、何も掴めないのね」
「彼が真実貴女様の騎士足り得る人間なれば、自身の力で切り抜けて来るでしょう」
男は一礼すると先に立ち扉を開く。迎えの魔法士は城の外で待っているのだろう。
レアは憂いた目を伏せると歩き出した。重い足取り。頭の奥がちりちりと痛む。
「違う…………彼は………………アージェ」
零れ落ちた呟きは誰にも聞こえない。
少女は一度両眼をきつく閉じると、促されるままイクレムの城を後にしたのだった。






何処かで、誰かが泣いている。
すすり泣くような声。嗚咽に混じる自分の名を、アージェは目を閉じたまま聞いていた。
誰かも分からぬ女の声。彼女は、動けないアージェから離れなければならないことを、悔いているようにも感じられる。
何度も彼の名を呼びながら少しずつ遠ざかる気配に、だが彼はぼんやりとした感情しか持てないでいた。
一体彼女は誰なのか、頭の中に何人かの影がよぎる。
「クラリベル…………レア?」
声にはならない呟き。
左手がちくりと痛んだ。少しずつ意識が覚醒に近づいていくのが分かる。
まるで水面へと浮かび上がるような浮遊感。
目を閉じたまま白い世界へと吸い出されるような夢の最後に―――― アージェはそれが誰なのか、魂で理解した。



「……さん」
呟きながら意識を取り戻した時、彼の目に映ったものは石で出来た天井だった。
反射的に体を起こそうとしたアージェは、耳障りな金属音に気付いて己の腕を見やる。
そこにはいつの間に嵌められたのか鉄の手枷が鈍い光を放っており、枷から繋がる黒い鎖が彼の両手首と両足首をそれぞれ繋いでいた。
罪人としか思えぬ自身の有様に、アージェはようやく何が己の身に起きたのか思い出す。
「くそ……」
偶然が重なって追い詰めることが出来た殺人者。
だが後ちょっとのところで邪魔が入り、彼は一転して自分がその疑いをかけられることとなってしまったのだ。
アージェはおかしな薬品を浴びせられた右目を、そっと手で触れてみる。
一度は焼けるような激痛が襲ったそこは今、何もなかったかのように痛みが引いており、視力にも問題がない。
失明するという言葉は単なる脅しだったのだろうか。彼は舌打ちして起き上がった。改めて周囲を見回す。
そこは、石で出来た壁と床の他に家具の一つもない狭い部屋だった。どう考えても牢獄か、それに準じる場所だろう。
アージェは手をついて立ち上がると、一つしかない木の扉へと向かう。念の為扉の金具を押したり引いたりしてみたが、鍵がかかっているらしく少しも動かなかった。
「参った」
こんなことになってしまったと、ケグスやダルトンに知られたら、呆れられるか大笑いされるかのどちらかであろう。
ひょっとしたら明日から稽古の時間が倍になるかもしれない。少年は思わず天を仰いだ。
だが、いくら計算外の事態とはいえ、ここで呆然としているわけにもいかない。
まさかレアまで捕まっているとは考えたくないが、彼女を一人にしておくのは不安である。
アージェは繋がれた両手で扉を大きく叩いた。
「おーい! 誰かー」
どんどんと扉を叩き続けること数十秒。煩かったのか、戸は不意に罵声と共に向こうへ開かれた。
槍を持った見張りの兵士はアージェを嫌悪の表情で見下ろす。
「どうした、小僧」
「俺と一緒にいた女はどうなった? 一人は殺人犯で、一人は無関係なんだけど」
「殺人犯はお前だろうが」
半分は予想していた返答に、アージェは憮然となった。
この分では本当の犯人は逃げおおせているのかもしれない。
少年は心の中で、自分の軽率さと憲兵たちのいい加減さを同じだけ呪った。
「いいからちゃんとあの店を調べてくれ。死体から採った脂や血で何かを作ってたから」
「言われなくとも調査はしている」
「店の主人は捕まえてある?」
畳み掛けるような確認に、兵士の顔色はどす黒くなった。
これは不味いかもしれない、と悟ったアージェは一旦話の方向を変える。
「俺と一緒にいた子は? レアっていうんだけど」
「あの貴族の娘なら家の人間が迎えに来て引き取っていった。
 そいつらがうるさく言うからお前の処分が見合わせられてるんだ。運がよかったな」
まるで「処刑が延びてよかったな」と言わんばかりの口調にアージェは反感を覚える。
だがそれは別として、レアがちゃんと家に帰れたとの知らせは、彼を充分に安堵させた。
あの後レアが何処かで迷子になっていたり、怒って泣いていたりしたらたまったものではない。
おかしな事件に巻き込んでしまった詫びは、今度会えた時に言えばいいだろう。
アージェは少し気が楽になって息をつく。
しかし兵士はその様子が気に障ったのか、小さく唾を吐き捨て扉を閉めようとした。
再び閉ざされかけた扉を見て、少年は慌ててそれを留める。
「待って。俺、本当に犯人じゃないから。この街に来たのだって最近だし」
「よく言う。お前が女に剣を突きつけていたと、証言も出ているんだぞ」
「だからそれは違うって……宿屋に連れがいるから確かめてみてよ」
アージェが口早に宿の名前とケグスたちの名を挙げると、兵士は嫌な顔になったが「確かめておく」と言い捨てた。
或いはそれについてレアからも念を押されていたのかもしれない。
アージェは再度閉ざされた扉を前に、それほどの焦りもなく床へ座り込む。
「まったくなぁ…………ついてない」
ぼやいた声は自分でも精細に欠けているよう思える。
少年は繋がれた両手で大きく伸びをすると、何も見るもののない天井をぼんやり見上げた。
石の天井は飾り気がなく、ざらざらとした表面が小さな影を無数に生み出している。
だが無骨なだけのその光景は靄の淀む肌よりも余程すっきりして、彼の目には好ましいものに映ったのである。