扉 049

燃え盛る神の火はあらゆるものを灼き尽くす。
かつて主神ディテルより人の王へと授けられた神具。
それは地を焼き、木を焼き、城を焼いて人を焼いた。
一晩で何も残さず焦土となった敵国の都市。
変わり果てたその有様を見た王は、焼け跡の中に残っていた焦げ一つない神具を、遺跡の奥深くへと封印する。
今は昔。語られることもない、忘れ去られた神代における話である。






後頭部は痛むがそれどころではない。
アージェは慌てて上に乗っているカタリナを押しのけた。跳び起きると白煙の人型に向かって剣を構える。
ダルトンも異常に気付いたらしく、振り返って二人と人型を視界に入れた。
驚愕の表情を見せた男は、口を二、三度開閉させる。
「坊主……」
「ごめん……」
謝ってはみたもののこの失態は取り返せそうにない。
祭壇と人型に挟まれる形となったダルトンは、動きを制限されぬよう左へと跳んだ。人とも魔物ともつかぬ白い煙を睨む。 人型は、おおよそ大人の男と同じ体格をしていた。
目鼻はない。それが分かるほどはっきりした輪郭は人型にはなかったが、アージェは自分がそれに見られていることを気配で感じ取っていた。
人型のぼんやりとした顔の中、口のような膨らみが微かに動く。
「継承者よ」
男のものに聞こえるその声は、意外にもはっきりとした響きを持っていた。
アージェは緊張に固唾を飲む。疑っていた「彼女」の言葉が、こうして真実であると分かったのだ。
少年は半ば無意識に、剣を支える両手のうち左手に力を込めた。
指先が微かに痺れたような気がしたのは気のせいかもしれない。彼は人型の次の言葉を待つ。
白い人型はゆっくりと口元を動かした。
「継承者よ、何故今、此処に来た」
「………………なりゆき?」
自分でも酷い返答だと思ったが、アージェにとってはそうとしか言い様がない。
ダルトンやカタリナも息を飲んで見守る中、白い影は右手を上げた。そこに、両刃の剣の形をした白光が現れる。
「神具の継承には相応の力が必要だ。―――― だが呪われし継承者よ。お前には何も与えられることはない。
 それを知って、我に挑むか?」
「呪われし?」
継承者も初耳なら、呪いなどとやらも初耳だ。
アージェは思わず左手を睨んだが、「彼女」は何も言おうとはしなかった。
白い人型の斜め後ろからダルトンが問う。
「その挑戦っての、俺が代わることは出来るのか?」
「……出来る。が、出来ない」
「そりゃ何だ。どっちだ」
「代わって戦うことは出来る。だが、継承者の力以外は―――― 我には届かないのだ」
その言葉に、アージェはぱっと別の遺跡での一件を思い出した。
レアに連れられて入った遺跡。あそこで遭遇した黒い人影は、確かに普通の剣の刃が意味をなさなかったのだ。
そしてこの白い人型もそうであるのなら。
それはアージェをおいて、他に挑戦を受けられる人間はいないだろう。
ダルトンは少年の表情から彼の思考を読み取ったのか、あらためて人型に問うた。
「なら挑戦しないってのはありなのか?」
「神具の存在を知った者を解放することは出来ない」
「あーあ」
「あーあ、って言うなよ……」
あまり緊張感がないように見えるカタリナとアージェに、ダルトンは一瞬笑い出した。
だがすぐに真剣な表情に戻ると、男は人型に向かって剣を構えなおす。
「なら仕方ない。神具は要らない。けどあいつらを死なせる気もない。そのつもりで戦おう」
ダルトンの声には一切の気負いが感じられなかった。
だが彼が本気であることは容易に分かる。彼は立ち尽くしている二人に、この場から逃げるよう視線を送った。
しかしその選択肢は少年にはない。ダルトンに始末を押し付けて去ることなど、アージェには考えられないことだった。

白光の部屋。白煙の人型。
動かない発条仕掛けは、時の流れなど無意味であるかのように沈黙している。
アージェはもどかしげに左手の手袋を抜き去った。
黒に侵食された腕。それを人型は注視しているように思える。
カタリナが後ろからアージェに囁いた。
「ねね、後ろの扉が閉まってくんだけど……」
「言ってる間に逃げなよ」
「少年を置いて逃げらんないよ」
憮然としたような声にアージェは苦笑する。
彼にとってはむしろカタリナの方が危なっかしく思えて仕方ないのだが、彼女にとってはアージェの方が見捨てられない子供なのだろう。彼女はかぶりを振って少し下がったが、その時には既に扉はぴったりと閉まっていた。
人型は朗々とした声で言う。
「我の名はディスヴィウェルド。かつてこの地を治めし王の残滓。
 クレメンシェトラの騎士よ。若き継承者の挑戦を受けよう」
「……ああ」
―――― クレメンシェトラの騎士。
初めて聞くその単語の意味は、少年には分からない。
だが彼は割り切れない釈然としなさをその一瞬で振り切ると、刃こぼれした剣をディスヴィウェルドに向け、小さく頷いたのである。



ディスヴィウェルドには継承者の力しか効かない。
それが真実であるのなら、アージェは出し惜しみをしていられる場合ではなかった。
彼は黒い糸を隣で唸るルトへと繋げる。だが残る糸を剣に巻きつけようとした時、「彼女」がそれを留めた。
(まって、アージェ)
「何だよ」
(剣を、つくりなさい)
「剣?」
アージェはすぐに「彼女」が作った盾のことを思い出す。蜥蜴の毒液を防いだ小さな黒い盾。
そしてそれの元になっているのだろう「黒」は、アージェが取り込む以前は夜の闇に溶け込む不定形のものだったのだ。
沼であり人型であった「何か」。
それが異質の原型であるのなら、おそらく剣の形を取ることもまた出来るのだろう。
彼は手元の剣に目を落とす。
変貌したルトと繋がる糸をも視界に収めながら、アージェは繋がっていない分の糸を消そうとした。「彼女」の声が続く。
(ぜんぶ、けしなさい)
「全部? だってルトが」
(そろそろ、慣れたはず)
糸の力によってルトを変貌させるのは、これが三度目だ。
そしてその力をルト自身がもう制御可能と「彼女」は考えているのだろう。
アージェは迷って黒い犬の瞳を見る。
少年を見上げてくる琥珀色の目は鋭く、「自分に構うな」と言っているように見えた。
その目に押されて、アージェは覚悟を決めると糸を切り離す。
前方から水のような声が響いた。
「もういいのか? 継承者よ」
踏み込んでくる足音はしない。だが空気の揺れでアージェはそれを察した。
ルトと少年はそれぞれ左右に分かれて跳ぶ。一秒遅れて、ちょうど彼らのいた場所を白い剣が薙いでいった。
音のない、だが鋭い剣筋。普通の剣ではないそれを食らってどうなるかは分からないが、好奇心で受けてみることは出来なかった。
ディスヴィウェルドは息をつく間もなくアージェへと斬りかかってくる。
まだ普通の剣しか持たない彼は、その攻勢にひやりとしたが、白剣は彼に届く手前で速度を失った。
背後から素早くディスヴィウェルドの右腕を切断したダルトンは、無言で「距離を取れ」とアージェに指示する。

ダルトンの剣は重く、速い。
厚刃の大剣は真っ直ぐ白い肩に食い込み、そこから何の抵抗もなく腕を床へと斬り落とした。
だがそれも普通の相手ではないディスヴィウェルドには、僅かな間をもたらしただけである。
人型が落ちた右腕を一瞥すると、それは空中に浮き上がり、再び元の場所へと戻った。
カタリナが壁際で「うひゃあ」と感嘆の声を上げる。ダルトン本人は少し目を瞠っただけで、それ以上驚くことも怯むこともなかった。
彼は今度は人型の胴を狙い、その中程を薙ごうとする。
しかしディスヴィウェルドは振り返ると、白剣で相手の大剣を受けた。
打ち合わされる二色の剣。
音は鳴らない。しかし確かに伝わったのだろう手ごたえに、ダルトンが片目を細める。
ほんの刹那の膠着を狙っていたのか、ルトがディスヴィウェルドの背へと襲い掛かった。
アージェの力を得ているルトの牙は、人型に掠った場所から白煙をあげさせる。
それを不味いと思ったか、ディスヴィウェルドはダルトンと切り結びつつ、左腕で飛び掛るルトを振り払った。
まるで跳ね飛ばされた子犬の如く宙に放り出されたルトは、しかし四肢を曲げて床に降り立つ。
ダルトンは隙なき隙を両断するように、ディスヴィウェルドへ剣を振り下ろした。
人型は異様な身軽さでその剣をかわす。白光の剣が唸り声をあげるルトを牽制した。

三者による苛烈な攻防を、アージェは焦燥を抱いて見やる。
ダルトンの攻撃は、ディスヴィウェルドに傷を負わせることが出来ない。
だが斬られて束の間動きが鈍ることを嫌ってか、人型は白い剣でダルトンの剣を受け続けていた。
一方ルトの牙はディスヴィウェルドに効果をもたらすようで、人型はこちらの攻撃も受けたがらない。
ただ今のところ神具の守護者は、間断ない攻撃にも動揺を見せず、それらを淡々と捌き続けていた。
アージェは長剣を鞘にしまうと、左手に意識を集中する。
彼らがディスヴィウェルドと交戦している間に、剣を作らなければならない。
この戦いに決着をつけるにはそれが不可欠の要素で、アージェにはそのことがまず求められていた。
彼はかつて頭の中で糸を縒ったように、自身が黒い剣を取るところを強く意識する。
しかし頭の中に描く表象は、なかなか具体的なものにはならない。彼の想像の中で、剣は曖昧な輪郭さえ持ち得ずにいた。
焦りに歯噛みしそうな中、「彼女」が呟く。
(わたしが、すこし、ひらくわ)
「開く?」
(あなたには、はやい。―――― でも、おぼえていて)
それが何を意味するのか。
アージェにはすぐに分かった。否、分からされた。
頭の中をそっと切り拓かれるかのような感覚。脳髄を吸いだされるような圧迫感に、彼は息を詰める。
闇の沼を吸い込んだ時、異形として現れたルトと繋がった時、外から押し寄せてきた濁流とは違う。
内側から拓き、外へと結実させる―――― そんな真空を思わせる忘我が、アージェの精神を浸した。
とても長い時間に思えた数瞬。彼は意識の中で目を閉じる。
細く強く息を吐き出し、自我を取り戻す。
それだけの動作を強く記憶に焼き付けて、アージェは再び世界を見た。

その左手には漆黒の剣が一振り握られていた。