扉 044

かつてこの大陸には一人の神がいた。
人々をその力で統治し、彼らに崇められていたディテル神。
彼はある日、人の中から優れた王や強靭な戦士、信仰の篤い魔法士たちを選び出し、彼らに命じた。
「人を束ね、守り、彼らの為に戦え」と。

今はもう遠き時代の話。真か偽かも分からぬ伝説。
ただ、もっとも神の寵愛が深かったという皇国ケレスメンティアには、今でも「神より武器を賜った」との記述が、史書に確と刻まれているという。






急に坂となった通路を転がり落ちた先は、今までよりも広い廊下の角になっていた。
アージェはあちこち痛む体を確認しながら起き上がると、既に態勢を戻していたルトの頭に手を伸ばす。
彼は犬の頭にくくられている明かりが壊れてしまっているのに気付くと、それを外して腰につけた荷物袋に押し込んだ。
後ろではカタリナが頭を押さえて、ようやく体を起こしている。
「あいたたた。もうこの遺跡滑ってばっかりだよ」
「どういう仕組みになってるんだろうな。なんで急に廊下が傾くんだ?」
「あーもー。多分どっかで誰かが遺跡全体を動かす罠でも発動させちゃったんだよ」
「親父さん……」
この時の二人はまだ、自分たちを追ってイクレムの人間たちが遺跡に入り込んできているとは知らない。
その為、自分たち以外に罠を動かす人間といったらダルトンだとばかり考えたのだが、そのダルトンの姿は視界の何処にも見えなかった。
アージェは落としてしまった明かりを拾い上げると、それで廊下の更に先を照らしてみる。
暗闇と静寂。
だが微かに、ひたり、という音が聞こえた。
「親父さん?」
(くるわ)
女の声が意味するものは警告だ。
アージェは咄嗟に短剣を抜いた。ルトが闇の中に向かって威嚇の唸り声を上げる。
「少年?」
「待って、なんかやばそう」
カタリナを留めたのは本能的な危機感を覚えたからだ。
閉ざされた暗がりの中から微かに感じられる気配。それは少年に、今まで何度か対面した異形の影を思い出させる。
彼は自分たちが滑り落ちてきた背後の通路を一瞥したが、床はまだ急斜面のままだ。逃げ道はないと言っていいだろう。
アージェは緊張に息を殺す。闇の中にぼんやりと青白い光が浮かび上がった。
燐光に似た光。
それは床に近い低い位置を、ゆったりとした速度で近づいてくる。一つ、また一つと増える光は最終的に四つになった。
そして光を帯びた何かは、アージェのかざす明かりの範囲にその姿を現す。
真っ白な肌。光の灯る四肢。そして宝石のような緑の瞳が、不穏な輝きを伴い彼らを見上げた。
「うわあ、まじですかー」
普段から緊張感のないカタリナの声が、けれどこの時は少し焦っているようにも聞こえる。
アージェは遅ればせながら、短剣ではなく長剣を抜けばよかったと後悔した。
だが今更言っても仕方がないことだろう。少年は短剣の切っ先を「それ」へと向ける。
艶かしい純白の体皮。赤い舌をちろちろと覗かせてアージェを見仰ぐ巨大な蜥蜴は、次の瞬間何の前触れもなくその体を跳ね上げた。
彼に向かって飛びかかる巨体。
ルトほどであれば一飲み出来そうな口が開き、鋸状の歯が顕になる。
気の弱い者なら卒倒してしまうような光景。
その歯をまともに食らっていれば、胴の半分は食いちぎられていたに違いない。
けれどアージェは咄嗟に左へ避けた。
標的を見失った蜥蜴は、そのまま少し離れた壁の側面にへばりつく。
現実感を危うくさせる異様な光景に、思わずアージェは逃げ出したい気分になった。
背後に駆け寄ってきたカタリナが彼の服を引っ張る。
「少年、あれ不味いよ」
「見りゃ分かるよ」
「この遺跡も不味いよ」
「いや分かるって」
「休眠時間が近づいてきた」
「それは意味分かんない」
白い蜥蜴は壁から天井へと移動しつつある。
またいつ飛び掛ってくるか分からない状況で、アージェは左手の明かりをカタリナに押し付けた。

もしこの蜥蜴が、黒い靄をまとわりつかせていたのなら。
アージェはそこに活路を見出していただろう。だが薄青く光る足を持つ蜥蜴に、黒く染まっている箇所は一つもない。
彼は左手の手袋を取るべきか否か判断に迷った。威嚇の姿勢を崩さないルトを一瞥する。
―――― 出し惜しみはしていられない。打てる手は、可能である限り打つべきだ。
アージェは短い時間でそう決心すると、左手を上げた。手袋の指先を噛むと、中から黒い手を抜き去る。
それだけの動きでルトは全てを了承しているようにアージェの傍らへ走ってきた。彼は軽く頷いて糸を紡ごうとする。
(よけなさい!)
鋭い声がアージェを打ち据える。
彼は何かを考える間もなく、隣のカタリナを抱えてその場から跳んだ。
一瞬遅く、それまで立っていた場所に白い蜥蜴が埃をあげて降り立つ。床に響く振動に、アージェはひやりと冷たいものを味わった。
あの巨体の直撃を食らったらただでは済まない。
だが今は、気を挫かれている間も惜しいのだ。
彼は駆け寄ってきたルトに向かい、改めて糸を投げる。蜥蜴が短い足を動かして振り向こうとしている間に、素早く長剣を抜いた。
体を黒く大きなものへと変化させていくルトを横目で見ながら、彼は「彼女」に言う。
「さっき、今の俺には無理って言っただろ」
(……ええ)
「それはここで逃げた方がいいってことか?」
来た道へは戻れない。だが先が安全かも分からない。
蜥蜴に背を向け逃げて、背後から先ほどのように跳びかかられたりでもしたら致命的だ。
しかしかといって、この蜥蜴と戦って勝てるかどうか、アージェは決して楽観的な性格の持ち主ではなかった。
彼はルトと糸を繋げたまま、いつかの遺跡でそうしたように左手に長剣を持ち変える。
三本の黒い糸が剣身へと絡みついていく。それを見ながら、アージェは右手を添え両手で柄を支え持った。
ようやく体を反転させた蜥蜴が、鮮やかな緑の目を細めて少年を見る。
(すきをみて、かえりなさい)
「廊下が戻ったらな」
それは今のところ不可能と同義である。
アージェはカタリナがちゃんと離れた場所に避難しているのを見やると、蜥蜴へと意識を集中させた。
白い蜥蜴は威嚇のつもりか太い尾で床を叩く。廊下全体を揺るがすその威力は、まともに食らえばあばらが砕けそうなものに見えた。
アージェは緊張しつつもルトに先んじて床を蹴る。
狙っているものは、白い皮の中に輝く緑の双眸だ。彼は蜥蜴の左目を狙って切っ先を突きこんだ。
だがその剣が届く前に、蜥蜴は大きく口を開く。
「うおっ!」
噛み付かれる、と思ったのは刹那のことだった。
長剣が床に落ち、大きな音が廊下の奥にまで響く。
アージェは跳ね上がった動悸に胸を押さえたくなったが、それどころではない。剣を拾い上げる間もなく蜥蜴の尾を避けて右へと跳んだ。同様にルトも一旦距離を取る。少年は自分の左手を勝手に動かした女に問うた。
「今の何だ」
(どく。くらうと、ねむるわ)
「まじかよ」
ひょっとして、カタリナが先ほど言っていた休眠とはこの毒のことを指していたのだろうか。
アージェは今は空の左手に視線を落とす。
白蜥蜴が口を開き吐き出してきた液体。それを「彼女」はアージェの左手を動かして弾いたのだ。
糸ではなく、黒い小さな盾のようなものを作り、毒を跳ね除けた。
代わりに剣は取り落としてしまったが、アージェはその技術が気になって呟きを零す。
「今の、どうやってやったんだ?」
(むずかしい、わ)
「教えろ」
蜥蜴は巨体のせいか攻撃までの間隔が長く、その間は動きが鈍重だ。
のろのろとアージェの方を向こうとする顎を見ながら、少年は急いていく気を隠すことが出来なかった。蜥蜴のすぐ足下にある剣を見やる。
―――― 剣さえあれば。
それがなければ何も出来ない。折角ケグスに剣術を習っていてもどうにも出来ないのだ。
果敢に蜥蜴に跳びかかり、白い尾を避けているルトを見ながら、アージェは左手をきつく握り締める。
返ってこない答。少年はだが落胆を覚えなかった。元々「彼女」を頼りにしたいわけではない。
彼は意を決すると、蜥蜴がルトに気を取られた隙を見計らって飛び出す。宙を薙ぐ尾を避け、身を屈めて剣の柄へと手を伸ばした。
もたついているように感じる体。
黒い指先がぎりぎりで柄へとかかる。彼は蜥蜴に気付かれる前にかろうじて剣を手元へ引き寄せた。
ゆっくりと動く緑の目を狙って、アージェは今度こそ長剣を突きこむ。



宝石のような瞳が砕かれた時、響いた音もまた硝子が割れるかのような硬質の音だった。
蜥蜴の高い鳴き声が廊下にこだまする。太い尾が何度も床を激しく叩き、その度に遺跡全体が揺れるような気さえした。
アージェは呆然としてるカタリナを手招く。
「ほら! 逃げるぞ!」
「ま、待って、少年」
元の道はまだ坂のままだ。二人と一匹は、のた打ち回る蜥蜴を何度も振り返りながら闇の中へと駆ける。
明かりはカタリナが一人で二つ持っているのみであり、彼女はそれをかざしながら肩越しに背後を見やった。そして、悲鳴を上げる。
「少年! 追っかけて来るよ!」
「そういうこともあるんじゃないかと思ってた」
「何しみじみしてんの! やばいやばいって!」
アージェが振り返ると、片目を失った蜥蜴は痛みのせいか上手く方向が取れずに、ふらふらと蛇行しているようだった。四肢に灯る青白い光が暗闇の中小刻みに動いている。
音からして左右の壁に交互にぶつかっているらしい。それでも彼らの逃げた方向が分かるのか、光は鈍重とは言えぬ速度でアージェたちに追いつきつつあった。
彼は「振り返らなきゃよかった」と思いつつ走る速度を上げる。
しかし、足が遅いカタリナを連れているせいか、蜥蜴との差はあっという間に縮まりそうだった。
立ち止まりもう一度迎撃すべきか、アージェが迷った時、ルトが右前方の壁に向けて吠える。
廊下途中のそこに見えるものは何の装飾もない扉だ。
彼はその前に走り寄ると、勢いのまま扉を奥へと蹴り開けた。遅れていたカタリナを中に押し込むと内側から戸を閉める。
そのまま扉を押さえ、アージェは息を殺した。廊下を蜥蜴の足音が近づいてくる。後ろではカタリナがルトの隣にへたりこんでいた。
「しょ、少年……」
「黙って」
このままやり過ごすことが出来たなら、元の通路へ引き返すことも出来る。
斜面をどうするかはまだ思いついていないが、カタリナと二人で奥へ進むよりもマシだろう。
ダルトンがまだ見つかっていないことが心配だったが、彼よりも自分たちの方が余程頼りない。
アージェは祈るような気持ちで蜥蜴が部屋の前を行過ぎるのを待った。
しかし大きくなる足音と壁に尾がぶつかる音は、扉の前で不意にぴたりと止む。
次に起こることを予想して、アージェは大きく溜息をつきたくなった。
「俺、運悪い……」
「人生諦めないで、少年」
狙うとしたら、蜥蜴の頭が狭い扉をくぐってくるその時だ。
アージェとルトは一歩跳び下がって態勢を整える。カタリナは慌てて部屋の隅へと下がった。
その直後、何かが扉を激しく打ち据える。