扉 045

簡素な石の扉は、はじめの一撃だけで縦に大きく亀裂が入った。
アージェはその光景に苦笑いしたい衝動に駆られたが、続く襲来に備えて剣を構える。
左手から伸びる黒い糸は、多少もつれながらまだルトの首元に繋がっていた。
そして残り三本を再び剣身に絡みつかせ―――― アージェはそこでふと考えてしまう。
黒い靄は、他の人間には見えない。彼の紡ぐ糸もそうだ。
それらはまるで現実から一枚皮膜を隔てた別世界の出来事のように、彼だけが見て触れることが出来る。
ただおそらく、この「黒色」の可能性はそこでは終わらないのだ。
「彼女」の作る盾が毒液を防いだように。人型を取った影が子供たちを殺したように。

アージェは自分の左手をじっと見つめ、意識を集中する。
初めて糸を紡いだ時のように、もっと強い「何か」を作れないかと。
だがその試みは、扉が砕け散る音で中断させられた。
顔に向かって飛んで来る石の破片を、アージェは腕を上げて遮る。
軽い痛み。剣を握る手の向こうに、白い顎が入り込んでこようとするのが見えた。
現れた頭の側面、潰れた左目から緑の体液が流れ落ちている。
細い笛のような威嚇の声。
しかしそれに怯むことなく、少年は再度傷ついた眼窩を狙って踏み込んだ。
まだ敵は彼の存在に気づいていない。黒い糸の縒り合わさった切っ先が、防がれることなく砕けた瞳の破片に触れる。
―――― 異変が見られたのは、その時だ。
眼窩に食い込む剣身。その傷口、正確には黒い糸と緑の破片が触れ合った場所から細い煙が上がった。
何かが焼けるような音。煙は片方が黒く、もう片方は薄白い。
二条のそれらが絡み合って立ち昇る様を、アージェはぎょっとして見やる。
「何だ?」
(はやく、おしまけるわ)
女の声には焦りが窺える。彼は慌てて剣を更に奥へと突きこもうとした。
しかし一瞬遅く、蜥蜴は口を開けて叫びながら大きく顔を左右に振る。
その動きに弾き飛ばされたアージェは、したたかに背を壁に打ち付けた。苦痛の声を上げながら壁際に蹲る。
「いってえ……」
骨が折れるほどではないが充分に痛い。
しかもまた剣を手放してしまった。彼の長剣は蜥蜴の眼窩に刺さったままだ。
蜥蜴は左目に刺さる剣のせいか、より一層頭を激しく暴れさせる。
かろうじて残っていた戸の残りが粉々になり、両脇の壁にまで罅が入った。廊下側では尾が床を叩いているのか、断続的な振動が伝わってくる。
逃げ出そうにも唯一の戸口に蜥蜴が嵌っている現状。
アージェは次に打つ手を考えつつ立ち上がった。暴れる頭に跳びかかったルトが、白い皮膚に牙を深々と突き立てる。
彼の糸によって強化されたルトの牙は、硬そうに見える皮も貫くことが出来るらしい。
だがそれは干上がった池に掌で水を運ぶようなもので、暴れ狂う巨体を仕留めるには程遠いものに思えた。

「あーもう!」
こうなったら一度部屋の中に蜥蜴の全身を引き込み、入れ替わりで部屋を出て逃げるしかない。
アージェは決断すると、ルトを振り払おうとする蜥蜴に向かい、床を蹴った。顎を避けて側面に回りこみ、何とか剣の柄を掴み取る。
そしてそのまま彼は、剣を引き抜く反動で、蜥蜴の横面を思い切り蹴りつけた。
部屋中に響く耳障りな鳴き声。
白蜥蜴は続けて加えられる痛みに怒ったのか、部屋の中へ入ってこようとする。
戸口の壁が軋んで揺れ、尾が壁を打つ音が聞こえた。
アージェは、なおも蜥蜴の頭の上に噛み付いているルトを見ながら、いつ退くかを窺う。
あるかないかも分からぬ機を逃してしまえば、待っているものはただの死だ。
さすがにこんな異国の遺跡で、巨大な蜥蜴に食われて死ぬなどという事態は御免蒙りたい。
彼は壁際にいるカタリナに、扉近くの壁へ移動するよう手で示すと、再び蜥蜴に向き直った。
―――― その時、巨体の動きがぴたりと止む。
「え?」
訪れた変化はまるで唐突なものだった。
突如硬直した蜥蜴は、ぐったりと頭を床に垂れる。
そうして動かなくなってしまった体を、二人と一匹は唖然として見つめた。
まさか「休眠」にでも入ってしまったのか。そう思ってアージェが恐る恐る蜥蜴の右目を覗き込もうとした時、視界の隅に白い背を踏む男の足が見える。反射的にアージェは身構えようとし、だが遅れて、それが誰であるか気付いた。
「親父さん!」
「ん? お前たちどうしたんだ、こんなとこで」
緑の体液に濡れた大剣を提げ、ダルトンはアージェたちを見やった。
その姿を見て途端気の抜けた少年は、床の上にしゃがみこむと「……よかった」と呟いたのである。



ダルトンは既に遺跡の最深部にたどり着き、そこから引き返してきたところらしい。
彼はアージェから一通りの話を聞くと、無精髭の生えた顎を撫でつつ頷いた。
「そりゃあ、面倒かけちまったな」
「いや、元は俺のせいだし……」
「イクレムの王太子は抜け目ない人間だそうだからなあ。坊主のせいじゃないさ」
あっけらかんとした声には、この場にあってさえ余裕が感じられる。
しかしアージェは、そう言われても申し訳なさを拭いきることが出来なかった。
自分がもっとしっかりとした大人であれば、このような事態は避けられたのではないか。そんな疑問がちらついてならない。
アージェは蜥蜴に突き刺したせいか、少々刃こぼれしてしまった剣を右手で持ち直した。
通路を歩いて戻る一行は、もうすぐ滑り落ちてきた傾斜部分が見えるというところにまで来ている。
「にしても親父さん、あの蜥蜴よく殺せたね」
「あー、あれなあ。何かついさっきから現れ出したみたいでな。
 行きにはいなかったぞ。罠の一種じゃないか?」
「…………」
もしかしてそれは「継承者」とやらであるアージェが遺跡の奥に踏み込んでしまったせいではないか。
彼は「彼女」に言われたことを思い出したが、自分の心の中だけにしまっておこうと結論づけた。
カタリナが余計なことを言わなければいいな、と願う少年の内心をよそに、彼らは廊下の角にたどり着く。
―――― そこはまだ、急な斜面のままだった。
ダルトンは暗くて見えない坂の上を、感心の目で仰ぐ。
「すげえなあ。どういう仕組みなんだろうな」
「こういう訳で引き返せなくて……」
「罠発動させたのダルトンさん?」
「俺じゃないな。その時はもう元来た道戻ってたし」
「あれ?」
三人は怪訝な顔を見合わせる。
不思議を不思議で片付けたくなる空白。しかしダルトンは、軽く指を鳴らすと「正解」を口にした。
「あれだな。イクレムの奴らにばれたか」
「え、まじで?」
「そう思ってた方がいいぞ。いないならそれでいいが、遺跡に踏み込まれてる可能性もある」
「じゃあ、どうしようかー」
遺跡の出入り口は一箇所しかなかったのだ。もしノーグたちが追ってきているというのなら、そこで待ち伏せされているということも充分にあり得る。
アージェは次から次に現れる厄介事をうけ、そろそろ叫び出したい気分になりつつあった。
だがダルトンはそんな彼の内情を見透かしているのか、アージェの肩をぽんぽんと叩く。
「ま、そっちは俺が何とかするさ。それよりこの坂だが」
「あー、うん」
「お嬢ちゃんは俺が背負うとして。坊主は自分で登れるか?」
「…………」
どうやらダルトンは、この手をかけるところもろくにない急斜面を、カタリナを背負って登ることが出来るらしい。
アージェは規格外の傭兵を前に一瞬自尊心で悩んだものの、正直に「多分無理」と答えた。
ダルトンは苦言を返すわけでもなく頷く。
「なら二往復すればいいか。どっちを先にするかな」
「カタリナ先にしてやって。また変な蜥蜴来たら困るし」
「ああ、そうだな」
暗い通路の先に青白い光は見えない。だがカタリナをこの場所に一人で置いておくのはやはり危険だろう。
ダルトンは女に背を向けしゃがみこんだ。彼女はその背にしがみつきながら暢気な声で問う。
「そう言えばダルトンさんは、何でここ調べてたのー?」
「ああ、ちょっと昔から探してるものがあってな。それがここにあるんじゃないかって聞いたんだが」
「あった?」
「なかった。奥の方まで見たけど、大体のものはとっくに回収されてたみたいだ。
 ―――― ああ、開かない扉が一つだけあったが」

『開かない扉』
その単語にアージェが引っかかるものを覚えたのは、彼自身が原因というよりダルトンの声がそこだけ翳っているように聞こえたからだ。
彼はそのことについてダルトンに聞きなおそうと口を開きかける。
しかし問いかける言葉が出るより先に、坂の上から男の長い絶叫が聞こえてきた。ついで、何かが滑り落ちてくる音がする。
ダルトンは素早く背中のカタリナを下ろすと剣を抜いた。アージェもそれに倣う。
よろめきながらカタリナがかざした明かり。その照らす範囲にまず落ちてきたものは、腰から下を食いちぎられた兵士の死体だった。
恐怖に口を限界まで開いた凄まじい形相に、カタリナは顔を歪ませる。
「うっ……。上にも蜥蜴がいるの?」
「かも」
イクレムの城で見かけたのと同じ服装の兵士は、これ以上ないくらいに死んでいる。
その無残な姿といまいち分からぬ状況にアージェが眉を寄せていると、続いてまた何かが傾斜を滑ってくる音がした。
砂を擦るような軽い音。少年が死体かと身構えると、下りてきたものは明かりの中で膝をついて着地した。男の鋭い眼光がアージェを捉える。
「ケグス!」
「不味いことになった」
開口一番そう告げた男は、ダルトンに気付いて「あ、おやっさん」と軽く手をあげた。
その間にも闇に閉ざされた坂上からは、悲鳴や雄たけび、魔法のものらしき爆音が微かに聞こえてくる。
既にそれだけで不味い事態だということは充分分かるのだが、続くケグスの言葉はアージェの予想を大きく越えたものだった。
男は、この場から離れて先に進むよう手振りで促しながらぼやく。
「この遺跡な、何だか知らんが『発動状態』になってるらしい。すぐにイクレム軍が本隊を送り込んでくるぞ」
「は?」
一人だけ目を丸くしたアージェをよそに、カタリナは「あーあ」と肩を竦め、ダルトンは「そうかそうか」と頷いた。
ルトは分かっているのかいないのか、尻尾をやる気なく左右に振る。

次から次へと降りかかってくる厄介ごとに、そろそろ本当に本気で叫び出したくなってきた。
アージェはしかし、その叫び声が余計なものを呼ばぬよう歯噛みして堪えると、「この国嫌になってきた」とだけ呟いたのである。