扉 038

石造りの通路は細く、真っ直ぐに伸びるその先は真の闇に包まれている。
永い、という言葉では収まらない年月在り続けた床は、あちこちがぼろぼろと崩れ、場所によっては石畳が剥がれ落ちていた。
ダルトンは身長ぎりぎりの高さの通路を、頭上や足下に注意しながら進んでいく。
左手に持った明かりで少し前を照らしながら、時折見つかる罠の残骸を踏み越えていく彼は、ふと足を止め来た道を振り返った。
既に暗闇の手の中に取り戻されている背後には、何もおかしなところはなく何の気配も感じられない。
男はしばらく目を細めて通路を見やっていたが、軽くかぶりを振ると再び前へと進み出した。
苦笑混じりの呟きが落ちる。
「扉か……単なる御伽噺だ」
自らを揶揄するような言葉。
だが彼はそれにもかかわらず歩みを止めようとはしない。忘れ去られた遺跡の中へと踏み入っていく。
埃が積もる通路にはこの時、過去からの無彩色な破片がいくつも転がっているかのように、静寂がたゆたっていたのだった。






夜にもかかわらずやって来たケグスは、拘束されているアージェを見るなり大きく溜息をついた。
狭い牢獄にその音は妙に反響して聞こえる。
「何やってんだよ、馬鹿」
「ごめん」
「少年、連続殺人事件の犯人って思われてるんだってー?」
ケグスの背後から覗き込んできた女の暢気さに、アージェはつい苦笑いしてしまった。手枷を外してくれる看守を横目で見つつ、疲労感に満ちた声で返す。
「話しても聞いてくれなくてさ。面倒なことになってごめん」
「そりゃあなあ…………あの貴族の娘とは会えたのか?」
「会えた。先に帰った」
「何だそりゃ」
顔を顰めるケグスに、アージェは「色々あって」と説明になっていない補足をした。
その時、外で待っていた憲兵が覗き込んでくる。
「準備はいいか? 殿下がお待ちだ」
ついて来い、との言葉にケグスとアージェはそれぞれ複雑そうな表情になったが、彼らに拒否権は与えられていない。
さっさと歩き出したケグスの後にアージェは続いた。その隣にカタリナが並ぶ。
面倒ごとになってしまったことは明らかだが、少年にとって救いであり負い目でもあるのは、大人二人がまったくそれを気にしている様ではないということであろう。彼はもう一度小さく「ごめん」と謝った。
「謝らなくていいよ、少年。世の中けっこう谷があったり谷があったりするものだよ」
「それどんどん落ちていってない?」
夜の城を行く彼らがたどり着く谷底とは、一体どのようなものなのだろう。
疑わしい少年と、その関係者ということで呼び出された三人は、複雑な廊下の果て、一つの部屋に通される。
そこにはイクレムの王太子である男が座して彼らを待っていた。



「一人足りないようだな」
入ってきた三人を一瞥して、机の向こうに座す男は傲然と言い放った。
一目で王侯貴族と分かる服装。もう少し険を減らして、頬と目元に肉を付け足せば美男子と言えなくもない顔立ちは、だが確かに王族としての威を兼ね備えていた。
話にのみ聞いていた王太子フィレウスを目の当たりにしたアージェは、今この状況を忘れてついまじまじと男を観察してしまう。
一方ケグスは片眉を上げて王太子を見据えた。
「無実の人間を拘束しといて言いたいことはそれだけなのか?」
「無実だと、お前たちが言っているだけだ。真偽はどうか分からぬな」
「俺たちがこの街に来たのは、最初の人死にが出た後だ」
「全ての事件の犯人が同じとは限るまい」
どちらも退く気がまったく見られない応酬を前にして、物珍しさに捕らわれていたアージェはようやく我に返った。改めてフィレウスを見やる。
「あの店から他の女性の遺体などは見つかったんですか」
それは、彼にとっては自明のことである。
黒い靄に覆われていた室内を思い出して、アージェは気分が悪くなりかけた。
フィレウスは軽く少年を見上げる。
細められた目には何の温かさも見られなかった。王太子は当然のことのように告げる。
「まだ見つかっていないようだな」
「そんな馬鹿な!」
上げてしまった声は、王族に対するものとしては無礼きわまりないものであったろうが、フィレウスはそこには触れなった。
アージェは両手を男の執務机に叩きつけたくなって、何とかそれは堪える。
―――― 小さな店内で女と揉み合ったあの時、確かに瓶の一つが割れ床に脂が流れ出す様を見たのだ。
それとも憲兵たちはあれが人の脂だと分からなかったのだろうか。
あと少しで犯人を拘束出来るところであったのに、肝心なところで詰めを誤ってしまったことが悔やまれる。
歯噛みするアージェの肩をケグスが叩いた。
「気にすんな。どうせこいつら、早とちりして真犯人逃がして、仕方ないからお前に押し付けようって腹だろ。
 証拠うんぬんじゃなくて、お前を犯人にしなきゃ大失態が明るみに出ちまうんだよ」
「はぁ……? まじで?」
それでは冤罪も甚だしい。アージェは信じられない思いでフィレウスを見た。
切れ者で知られる男は、冷然とした目で少年の視線を受け止める。
「憶測で勝手なことを言わないで貰おう」
「じゃあ何でいつまでもこいつを拘束してたんだ?
 あんたが本当に噂に聞くほど有能なら、こいつが犯人じゃないってことくらいすぐ分かるだろ」
「何事も確定を得るのは難しい」
「……っ!」
苛立ちに息を飲んだアージェの袖を、誰かが後から引く。
驚いて彼が振り返ると、そこにいたのはカタリナだった。彼女は一歩前に出るとフィレウスに対する。
「でも殿下は少年がほとんど白っていうのはお分かりなんですよねー?
 だから私たち全員を呼び出されたんでしょう。―――― 何をすればいいんですか?」
話を一歩先へと進める質問。
アージェは彼女の問いに、牢獄で告げられた話を思い出した。
取調べの最後に訪ねてきた文官の男は、こう言ったのだ。
『お前の同行者のダルトンとは、あの迅雷なのか? もしそうであるなら彼を身元引受人にすることが可能だ』と。

フィレウスは三人を黙って見渡した。
そうして最後にケグスと目が合うと、再び「一人足りないな」と口にする。ケグスの舌打ちがそれに続いた。
「おやっさんは一週間くらい前から出かけてる。何処に行ってるか、俺らも知らねえよ」
「ならば探してここに連れて来い」
「結局そっちが目的か。おやっさんは宮仕えってがらじゃない」
「それはこちらと迅雷の間の話だろう」
突き放すような態度にケグスはますます顔を顰める。その様子から言って、ダルトンが仕官を請われることは珍しくないのだろう。
おそらくその全てを蹴ってきたのであろう男に、自分が付け入られる隙を作ってしまったのではないかとアージェは蒼ざめた。
しかしケグスは大きく息を吐くと「分かったよ」と了承する。
「ただ何処にいるのかまじで分かんねえからな。今日明日には無理だ」
「一週間の猶予をやろう」
「それはそれはありがたいことで」
「勿論、逃げられてはかなわん。こちらの人間をつけさせてもらう」
重なる制限にケグスは口の片端を吊り上げた。皮肉げな目で王太子を見下ろす。
「どうせつけるなら魔法士がいい。転移の出来る有能な奴がな」
「それはこちらが判断することだ」
執務机を蹴りつけそうなケグスの不機嫌にアージェは気を揉んだが、幸い彼はそこまではしなかった。
ただ挨拶もなしに踵を返すとケグスは執務室を出て行く。
その後を追ったアージェは、部屋を出て行く直前、フィレウスを振り返った。
冷徹な為政者と言われる男。彼の両眼は曇り硝子のように見通せないまま、ただ確かに彼のことを見ていたのである。

「あー、めんどくせ」
城からつけられるという監視の人間を待つ間、通された部屋でケグスはそう毒づいた。
アージェは大きな溜息と共に頭を下げる。
「ほんと、ごめん」
「別にいいけどよ。国のいいように利用されるなよ。俺たちは金貰って国を利用してる側の人間なんだ」
「まさか親父さんまで巻き込まれることになるとは思わなかった……」
「迅雷の名はそれだけ強力だってことだ」
ケグスは窓枠に座ると、足を近くにあった椅子の背もたれに乗せた。
彼が背後を仰ぐと大きな月が昇っており、白い輪郭から粉のような光が振りまかれている。
男は月光の美しさに感じ入った風もなく視線を戻した。
「おやっさんが何処に行ったかは知らん。が、おやっさんが使ってる情報屋なら知ってる」
「その人に聞けば親父さんの居場所が分かる?」
「多分」
アージェはそれを聞いて頷いたものの、はたしてダルトンを連れてきて、それでいいのか分からない。
もしかしたら自分の代わりに、彼が窮地に追いやられるだけではないかと思えて仕方ないのだ。
だがそれを口にしたとしても「お前が気にすることか」と言われることは分かっている。
彼らと自分たちは「出来ること」自体に大きな差があるのであり、にもかかわらず一人で何とかしようとしても問題を大きくするだけであろう。現にそうやってこの状況に陥ってしまったアージェは、もう何度目かも分からぬ溜息をついた。
「イクレムは親父さんを雇いたいのかな」
「あの王太子が何を考えてるのかはよく分からないけどな。戦をしようっていうなら手元に置きたい人間だろ」
「戦をする気があるってこと?」
「さぁな」
どちらかと言えば肯定を含んでいるのではないかと思える相槌に、アージェは息を飲んだ。
この大陸に間断なく戦争が起こっていることは勿論知っている。
だが彼は田舎で育った為、戦というものを目の当たりにしたことがなく、いまいち現実味を以ってその危機を感じられないのだ。
ただ漠然と「人が大勢死ぬ」としか分からない事態に、少年は落ち着かない気分を味わう。
今まで壁にかけられた絵に見入っていたカタリナが、振り返ったのはその時だった。
「別におかしくないと思うよ。ここ二十年ほどイクレムは侵略戦争に手を出していないけど、もともと野心家の国だったんだし」
「そうなの?」
「そうそう。ここの王は代々切れ者が多くってさー。単なる一国の一領地からどんどん伸し上がっていったんだよ。
 で、逆に元の国は小さくなっちゃって、それがログロキア。
 ログロキアの方が学府の歴史が長かったり蔵書が多くて古いのは、そういう理由なわけ」
「知らなかった」
学校に行ったことのないアージェは、諸国の歴史はおろか他国の名前でさえもあやふやである。
頭の中で国名を列挙し整理しようとする間に、カタリナは更に付け加えた。
「大体、二年前に王太子の弟が火事で死んじゃった事件あるでしょ?
 あれも王太子が弟をケレスメンティアの女皇の夫にしようとして、他国に暗殺されたって噂もあるし。
 今の殿下は結構野心家なんじゃないかな」
「うへ」
随分きな臭い話の一端に自分たちが近づいている気がしてアージェは苦々しさを禁じえなかった。
しかしふと、今の話の中に引っかかるものを覚えて彼は首を傾げる。記憶の中を無意識に探った。

その時部屋の扉が外から叩かれる。
三人は三様の視線で、開かれる扉を見やった。